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「精霊」(『晩歌 -BANKA-』)④


          *   *   *


 あのポストで私の願いが叶った日、リョウの現実からは本当に、私の体験したもう一つの八月一日はなかった事になっているようでした。

 彼からすれば、私はあの日、唐突に彼に「引っ越しじゃないの?」なんて尋ね、挙句に泣きながら胸に飛び込んでしまった訳です。客観的に見つめ直そうとすると羞恥心が込み上げてきますが、リョウは恥ずかしがるというよりも、あれ以降ずっと、私を「変な奴だ」と訝しむように見ていました。

「リョウってさ」

 区役所の裏口付近にある、頂に梟のモニュメントのある丘の斜面に並んで腰を下ろしながら、私は彼に尋ねました。

「何か、神様にお願いしたい事とかないの?」

「……また、あのポストの話?」

 彼は、何とはなしに毟って握り締めていた草をそっと、風に流すように手放しました。細かな草は、私たちの居る丘の背後に位置する水場を吹き抜けて来た涼しい風に乗り、流離(さすら)うように見えなくなっていきました。

「お前、やっぱり最近何か変」

「いいから、いいから」

 私はごまかすように言いました。本当は、リョウも何か願い事を入れた事があるのでは、などと思いもしましたが、やはり「それはないか」という気持ちの方が胸中では勝(まさ)っていました。

 彼は「願い事かあ」と呟きました。

「普段はこうだったらいいのに、とか思う事、一杯あるのにさ。パッと出せって言われると思いつかないもんだな……けど、そうだな、強いて言えば」

 そう言った彼は、やや苦笑していました。

「『夏休みが終わりませんように』、とかかな?」

 彼が、そう言った瞬間でした。

 私は不意に、周囲の物音が一斉に遠ざかったような気がしました。背後を流れる水の音も、木々の騒(ざわ)めきも、街中何処に行ってもうるさい程に響き渡っているミンミンゼミの鳴き声も。

 頭の中で、唐突にフラッシュバックが起こりました。

 ──私はもう、その願い事を試している。

 そんな突拍子もない考えが脳裏を過(よ)ぎると共に、第三者の視点から見たかのようにはっきりと、私が「神様への手紙」をポストに投函する光景が見えたのです。書いた文字列までが、はっきりと。

 この記憶──そう、記憶でした。これは、一体?


 そう考えたのが、八月五日の事です。


          *   *   *


 使われなくなった郵便ポストに「神様への手紙」を入れると願いが叶う。

 既に都市伝説という言葉を知っていた当時なら、それが実にありがちな噂だという事は分かっていました。

 それが実際に叶い、ちょっと考えられないような体験をした私。

 私と同じような体験をした人が他にも居て、それが”実話”として広がっていたのなら──いえ、たとえ”実話”という裏づけがなかったとしても、実際に手紙を投函した人は沢山居るはずです。

 何故、私のお願いは叶えられたのか。

 そして何故、一度叶わなくなりそうになったのか。

 過去に投函されてきた手紙を見れば、何か法則が掴めるのではないか、と私は思いました。

 本当に検証したいのなら、私自身がもう一つ何か願い事を書いて投函してみればいいのでは、とも思えない事はなかったのですが、実を言うと、私は少し怖さも感じていたのです。

 私の短所に、物事をよく考えない、という事があります。翌日、六日、いざポストの所まで向かった私でしたが、そこで手紙の取り出し口に鍵が掛かっている事に気付きました。

 当たり前の事ですが、これは由々しき問題でした。

 最初の方でも述べた通り、ポストは相当古く、取り出し口の鍵も石で叩けば壊せない事はないと思うのです。しかし、それをしてしまったら、もうポストは閉まらなくなり、手紙を入れる事が出来なくなります。

