「闇深淵」(『晩歌 -BANKA-』)⑥
* * *
「そもそも、私たちが入ったあそこは本当にあったのかな?」
団地に居るのが何となく怖かったので、翌日私たちが集まったのは、例の敷地のすぐ外にある公園だった。
ベンチに腰掛けながら、そう言い出したのは環だった。
「工事の人たち、機械室で倒れてたって事だったよね? だけど私たち、この間はそんな場所には行き当たらなかった。大体、意味もなくあんな迷路が地下に作られてるなんておかしいよ」
「やめてくれよ……そうだとしたら、俺たちは一体何処に行っていたんだ?」
隆矢が、両目の下に隈を色濃く浮かべながら言った。顔色は悪く、顳顬から止め処なく汗を流していたが、それは八月下旬の暑さによるものではなく冷や汗であるようだった。
皆、水のない場所で人が溺れたという事に怯えきっていた。あの床上浸水の一件を通して「溺れるのではないか」という危機感を抱いていただけに、安全な場所が何処にもなくなった、という思いだった。
私の脳裏に、ふと、団地全体が水底に沈んでいる光景が浮かんだ。見上げた頭上に歪んだ水明かりが揺らめき、泡が立ち昇っている。団地は塀で囲まれているとはいえ屋外である事には変わりないので、その場合は水没している範囲を想像する事すら難しい。
「……もう一回」
そう言ったのは、未来だった。
「私たちで、あの中に入って調べてみない?」
「嫌だよ」環が、即座に否定した。「私たちだって、あの工事の人たちと同じ目に遭うかもしれないんだよ」
「今度は、あんなに奥までは行かない。入口から少し入って、水道とか機械室とかそれっぽい場所に出るのか、それとも私たちが出たあの通路のままなのか、それを確かめるだけ」
「もし違っていたら……?」
「私たちは、あの時この世界じゃない何処かに行っていたって事になる」
未来の口調は、その時はその時で、どのような事でも受け入れるしかない、という語られないニュアンスを孕んでいるようだった。
「だけど、今度は強制出来ないな。私は一人でも調べるつもりだけど、確かに危険は危険。もしも、皆の中に気が乗らないって人が居たら、無理に着いて来て、なんて事は言わない」
彼女の言葉に対して、
「それは、ずるい言い方だよ」
将が言った。
「そんな事言われたら、組長に何かあった時どうするんだよ、俺たち? お前が行くなら、俺たちも行く事になるんだろ?」
「そりゃそうだ」
環も、端から降りるつもりはない、という調子だった。
「確かに怖いけど、このまま何も分からないまま、怯えっぱなしで過ごす事になるのはもっと嫌。私たち皆、一回──行っちゃってる訳だしね、この世界じゃない何処かってところに」
「それは、言葉の綾というか……」
未来は言ったが、将、環に続いて隆矢も肯いた為、途中で言葉を切った。
私は正直なところ、行きたくはなかった。が、他の皆が行くというのに一人だけ何もしない、というのは、何となく後ろめたさがあった。ので、
「私も行く」
結局、そう言った。
未来は私たちを見回し、「ありがとう」と言ってから目を伏せた。
「これで皆に何かあったら、組長失格だよね」
* * *
「で、結局今でも真相は分からずじまい……か」
隆矢が、溜め息交じりに言った。
高校生になった私たちの眼前に広がる更地を見ても、団地時代、何処に何があったのか見当をつける事はもう難しい。ビオトープも花壇も、「祠」があった場所も最早定かではない。
きっと「祠」が取り壊された時、地下はコンクリートを流し込まれて埋められたのだろう。そこに上下水道があったのか、機械室があったのか、それともあの迷路のような空間が広がっていたのか、今となっては知る術はなかった。
あの後私たちは、一回目のように各々リュックサックを背負い、今度は電池を入れ替えた懐中電灯を携えて「祠」へと向かった。が、私たちが入ろうとした時、作業員の人が現れた為に行動は中止せざるを得なくなった。その翌日には、以前と同じように「祠」には扉が取り付けられ、固く施錠されてしまった。
その後改めて大人たちが調査を行ったのか、もう誰も立ち入る事がなかったのかは不明だ。ともかく夏の終わり頃、唐突に改修工事は中止となり、その後間もなく、住民会で管理人さんから団地の経営を終了するという発表があった。
事情を知らない住民たちからは、あまりに唐突だという抗議の声も上がった。しかし、それでも多くの住民が比較的スムーズにそれを受け入れたのは、やはり大規模改修の行われている最中に謎の浸水があったという事、更に時期を同じくして作業員が不自然な「溺れ方」をした事で、管理人さんがあえて詳細を語らなかったのであろう事情について、何となく察しがついた為だろうと思う。
