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「闇深淵」(『晩歌 -BANKA-』)⑤


          *   *   *


 私たちがあの時、「祠」から地下に忍び込んだ事は、結局今になっても当時周囲に居た大人たちは誰も知らない。少なくとも、その後私たちが誰かに注意を受ける事んどはなかった。

 だから、団地で異変が起こり始めた時、それがややもすると地下で自分たちが目にしたものに何らかの関係があり、縛(いまし)められていた何かを自分たちが解いてしまったのではないか、という推測を立てられたのは私たち自身だけだった。皆、殊更(ことさら)に話し合わずとも、自然にそのような気になっていた。

「一階の藤井(フジイ)のお爺ちゃんの部屋、床上浸水があったらしいの」

 最初にその報せを告げたのは、私たちの中で唯一B棟に住んでいる環だった。

 私たちが地下を探検した二日後の事だ。朝には既にB棟の浸水は話が広まっていた為、前日の夜には既に事は起こっていたという事になる。これで、私たちがこの事と地下での一件を結びつけて考えないはずがなかった。

「お母さんが言ってたの。おかしいと思わない? 最近、雨なんて全然降ってないはずなのに」

「地下から水が漏ったって事? まさか」

 未来は、有り得ない、というように首を振った。いつものビオトープの脇で、メダカの観察日記をつけながらの話だったが、私も皆も、鉛筆を動かす手は遅々として進んでいなかった。

「地下は少なくとも、地上から五メートルは潜った所だったじゃない。それに空間も広かったし、床上まで溢れ出すくらいだったら物凄い量の水で満たされていたって事になるよ」

「しかもそれなら、浸水が一部屋で済んだっていうのもおかしいよな」

 将は、腕を組みながら唸っていた。

「その浸水って、どの程度の規模だったんだ? 床板が少し濡れるくらいか? それとも床一面水浸し、みたいな?」

「普通に、一センチは水位があったって。紙とかが浮くくらい。玄関はちょっと低くなっているからそっちに水が流れて、靴が浮かんだとか。何処かから水が湧いているのを確認した訳じゃなくて、気付いた時には止まっていたみたいだったから、周りには大きな影響は出なかったんだけどね」

「そりゃそうだ。もしまだ水位が上がるようだったら、水道局の人を呼んで調べて貰わなきゃいけないところだっただろう。今頃、B棟全体でもっと大騒ぎになっていただろうよ」

 将の言葉に、環はこくりと肯いてから続けた。

「でも、危ないところだったのは本当。藤井さん、布団で寝てるみたいだから、もしあのまま水が増えていたら大変だったんじゃないか、って」

「………」

 私たちは顔を突き合わせ、沈黙した。やがて、

「──怖い」

 環は、思い切って告白する、という風(ふう)にそう言った。

「心当たりがあるだけに、余計に」

「……やっぱり、そう思うよな」

 隆矢は、皆考えている事は同じだろう、という調子だった。

「俺たちの見た、あそこの件」

 私は沈黙を保ちながら、あの地下の最果てで自分たちの見たもの、そして私と共に外へと駆け出して行ったようなあの気配を思い出していた。

 最初、私は、自分が何か良くないものに憑かれたのではないか、という考えを胸中に抱いた。……「憑かれた」という言葉は実際にその時頭に浮かんだもので、それは普通の時に聞けば笑ってしまいそうになる程陳腐で、一周回ってありきたりとすらいえるものだったが、その時には異様な生々しさを伴っていた。

 しかし、時間が経ち、実際にこのような事が起こってから思うと、私があの鉄格子を潜った時には感じられた嫌な感覚が、その後私に続いて出て来た未来たちには感じられなかった事には別の説明がつく。

 あくまで、そういう不可解なものの存在を前提とした推測ではあるが、それは、私が鉄格子を潜った時点で、既に外に出るべき何かは脱出を終えていた為ではなかったのか。

 それは私たちが地上に出るまでの間に既に動き始めており、団地に何らかの影響を及ぼし始めたのではないか──。

 荒唐無稽な話だ。しかし、

「無理もないよ、そう考えちゃうのはさ」

 将のその言葉が、私たち皆の気持ちを代弁していた。

「どう考えても普通じゃなかったよ、あの光景は。あんなものがあるなら、もう何が起こったとしても不思議じゃない──そんな気がするんだ」


          *   *   *


 話し合ったところで、だから自分たちに何かが出来るという訳でもない事は、私たち皆が理解していた。

 地下に、入口があった以上明らかに団地が造られた後で掘られたらしいトンネルがあり、その奥にあのようなものがあったのだから、管理人さん──彼の父親が先代の管理人で、彼は二代目だった──に聞けば何か分かるかもしれないし、そこまで行かずとも、私たちがこっそり地下に忍び込んだ事を話せば大人たちが詳しく調べてくれるかもしれない。しかし、それらもただ叱責を受けるのが関の山で、いい方法だとは思えなかった。

 そもそも管理人さんが何かを知っているのだとしたら、地下から水が染み出したらしいこの一件を耳にした時点で、勘づいて地下を調べようという話になったのではないか。それをしなかったという事は、管理人さんも私たちの見たあの光景については何も心当たりがないという事なのではないか。

