「闇深淵」(『晩歌 -BANKA-』)④
* * *
道が緩やかな下り勾配になった事に気付いた時、壁はいつの間にかコンクリートから赤茶色の煉瓦に変化していた。
壁に沿って続いていた鉄管はいつの間にかなくなり、梯子も四本目以降は出現しなかった。時折曲がりながら何処までも下降を続ける通路に、私は「自分たちはどれくらい深くまで潜ったのだろう」と思った。
未来が「懐中電灯が切れそうだ」と言い出したのは、壁の変化に気付いてから十分程が経った時の事だった。
「点滅してるよ、これ」
「電池の残ってないやつ持って来たのか、組長?」
呆れたような将の言葉に、未来は「だって」とやや唇を尖らせた。
「これ、今まで『作戦』に使ってきたのと同じやつだし。電池がどれくらい残ってるか、なんて分からないでしょ」
「だとしたら、私たちのもちょっと危ないんじゃない?」
環が指摘したので、私たちはそれぞれの懐中電灯を見つめた。
「ここからは、電池を温存しよう。一本ずつ、皆で使う。それが切れたら次の一本を点けて、切れたらまた一本、って感じで。とはいえ、さすがに戻るまでに五本全滅なんて事はないと思うけどね」
未来の提案で、私たちはまず、寿命が来そうな彼女のものを残してそれぞれの電灯を消した。灯りが五分の一となった周囲は急に暗くなり、三メートル先を見るのがやっとという状態になった。そこで私たちは、地下に入ってから不思議な程、自分たちの目が暗闇に慣れていない事に気付いた。
──否、確かに私たちの瞳孔は開き、光を拾いやすくなってはいたのだろう。しかし、元の暗さが尋常でなく、多少光が拾いやすくなったところで目に見える程の変化は来さなかったのだ。
外光が一切入らないのだから、それも当然だ。だが、こちらも電灯は点けていたのだし、それにしても、という気分だった。
しかし、未来の電灯が電池切れを迎える前に、私たちはそれらしい場所に到達する事が出来た。
更に二十分程下降を続けた頃だろうか、唐突に、前方に鉄格子が現れた。天井から行く手を塞ぐように下りているが、酷く錆びついている為途中で閊えてしまったのだろう、地面との間に、屈めば潜り抜けられる程の隙間を残していた。その近くまで行き、奥を照らしてみると、そこで道は遂に行き止まりになり、その壁際に、明らかにこの場所にはそぐわない大きな岩の塊が置かれていた。
「何だろう、あれ?」
環が、誰に尋ねるともつかない調子で呟いた。
「表面に何か書いてあるみたいだけど……文字か? いや違うな、模様か? よく見えない」
隆矢が、自らの電灯を点けて岩の表面にその光を這わせた。それから、鉄格子の下の隙間を爪先で示しながら
「行ってみようか?」
と皆に聞いた。
あとはもう、行き止まりだ。接近して、明らかに天然のものらしいその岩が何なのかを確かめてから戻るだけであれば、そう時間の掛かる事でもない。
私はそう思っていた。恐らく、他の皆もそうだっただろう。
しかし何故か、私たちは皆、咄嗟に返事が出来なかった。何故か、岩を──正確にはその上に記されている模様のようなものを──見た瞬間に、やめておけ、と誰かから囁かれたような気になっていたのだ。
と、いうのは全てが終わった今だからこそ思う事であり、その時私たちが感じていたのは、漠然とした「嫌な予感」だった。最初、私は自分以外の皆も動き出そうとしないのでもしかしたらとは思ったが、後になってからその時に思っていた事を未来たちに尋ね、彼女たちも同じように感じていた事を知った。
十数秒間、私たちはそこで佇んでいた。が、真っ先に意を決し、身を屈めたのは将だった。
「俺、ちょっと見てくるわ」
そのまま這い蹲るようにして鉄格子と床の隙間を抜け、奥に入り込む。環があっと声を上げ、彼に続いた。
「一人じゃ危ないよ!」
或いはそう言った事が、彼女も何かを感じていた事の証左だったのかもしれない。
「………」
残った私、未来、隆矢は顔を見合わせたが、結局彼らに続く事にした。一人ずつ屈み込み、将と環の潜った隙間を抜けた。
