呪詛をインクに変えて
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――気づいていないとでも、思ったのだろうか。
深夜、這い寄るように俺の布団に潜り込んできた美優の身体から、自分のものではない、見知らぬ男の甘ったるく、ひどく不快な高級香水の匂いが漂ってくることに。
愛おしさを堪えきれずに抱きしめた彼女の、薄い衣類が擦れた瞬間。その隙間から覗いた白首に、夜の闇でもはっきりと分かるほど毒々しく、これ見よがしに刻みつけられたキスマーク(痕)に。
(これは……俺への、メッセージなのか……?)
もうお前なんて愛していないという、残酷で無言の宣告。それとも、別の男に蹂躙された事実を、俺にこれでもかと見せつけるための拷問なのか。
嫉妬と猜疑心で、脳味噌が沸騰して狂いそうだった。心臓を直接、冷え切った素手で容赦なく握り潰されているかのように痛い。呼吸をするたびに、肺腑にドロドロとした泥水を流し込まれているような息苦しさが俺を襲う。
だが、何故俺は何も言えない?
「その身体の痕は何だ」と、何故美優を強く問い詰めることすらできない?
……美優が掴みかけた女優の夢を、売れない脚本家でしかない俺のせいで壊したくないからか。それとも、決定的な真実を彼女の口から聞かされ、完全に拒絶されるのが、ただ死ぬほど怖いだけなのか。
いっそ、何もかも忘れて、このまま近くの冷たい海にでも身を投げてしまえば、どれほど楽になれるだろうか。
「……行ってきます」
翌朝、重苦しい沈黙を破って、美優は一度も俺の目を見ないまま、逃げるようにアパートを出て行った。
パタン、と虚しく閉まったドアの音が、この世界に俺一人だけが取り残された、完全な絶望の合図だった。
「――っ、う、あ、あああぁぁぁ……ッ!!」
美優の気配が完全に消えた瞬間、視界が涙で激しく歪み、今まで胸の奥で必死に堪えていたものが決壊した。
俺は冷え切った床に伏し、まるで迷子になった子供のように大声を上げて泣いた。声を枯らし、涙が血に変わるのではないかと思うほどに。己の無力さと、信じていた恋人の裏切りの痛みに身悶えしながら、ただひたすらに、喉が裂けるまで泣き続けた。
どのくらい、地獄のような時間が経っただろうか。
泣き腫らし、感覚の無くなった目をゆっくりと開けた時、西日の差し込む机の上に転がっている、一本の万年筆が目に入った。
美優が、初めての記念日に「いつかこれで最高の映画を書いてね」と、はにかみながら贈ってくれた、安物の万年筆。
(……そうだ。死ぬなら、死ぬ前に、書いてやる)
このまま、あいつらの都合のいい被害者のまま、惨めに消えてたまるか。
俺のすべてを裏切った美優へ、そして、彼女を奪って俺の聖域を踏みにじった見知らぬ男へ。
この胸を狂おしいほどに焼き尽くさんばかりの怨みと、絶望と、そして――どうしても捨てきれない、歪みきった愛のすべてをぶつけるように、俺は這いずるようにして机にしがみついた。
ガリッ、と、凄まじい筆圧でペン先が原稿用紙を削る。
これはインクではない。俺の命を、血を、魂のすべてを削り出した『呪詛』そのものだ。それを、狂ったように原稿用紙に叩きつけていく。
文字が躍る。怨念が、明確な形を成して紙の上で暴れ出す。
美優が期待しているはずの、あの優しくて生ぬるい「純愛物語」なんかじゃない。人間の底の底に眠るドロドロとした醜悪な業、裏切り、欺瞞、そして支配欲を剥き出しにした、鬼気迫る異形のサスペンスシナリオ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
最後の1文字を書き終えた瞬間、パチンと糸が切れたように、万年筆が手からこぼれ落ちた。指先は真っ赤に充血し、文字通り狂気的な熱を帯びて小刻みに震えている。
「できた……」
俺は完成した原稿を、震える手で紐で綴じると、燃え尽きたようにデスクの上へと放り投げた。
それは、売れない脚本家だったタカシが、自らの命の炎をすべて薪にして産み落とした――のちに芸能界のすべてを恐怖で支配し、焼き尽くすことになる「怪物の産声」だった。
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