 私たちの眠っている場所のすぐ下で、何か想像も及ばないようなものがこれまでも人知れず蠢いていたのだと考えると、ぞっとするものはあった。

 しかし、この時点で「ひとまず様子見」という選択肢を採った私たちは、まだ認識が甘かったのだろう。

 たかが一部屋に謎めいた浸水があっただけだ──そう考えて、無理矢理自分たちを納得させようとしていたのかもしれない。


          *   *   *


 浸水が起こったのは、B棟の一室だけではなかった。隣接するAからDまでの各棟で連日同じような報告が相次ぎ、予定されていた基礎ブロックの補強工事の日程が繰り上げになった程だ。

 私たち百沢一家が、工事に伴って移動する以前に住んでいた部屋でも浸水があったという話を聞き、私も家族も面食らった。もしもあのまま以前と同じ部屋で暮らしていたら、諸々の財産が大被害を被(こうむ)ったのではないか。

 そのような事が続き、管理人さんはとうとう水道局の人たちに調査を依頼した。私たちは、この間探検で入った時には、敷地の三分の一程を埋める程の範囲に広がっていたあの空間に下水道のようなものはなく、更に深くまで降りる階段なども発見出来なかったのに、何処を調べるのだろう、と話し合った。その時点で、あの空間が団地の構造的に有り得ないものである事は明白だったが、子供心にそのような「具体的に何処がおかしいのか」という事までは考えが及ばなかった。

 調査を行った担当者たちは、私たちが「地下のあの空間に繋がっているのだな」と考えた、A棟のマンホールから降りて行った。というのは、浸水被害の大部分はA棟で起こった事だったからだ。

 無論、私たちは実際にその調査に立ち会った訳ではない。結果だけを管理人さんから伝えられ、上下水道で異常は特に見つからなかった、という事だけが後になって分かった。

 私たちの見たあの場所については、一言も言及されなかった。

 ここに至って、住民たちは、災害を恐れるのとは根本的に異なる性質の怯えをこの件に対して抱き始めたようだった。彼らもまた、私たちと同じように、何やら超自然的な事が起こっている、という事を理解したのだ。

 それは、新たな異常が起こった事で決定的なものになった。


          *   *   *


 到着の遅れていた機械が届き、工事の関係者たちがそれを「祠」から地下へと運び込んだ時の事だった。

 私たちは一週間程前から団地で起こり始めた浸水騒動に気も漫(そぞ)ろという毎日を過ごしていたのだが、誰からともなく日常を取り戻したいという気持ちで、努めて以前と変わらないように皆で遊んでいた。

 これまでのように皆で集まり、「作戦」に出掛けたりなどしていると、幾分かは張り詰めている気持ちが楽になるようだった。そういう時は私たちも決して無理をして明るくしようとしている訳ではなく、将や隆矢が冗談を言ったり、愉快な出来事があれば自然に笑ったし、心から楽しいと思っていた。適切な喩えかどうかは分からないが、例えば不治の病で余命を宣告された患者がそれを迎えるまでの間、ずっと鬱々として過ごすかといえばそういう訳でもなく、楽しい事や嬉しい事があれば本心から笑うだろうが、私たちもそのような心情だった。

 その日も私たちは市内の科学館で催されていた小学生向けのイベントに足を運んでおり、団地には居なかった。だから、夕方に帰った時、敷地のすぐ外に救急車が停まっている光景を目にした時には、何が起こっているのだろう、と、即座に状況を理解する事が出来なかった。

「大変なのよ。さっき地下の機械室で、作業員さんが倒れているのが見つかって」

 丁度、ストレッチャーに載せられた二人の作業員が救急車の中へと運び込まれるところだった。

 未来が、野次馬のおばさんに「何かあったんですか!?」と勢い込んで尋ねたところ、そのように説明された。

「午後になって入って行った人たちが戻らないから、さっき監督が様子を見に行ったのよ。そしたら、彼らが倒れていたんだって。皆気を失っていて、口から水が溢れてて……心臓が凄く弱まっていた人も居たみたい」

「それって──」

 未来は途中で言葉を切ったが、彼女が何を言おうとしたのかは明らかだった。

 それは、溺れたという事ではないのか。話を聞く限り、地下が浸水していたなどという話でもないらしい。それでは作業員たちは、水のない場所で溺れ、心停止の一歩手前まで行ったというのか。

 私は、俄かに眩暈(めまい)を覚えた。思わずふらついてしまい、将から「おい」と声を掛けられて背中を支えられた。「大丈夫か?」

「大丈夫……じゃないかも」

「明日──」

 未来が言いかけた時、母が私を迎えに来た。

 きっと未来は、「明日もう一度皆で集まろう」と言いたかったのだろう。元から私はそのつもりだったし、特に何も起こらなかったとしても、私たちはいつも誰からともなく自然に集まるのが普通だった。

 それじゃあ、と他の四人に手を振り、私は母と共に自分の部屋へと戻った。

 その夜は、寝ている間に溺れるのではないかという事に怯え、一晩中眠れなかったが、それは未来たちも同じだったらしい。

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