背徳の命令
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行為の後。高級ホテルのスイートルームには、微かに甘ったるい、それでいてひどく不快な香水の残香と、重苦しい沈黙だけが支配していた。
美優は天蓋付きのキングサイズベッドの上で、シルクのシーツを首元まで強く引き上げ、ただ死んだ魚のような目でじっと天井を見つめていた。
視界がかすみ、頭の芯が痺れている。ほんの数日前まで、自分が六畳一間のアパートでタカシと笑い合っていた世界が、まるで遠い前世の出来事のように感じられた。目の前にある現実が、ドロドロとした歪んだ形に反転していくかのような、凄まじい虚無感に全身が押しつぶされそうだった。
ベッドのすぐ横、大理石のサイドテーブルに浅く腰掛け、高田は手慣れた手つきでライターを灯し、高級なタバコに火をつけた。
カチリ、という冷たい金属音が、美優の鼓膜を不快に震わせる。
ふぅ、と吐き出された灰色の紫煙が、豪華な室内の天井へとゆっくり、不気味に広がっていく。高田はその煙の向こうから、値踏みするような視線を美優へと向けた。
「……なぁ、美優。タカシ君とは、今もちゃんと寝てるのか?」
高田が煙を吐き出しながら、あまりにも何気ない、日常の世間話でもするかのようなトーンで問いかけてきた。
その言葉に含まれた異常なニュアンスに、美優は心臓を素手で掴まれたようにギョッとして、涙に濡れた瞳を大きく見開いた。
「えっ……? な、何言ってるのよ……寝れるはずないじゃない……! 毎日、あなたに……こんな、体中に消えない跡を残されて……っ!」
自分の声が、惨めなほどにガタガタと震える。
タカシの顔を思い浮かべるだけで、胸を掻きむしられるような罪悪感に押しつぶされそうなのだ。彼がどれだけ純粋な気持ちで自分を支えてくれているか知っているからこそ、高田に汚されたこの身体でタカシに触れ合えるはずがない。いや、触れてはならない。それが美優に残された最後の、そして唯一の引き際のはずだった。
だが、高田はそんな美優の涙を憐れむ風でもなく、ただ退屈そうに「はぁ……」と深く、吐き捨てるようなため息を吐いた。
「これだから素人は。想像力が致命的に足りないな。……いいか、これは命令だ。タカシとも、毎日寝ろ」
低く、冷酷で、一切の反論を許さない逃げ場のない声。
その言葉が突き刺さった瞬間、美優の心臓がドサリと重い音を立てて奈落へと落下した。
「どうして……!? そんなの、無理よ……! 私、どんな顔をしてタカシに会えばいいの……? どんな気持ちで、彼を抱きしめればいいのよ……っ!」
半狂乱になって泣き叫びそうになる美優を、高田は灰皿にタバコの先端をじわりと押し付け、火を消しながら見下ろした。その唇の両端が、酷く歪んだ三日月のような笑みを浮かべる。
「いいか、美優。お前がタカシに向ける果てしない罪悪感、裏切りの背徳感……それだよ。そのドロドロとした黒い感情こそが、お前の薄っぺらい魂をすり潰し、泥水をすすらせ、お前の演技をさらに狂気的なまでに磨き上げるんだ。ただの綺麗な人形に、観客は金を払わない。身を切るような絶望を知った人間にしか、本物の演技はできないんだよ」
高田はゆっくりとベッドへ這い寄ると、怯える美優の細い顎を強引に指先で掴み上げ、その耳元で愛を囁くように、残酷な言葉を這わせた。
「それだけじゃない。お前がそうやって何食わぬ顔で裏切りを重ね、変わっていくことで……あのタカシという男を内側からジワジワと、徹底的に壊すんだよ。愛する女に裏切られ、絶望の深淵に叩き落とされた男が書く脚本が、どれほど美しく、狂気に満ちた傑作になるか……。お前たちは二人揃って、俺というプロデューサーが創り出す、最高傑作の『素材』になるんだよ」
美優は、指先から全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。
目の前にいるこの男は、人間ではない。
自分の身体だけでなく、タカシの魂、そして自分たちの人生のすべてを喰らい尽くし、芸術の燃料にしようとしている本物の怪物だ。その恐怖に、美優は歯をガチガチと鳴らすことしかできなかった。
深夜、終電をとうに過ぎた街をタクシーで抜け、美優は這うようにして静まり返ったアパートへと帰宅した。
ドアを開けると、いつもの見慣れた狭い六畳一間の暗闇が広がっている。高田の言葉が、呪いのように美優の身体を縛り、動かしていた。
美優は服を着替える気力もないまま、暗闇の中でそっとタカシの万年床へと潜り込んだ。
すると、美優の気配を察したタカシが、寝惚け眼のまま、何も知らずに愛おしそうに手を伸ばしてきた。自分を優しく抱きしめてくる、タカシの温かい腕。その胸に顔を埋めた瞬間、彼特有の、安心するおひさまのような匂いが鼻腔をくすぐる。
「おかえり、美優。遅かったね……お疲れ様」
その無垢で、優しさに満ち溢れた声。それが、今の美優にとってはどんな刃物よりも鋭く、その胸をズタズタに切り裂いた。
(ごめんなさい、タカシ……ごめんなさい、ごめんなさい……!)
美優は暗闇の中、タカシに涙の顔を見られないよう、彼の背中にぎゅっと縋り付いた。指先が震え、彼のシャツ越しに爪が食い込む。高田に命令された通り、自分は今、この手でタカシを殺そうとしている。その圧倒的な恐怖と悲しみに、声を殺してただ激しく涙を流すしかなかった。
タカシは、背中に感じる美優の微かな震えを、ただ仕事の疲れによるものだと思い、あやすように彼女の髪を優しく撫で続けた。
――そしてその日から。
激しい夜を終えて帰ってきた美優の肌から漂う、自分のものではない「見知らぬ男の匂い」。そして、触れ合おうとするたびにビクリと跳ねる、彼女の異常な怯え方と、暗闇の中での不自然な涙。
それらの違和感が、タカシの精神を、内側からジリジリと、確実に狂わせていくことになるのだった。
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