「映写」(『晩歌 -BANKA-』)④
* * *
朝起きて真っ先に感じたのは、左手首の違和感でした。
痒い──というより、痛い。虫刺されや汗疹を掻き続けていたら皮膚が剝けてしまった時のあの痛痒感に似ていました。
実際に擦り剝いたようにひりひりとし、触ると発疹を掻き潰したように薄っすらと湿っています。起き上がり、見ると、そこに本当に赤い発疹が点々と浮かび、寝ている間に無意識に掻いてしまったのか出血していました。
私は勿論経験した事はありませんが、リストカットに失敗した時のようだ、という感想が真っ先に頭に浮かびました。
「何これ!? 気持ち悪っ!?」
驚き、パジャマから着替えるよりも先に慌てて階下に降り、傷を洗い、消毒して包帯を巻きました。
蛇口からじゃぶじゃぶと水を掛けながら、私が思っていたのは、いよいよマズい事になった、という事でした。
──いよいよ、私にも効果が現れ始めたみたいだ。
そう思った事に、自分で愕然としました。
その時点で自分が既に、例の写真を撮った時から何かが始まりつつある、と自覚していた事に気付いたからです。私に起こった事は、冷静に考えれば「手首から出血が起こっていた」というただそれだけであったはずなのに、私はごく自然に、その”異変”と例の写真の件とを結びつけて考えていました。
その事が、実際に起こった出来事以上に私にはショックでした。
* * *
手首の痛みは治まるどころか、三日のうちに段々激しくなりました。
包帯を巻いているところをお父さんに見られ、どうかしたのか、と尋ねられましたが、「課題の工作をしている最中に彫刻刀で傷つけてしまった」と言ってごまかしました。本当の事を話して、何か心当たりがないか、などと聞かれたら、「禁域」に入った事も正直に話さなければならなくなる、と思った為です。
お父さんはそれ以上掘り下げてはきませんでしたが、私はその事にほっとすると同時に、やや見放されたような気がして心細さを感じました。困った事があった時、誰かが心配して「どうしたの?」と聞いてきてくれたにも拘わらず、「大丈夫」と答えてしまった時のような。
巻きっぱなしにしていた包帯を我慢出来ずに外すと、傷口は瘡蓋を剝がしたかのようなケロイド状になり、包帯が綻びたものらしいティッシュの滓のようなものがこびりついていました。その、グロテスクな腕輪を嵌められたような見た目に、私は泣きたくなりました。
──まさか、とは思いましたが、確かめずにはいられませんでした。
再び例の写真を取り出し、確認しました。
写っていた白い靄は濃くなり、景色の右側に欠落を作っていました。それ程濃くない灰色の部分が中央に残って楕円形のドーナツのように見えます。
それはまさに、美嘉に見せられたあの「心霊写真」の通りの画像でした。
その日私は、三十九度の高熱を出して安静を余儀なくされました。
* * *
食欲がなく、昼食を食べずにそのままベッドに入ってから、いつの間にか眠ってしまっていたようです。目を覚まし、枕元の目覚まし時計を確認すると、時刻は午後八時半を回った頃でした。
午後をまるまる眠ってしまったのだな、とぼんやり思っていると、控えめに入口のドアがノックされました。夜宵、とお父さんの声で呼び掛けられ、仰向けになったまま「はい」と返事をすると、果たして彼が顔を出しました。
「夜宵、大丈夫か? 体の痛みとか、酷くなっている事はないか?」
「大丈夫……ありがと」
返事をしましたが、その声は自分でも笑ってしまいそうになる程に弱々しいものでした。
「だけど、すっごくだるい……まだ、何も食べたくない」
「ジュースくらいは飲んでおいた方がいいぞ。飲まず食わずじゃ、体が持たないだろう。持って来るか?」
お父さんの気遣いが、身に沁みるように思われました。
途端に、私は弱気になってしまいます。
「こんなのってないよ……どうして、よりによって夏休みに……」
呟くと、お父さんはやや言葉を切ってから、徐ろに口を開きました。
「……実を言うとな、夜宵」
「………?」
「お父さんはここ数日間、お前の様子が変だとは思っていたんだ。……何かあったのか? 困った事があったら言え、怒ったりはしないから」
最後に付け加えられたその言葉に、どうしよう、と思いました。
事によると、お父さんは既に察しているのかもしれません。ここで全てを──「禁域」に入った事も、例の写真の事も、打ち明けてしまった方がいいのではないか。今ならまだ、決定的な何かが起こる前にどうにかなるのではないか。お父さんが、どうにかしてくれるのではないか。
そう考えた時、私は初めてぞっとしました。
正直に打ち明けてしまった方が、楽になるのでしょう。私の心の中には、助けて欲しい、という気持ちと一緒に、ちくちくと刺すような罪悪感も存在していました。身近な人との約束を破ってしまった時の、あの後ろめたさです。
ですが……
「……ううん、何でもないの」
私は結局、そう言ってしまいました。
「ちょっと暑くなって、バテちゃったんだと思う」
「………」
お父さんは暫らくの間、無言で私に視線を向け続けていましたが、やがて息交じりの声で「……そうか」と呟きました。
「酷くなったら言ってくれ。何か、困った事があった時もな」
そう言い、お父さんは部屋を後にしました。
私は夏蒲団を鼻の辺りまで被り、胸中で「言えるはずがない」と呟きました。言えるはずがない──もしも私に起こっているのと同じ事が、お父さんの身にも起こるようになったら。
そう考えてから、では美嘉や優芽先輩は、と思いました。
彼女たちは、大丈夫なのでしょうか?