私はその途端に、地下に入った時から感じていたぬるま湯に浸かったような感覚が変化するのを覚えた。同じく、水の中に入ったような──但し今度は、冷水に頭から沈められたような。
気温の変化ではなく、動物的な直感によるものだった。同時に、地下に蟠っていた闇が急に質量を持ってこちらに伸し掛かってきたかのような重苦しさも、同じく精神的なものとして感じられた。
何か良くない事が、この場所で起こったのだ。そんな予感を抱いた。
悲惨な事故の現場などには、あまり近づきたくない。それは、心の何処かで、その場所から何らかの”感化”のようなものを受ける事を恐れる為だろうと思う。この時私が感じたのは、まさにそのような感覚だった。
未来たちもそれは感じていたのだろうが、足を止める事なく将と環の居る岩の近くまで進んでいた。そうなると一人だけが引っ込んでいる訳にも行かず、私も彼らの元へ駆け寄った。
「何か分かったの?」
「依里、これって……?」
環は怯えたような声を出し、小刻みに指先を震わせながら岩の表面を指差した。
そこに視線を落とし、私は息を呑んだ。岩の表面に見えていた文字か模様のようなものは、全て黒い染みだった。しかもそれらは、皆何処となく人の手形のようにも見えるのだ。
何の染みか、という事を、殊更に考える必要はなかった。それは、体外に出て乾いた血液としか見えなかったからだ。
私と同じ事を思ったのか、皆、何も言わなかった。
やがて未来が、
「戻ろう」
何もコメントする事なく、そうとだけ言った。私たちは無言のまま神妙に肯き、入った時と同様、一人ずつ格子の隙間を抜けて通路へと戻ろうとした。
最初に復路に就いたのは、いちばん後から岩の所へ行った私だった。身を屈め、入った時と同じように隙間を潜る。服の裾を引っ掛けないように立ち上がり、手に付着した埃混じりの砂を払い落とした。
その瞬間だった。
──ゴオオオオオオオオッ!!
貨物列車が通るような、強風で大きな物体が舞い上がるかのような低い音が、耳鳴りのように頭蓋の側面辺りで響いた。と同時に、背後から鉄格子を通過し、思わず背を丸めたくなる程の圧力が襲い掛かった。
あたかも、自分の周囲を大きな動物の群れが駆け抜けて行ったかのようだった。しかし、私が身を強張らせた次の瞬間にはそれらは既に過ぎ去り、電車が走り去った後のような残響のみが縷々と尾を引いていた。
私はそれが去っても、暫しその場から動く事が出来なかった。
──今のは、何だったのか。
そう思ってから、心臓の鼓動が全力疾走をした後の如く激しくなっている事に気付いた。
「……り? 依里、どうしたの?」
環に声を掛けられ、私ははっと我に返った。
「そこに立たれてたら私、出られないよ」
「ご、ごめん……」
私は振り返り、慌てて鉄格子から離れた。環が潜り出て来、彼女の後から残り三人も続いて来た。
その際、誰も私と同じような反応をした者は居なかった。未来は格子の向こうの岩の方を気味悪そうに振り返ってから、靉靆とした気分を振り払うかのように声の調子を上げ、手を叩いた。
「ひとまず、調査は完了って事で。早く出よう」
「あ、ああ……そうだな」
将が肯き、一同は歩き始めた。私も歩き出そうとしたが、未来が私の横を通り過ぎるタイミングで足を止め、「大丈夫?」と囁いてきた。
「依里、顔が真っ青になってるよ。確かに、私も怖かったけど──」
「ありがとう。でも、何でもないよ、本当に」
私は無理矢理笑みを浮かべて見せながら、彼女にそう返した。未来はまだ心配そうな調子で、やや言葉を探すように唇を噛んでいたが、「それならいいけど……」と歯切れ悪く言いながら皆の先頭に行った。
地図に視線を落とし、現在地は何処なのだろうか、と考えた。何度も曲がり、地下に下り続けて来たので正確な事は分からなくなってしまったものの、真上は恐らく団地の敷地の外れなのではないかと思った。
防火水槽のある辺りだな、と考えた瞬間、また身震いが起こった。




