無垢なる毒婦
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美優がタカシの机から、あの純愛物の脚本を盗み出し、プロデューサーの高田に手渡した、まさにその日の夜のこと。
日付が完全に変わった深夜。静まり返ったアパートのドアが開き、美優が帰宅した。
「……美優、今日も撮影、お疲れ様」
タカシは電気も点けず、薄暗いリビングのソファに座ったまま、寝ずに彼女の帰りを待っていた。
「あれ、タカシ、起きてたの? どうしたの、そんな暗いところで」
美優はどこか落ち着かない様子で、だが取り繕うような笑顔を浮かべて靴を脱ぐ。その身体からは、相変わらずあの男の、甘ったるく不快な高級香水の匂いが微かに漂っていた。
タカシは静かに立ち上がると、震える声を必死に抑えて問いかけた。
「……美優。ここに置いてあった、俺の新しい脚本……知らないかい?」
その言葉に、美優は一瞬だけ目をごまかすように泳がせたが、すぐに何でもないことのようにあっけらかんと言い放った。
「あぁ、あれ? ごめんごめん、勝手に持ち出しちゃった。今日、プロデューサーの高田さんに渡してきたわよ」
心臓がドクンと嫌な音を立てるのを、タカシは感じていた。
「……高田さんに? 中を、見たのか?」
「ううん、見てないわよ。タカシが一生懸命書いてたから、早く業界のすごい人に見せてあげたくて。高田さんならきっと、タカシの才能を認めてくれると思ったの」
美優はそう言いながら、何一つ罪悪感など抱いていない、純粋で無垢な笑顔のままタカシの近くへと寄ってきた。
ふわりと、別の男の匂いがタカシの鼻腔をくすぐる。
美優はタカシの首に細い腕を絡めると、その唇に、軽くキスを落とした。
――チュッ、と、静かな部屋に生々しい音が響く。
「ふふ、貴方の書く美しい純愛作品は、きっと世界できちんと評価されると思うわ。私が保証してあげる」
高田に抱かれ、その男の香水とキスマークを全身に刻みつけてきたその口唇で、よくもそんな言葉が吐けるものだと、タカシの心は血を流していた。
「あ、それより聞いてよ、タカシ!」
キスを離した美優は、目をらんらんと輝かせて、自分の本題を切り出した。
「私、今の映画で『助演女優賞』の候補に上がっているらしいの! 監督からも、最近の美優の演技には、男を狂わせるような本物の『迫真のリアリティ』があるって、めちゃくちゃ評価されてるのよ!」
美優は嬉しそうに、タカシの胸に顔を埋めてはしゃぎ続ける。
「これからは、私が売れて、貴方のことをずっと養ってあげられるわ。だからタカシは、お家で安心して、私のために綺麗な純愛物語だけを書いていてね?」
養ってあげる、という傲慢な優しさ。
男を狂わせる、迫真のリアリティ。
「……そうなんだ。良かったじゃないか、美優……」
タカシは、美優の背中に手を回すことすらできず、ただ人形のようにぎこちなく笑うことしかできなかった。
視界が歪み、奥歯がガタガタと鳴り出しそうなのを、必死で噛み殺す。
(……迫真の演技、か)
(そりゃあ、そうだよな。裏で別の男と寝て、恋人を裏切る生々しい泥沼を――今まさに、この俺を相手に『実体験』してるんだもんな……!)
美優の無邪気な笑顔の裏にある、吐き気がするほどの裏切りの味。
タカシの心の中で、優しい「純愛」の欠片がパリンと音を立てて完全に粉砕され、既にどす黒い『呪詛』へと変わっているのを、美優はまだ何も知らなかった。
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