魂を売るための「実体験」
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深夜一時。
築三十年の木造アパートに、軋むような音を立ててドアが開く音が響いた。
「ただいま……」
入ってきた美優の顔は、廊下の微弱な電球に照らされて、幽霊のように青白い。
俺は机の上のペンを置き、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「美優! 今までどこにいたんだ? 何かあったのか!?」
心配で、焦燥で、胸が張り裂けそうだった。携帯に何度連絡しても繋がらず、最悪の事態――事故や事件――が頭をよぎっていたからだ。
詰め寄る俺の問いかけに、彼女は視線を泳がせ、何度も瞬きを繰り返す。その瞳には、今まで見たこともないような濁った陰が宿っていた。
「ごめんなさい……ドラマ出演が決まって。その……プロデューサーさんと、打ち合わせが長引いちゃって……」
「ドラマ!? 本当か!? あんな大手、一度落ちたはずじゃ……」
「……別の作品なの。脇役だけど、私の演技が認められたの。だから、タカシ……」
彼女は何かを言いかけて、唇を強く噛んで止まった。
俺はそんな彼女の微かな異変に気づきもせず、ただ歓喜の波に飲まれていた。
「そうか、良かったな美優! ほら、やっぱりお前の才能を見てる奴はいるんだよ!」
感極まって、俺は彼女の細い肩を抱き寄せようとした。
けれどその瞬間、美優は俺の手を拒絶するように力なく押し返した。まるで見知らぬ「汚れ」を避けるような、反射的な拒絶反応。
「ごめん……今日、すごく疲れてるの。シャワー浴びてくるね」
逃げるようにバスルームへ向かう彼女の背中。すれ違いざま、彼女の髪から――普段使っている安物のシャンプーではない、重厚で、支配的な男の香水の匂いが、ふわりと鼻腔を掠めた。
バスルームから聞こえてくる、激しいシャワーの音。
彼女は今、何を必死に洗い流そうとしているのだろうか。
俺は、机の上に広げられた「純愛脚本」を見つめながら、言いようのない不穏なノイズが胸の奥でざわつくのを感じていた。
**
五時間前――。
高田の運転する高級車の車内は、本革の匂いと、抗いがたい支配的な静寂に包まれていた。
美優はそこで、自分の夢と、そして、タカシのことを、祈るような気持ちで語っていた。
「タカシのシナリオは、すごく綺麗で愛に溢れているんです。いつか彼の書いた脚本で、私がヒロインを演じるのが……二人の、たった一つの夢なんです」
ハンドルを握る高田は、薄いレンズの奥で目を細めた。
(愛に溢れたシナリオ、ね。そんなベタな綺麗事は、今の視聴者にはただのゴミだ。世間が望んでいるのは、もっと泥臭くて、救いようのない、他人の『堕落』だというのに)
高田は心中で毒を吐きながらも、聖職者のような優しい声色を作った。
「いい話だ。二人三脚で夢を追う……素晴らしいじゃないか。よかったら、今度その脚本を見せてくれないかな?」
「えっ、本当ですか……! お願いします!」
食いついた。美優の瞳に、一筋の希望が灯る。
高田はそれを見て、心の中で醜悪な舌を出した。
(この女に、その恋人の脚本を自分の手で『否定』させたら、どんな絶望した顔をするだろうか。……楽しみだ)
高田は路肩に車を止め、ゆっくりと美優の方へ向き直った。獲物を追い詰めた獣の沈黙が、車内を満たす。
「今回のオーディションは残念だった。だが、君には別の作品を用意しよう。……ただし、美優さん。君の演技には決定的な『深み』が足りない。もっと、魂を削り、理性を焼き切るようなリアリティが必要だ」
「リアリティ……?」
「ああ。実体験こそが、最高の演技を作るんだよ。……君がこの『地獄』を乗り越えれば、一躍スターダムだ。……役作りのために、君にはまず、今のぬるま湯のような生活を捨ててもらうことになるかもしれないが……やるかい?」
高田の指先が、美優の震える顎をゆっくりと持ち上げる。
アパートで待っている、俺の笑顔。
けれど、目の前にあるのは、喉から手が出るほど欲しかった「光」へのチケット。
「次の企画のタイトルを教えてあげよう」
高田の唇が、呪いのような言葉を吐き出した。
「タイトルは――『堕落』だ。君が、その美しい恋人を裏切り、泥を啜りながら堕ちていく……そんな、最高の役だよ」
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