私たちは、恐らく管理人さんはあの後、団地に良くないものが居るという事について気付いたのではないだろうか、と話し合った。その為、元々大規模改修が必要な程に建物全体が老朽化していた事もあり、潮時だという判断を下して経営終了を決意したのではないか、と。
しかし──ならばその”何か”は、管理人さん自身では手に負えないようなものである事が分かった、という事だろうか。
管理人さんから団地の経営終了が告げられるのと前後して、徐々に増えつつあった床上浸水は再び放物線の頂点を通過したかの如く減少していき、秋が始まる頃くらいにはぴたりと止んでいた。工事関係者が撤収し、「祠」が以前と同様完全封鎖されてからは、誰かが水のない場所で溺れていた、などという不審な出来事も起こらなくなった。
それで却って、小学生最後の夏は、梅雨のような、べたつくような後味の悪さを残して去って行った気がした。
何か、そこにあってはならないものとたまたま道で擦れ違い、後から考えてもどうしてもその正体が分からなかった、というような感じだった。
「……あれさ」
環が、ぽつりと呟いた。
「ここに、まだ居るのかな? 管理人さん、こうして工事が始まるまで、団地を壊しても土地だけは持ち続けてた訳でしょ? 買収される時、ここでああいう事があった事、ちゃんと市の人に伝えたのかな?」
「居るって、別にはっきりと分かっていた訳じゃ──」
未来は言いかけたが、その途中で言葉を切った。数秒の後、
「……そうね」
ふっと息を吐き出しながら言った。
「だけど、もうどうにもならないんじゃない? あそこに何が居たんだとしても、もうそれは埋められてしまった」
私たちはもう一度、無言で団地のあった場所を見回した。
本当に何もなくなってしまったな、と思ってから、ふと胸裏で、私がこの街を去る事になったのは、もしかしたら幸運な事だったのかもしれない、という考えが頭を擡げた。
私たちはそれから、事前に立てていた予定の通り、カラオケに行ったりゲームセンターで遊んだりし、再会した旧友たちがそうするように楽しい時間を過ごした。食事をしながら小学時代の思い出話もしたが、別れ際まで、再びあの夏の一件が誰かの口から出る事はなかった。
* * *
後に私は、調べ物で文献を読んでいて、昔住んでいた街の歴史について知る機会があった。
その時初めて分かった事だが、私たちが小学時代に暮らしていたあの団地は、開発によって埋め立てられたものの戦後間もない頃までは市内を流れる川の支流だったらしい。
そして、敷地の外れ、防火水槽があった辺りは河川敷で、江戸時代には殉教した潜伏キリシタンが水責めに遭った水牢があったという。
その事についてあの頃団地に住んでいた誰かが知っていたのか、今となってはもう分からない。
(闇深淵・終)
「闇深淵」はこれにて終わりです。同時に『晩歌 -BANKA-』もこれで完全に投稿終了しました。本連作は私の過去の遺物を供養する為のものでしたが、書き下ろし二編を含めてとても楽しく執筆する事が出来ました。読者の皆さんも楽しんで頂けたでしょうか。
本作は『仙台怪談』(森野美夜子、藤田りんご、久田樹生著。竹書房怪談文庫)に収められていた「お化けトイレ」の話からイメージを膨らませて書きました。この本に登場する怪談のゆかりの地や心霊スポットには地元の私が知っている場所も多く、非常に興味深く思うと同時に怖くもなりました。私が読んだのは『仙台怪談』だけですが、竹書房のご当地怪談シリーズは沢山出ていますので、是非皆さんもお住まいの地域の話を読んでみる事をお勧めします。
それから本作には、「リングチェーン(チェーンネット)のある公園」「秘密基地」「ビオトープ」「緑のカーテン」といった、小学生時代を思い出して懐かしくなるような事物を随所に登場させています。私自身は依里たちのように男女混合のグループで毎日わいわい遊ぶ、という事はなく、低学年の頃の夏休みの一言日記は殆ど「(祖母と散歩をして)野菜を買った」で埋め尽くされていました。友達の家に行ったのも、中学校卒業までつるんでいた一人の男子の家程度だったような気がします。とはいえ、それでもあの頃は十分に楽しかったです。
最後までお読み下さりありがとうございました。『リ・バース』の方も引き続き宜しくお願いします。