 私は暫(しば)し立ち尽くし、悩みました。

 そして、「悩んでいる」という事自体にはっとしました。

 ──私はこの先も、ポストを使って願い事を叶えるつもりでいるのか。それを怖がっていたはずではなかったのか。

 その事に気付き、どうすればいいのだろう、という思いは一層強く渦を巻き始めました。


          *   *   *


 悩んだ末、私はポストを開ける事はせず、そのまま家に帰りました。

 その代わり、ふと思いついて、もう「リョウと一緒に居たい」という願いを入れるのをやめてみる事にしました。

 もしも私が、既に叶っている願いを入れた為に、彼がお別れを切り出してきたのだとしたら。

 そう考えた時、ちょっとだけ想像がつく事がありました。

 もう叶っている願いを、叶える事は出来ない。無理矢理叶えようとするなら、一度叶わないような状態を作り出すしかない。

 勿論、それだけでは説明のつかないような事はあります。私以外にも手紙を入れた人たちは居るはずですが、その人たちは願いを叶えられたのか、という事も、依然謎のままです。

 本気でそれを調べようとしたら、学年どころか学校全体、学区外の別の学校の人たちにまで話を聴きに行かなければなりません。自由研究以上の大規模な調査をする事になるでしょう。自分の携帯電話を持たず、SNSなどで他の同級生たちと繋がっているという事もない小学生では、長期休暇中で会う人も限られる中、さすがにそこまでは出来ませんでした。

 一度、あの八月一日を経験しているだけに、お盆に入るまでどきどきしていた私でした。うちではお盆にお祖父ちゃんお祖母ちゃんの家に行く、といった文化はありませんでしたが、なくて良かったと思います。きっと、行っても気が気ではなかった事でしょう。

 しかしどうやら、その心配は杞憂だったようです。

 今度は八月十六日を過ぎても、リョウがあの引っ越しに関する件を口にする事はありませんでした。

 私はひとまずほっとし、それから数日間はポストの一件を忘れ、以前と同じように心置きなく彼と遊びました。体感としては、一度八月十五日から一日に巻き戻っているので、私の夏休みは半月分延長された訳です。一度目の八月上旬に彼と全く遊べなかった分、私はそれを取り戻すように彼と過ごしました。

 ポストの件がなければ、夏休みが半月も増えたなんて同世代の子供たちからは羨まれて然(しか)るべき状況です。けれど、甘いものをお腹が一杯になるまで食べれば後から苦しくなるように、何事も物足りないくらいが丁度いいのであり、それを通り越せば飽きが来ます。

 雨が降ってリョウと会えない日、私はあまりの退屈さに、蒸し暑い部屋で輾転反側しながら過ごしました。その一方で、これが小学生最後の夏休みだと思うと、妙に終わりが名残(なごり)惜しいような気もしました。

 リョウも学区内に──というより小学校のすぐ傍に──住んでいたので、中学校に上がっても私たちは一緒でしょう。だから、何も寂しがる事はないのだ、と、私は考えていました。

 しかし、そういう事を考えると、どうしようもなく「その先」の事も考えてしまいます。

 中学校の三年間はまあ一緒に居られるとして、高校に進学したらどうなるのだろうか。それでも私たちの家は近いので、彼が県外に越したりしない限りは大丈夫だ。では大学生になったら?

 大人になったら、私も彼も結婚はするでしょう。私は当然、その時点では結婚などという事を考える以前に「リョウと付き合いたい」と思っていましたが、将来の伴侶がお互いでないのだとしたら、何処かで必ずお別れが来ます。でも、彼は今、私が生涯のパートナーでもいいなんて、考えてくれているのでしょうか。小学生の間に、相手にそんな事を求める方が無理のある話なのか──。

 寝苦しい夜などは、どうしても多感になり、色々な事を考えてしまうものです。私はそんな事を考えてしまい、どうしようもなく泣きたい気分に襲われる事もありました。

 ──夏休みが終わりませんように。

 私は以前、確かにその願い事を書いて、あのポストに投函した記憶があります。しかし、それは一体、いつの事だったのでしょう。

 リョウの事を考えると、私は小学生最後の夏休みを延々と繰り返しているような気分になるのでした。

 そして、ほんの少しだけ、危うい考え──。

 それが本当なら、それでも構わないのかもしれない、という。

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