「精霊」(『晩歌 -BANKA-』)③
* * *
八月十五日まで、私はリョウと会いませんでした。
意地を張っていた、という訳ではありません。
彼が居なくなってしまうという事が、どうしても受け入れられなかった。彼に会えば、その現実を受け入れざるを得なくなる。だから、やっぱり現実逃避です。
お盆の終わり──八月十六日まで彼と会わなければ、まだ何とかなるような気がしていました。
彼があのまま行ってしまうとは、どうしても思えなかったのです。
彼の方からも、私の家に電話をしてくる事はありませんでした。鳴らない日の方が少なかった電話が急に鳴らなくなり、家の中は急にしんとしたようでした。それまで当たり前だったものが、突然消えてしまったかのような。
その代わり、私はあのポストに、毎日のように「願い事」を書いた手紙を入れに行きました。
「リョウが、何処にも行きませんように」
……やっぱり、おかしいですよね。
あんな些細な願いすらも、神様は叶えてくれないんだ──そう、思っていたはずなのに。
だけどその翌日、八月十六日。
これで最後だと思いながらポストに手紙を入れに行った時、当たり前のようにそこにリョウが立っていて、私はびっくりしました。
「よっ、椋」
それは、彼からお別れを切り出されるまでの間、待ち合わせ場所で会うと決まって彼が掛けてくる呼び掛けと全く同じでした。最後に会った時の思い詰めたような態度が、嘘だったかのようです。
「リョウ……?」
私は、面食らって彼の顔をまじまじと見つめました。
「何でここに? もう、引っ越しじゃないの?」
「引っ越し? 何言ってんだよ、椋?」
その、心から不思議に思っているかのような反応に、私は段々、これまでとは異なる戸惑いが込み上げてきます。
「だって、リョウが言ったんだよ。お盆が終わったら、会えなくなるって……何処か遠くに行っちゃうんだって」
「何だよ椋、寝惚けてるのか?」
彼は、あっけらかんとしていました。
「俺が何処かに行ったり、する訳ないだろ」
「………」
私は俯きました。
「……もう」
涙が滲んでくるのが分かりました。リョウはこちらの肩が小刻みに痙攣しているのを見て取ったのでしょう、心配そうに「お、おい……」と声を掛け、顔を上向かせようと手を伸ばしてきました。
「リョウの馬鹿っ!」
私は、無我夢中で彼の胸の中に飛び込み、泣きじゃくりながら両拳でぽかぽかと叩きました。子供っぽい仕草だとは思いましたが、私は本気でした。
「ど、どうしたんだよ、マジで?」
彼は言いながらも、おずおずとぎこちなく私の両肩に手を置いてきました。
私はその時、不思議な事に、考えられないような事が起こっている、という考えは浮かんできませんでした。
それどころか、心の底から「願いが叶って良かった」と思っていました。自分が今傍らにあるポストに手紙を入れ、神様にそれが通じたのだと、本気で信じ切っていました。
本当に、理科で習った事なんて、すっかり忘れていました。
* * *
リョウは、私が何を”勘違い”していたのか、という事を尋ねてきたので、私は歩きながら、彼にこの間の一部始終を話す事にしました。
山には入らず、私たちはいつもの通学路を歩き出しました。道中でリョウはコンビニに立ち寄り、まだしゃくり上げている私にやや居心地悪そうにしながらも、アイスキャンディーを二本買って片方を差し出してきました。……このようなところがあるから、私は彼を格好良いと思ってしまうのです。
「──で、お前はそれで、俺が引っ越すと思った訳か」
「思ったんじゃなくて、私はほんとに、リョウにそう言われたの」
私は、やや彼を睨みながら言いました。
何故あれ程泣きそうになったのか、彼からお別れを切り出されてからの間、私がどれだけ鬱々として毎日を送って来たのか、彼への想いを押し隠したまま話すのは相当骨が折れました。
というか、やはりここまでの私の態度で、彼が微塵も「もしかしたら」などと思わない事の方がおかしいと思ったのですが──。
「それで、何で今日だったんだ?」
不思議な事もあるものだ、というように相槌を打ちながら聴いていたリョウでしたが、話が終わるとそのような事を尋ねてきました。私は咄嗟に、その問いの意味が理解出来ませんでした。
「何で?」
リョウは自分がおかしな事を言ったという自覚はないらしく、食べ終わったアイスの棒を見て「何だ、ハズレか」などと呟いていました。
「お盆が終わったら、ってその俺は言ったんだろ? だったら、何でお前はその『引っ越し』が今日だと思ったんだよ?」
彼の口ぶりは、あたかも私があの日会った彼は、現在こうして喋っている自分とは別人だ、と言っているかのようでした。
「だって、お盆は昨日まででしょ?」
「何言ってるんだ? まだ八月になったばっかりじゃないか」
彼がそんな事を言ったので、私は思わず顔を上げました。
「……ねえ、リョウ」
お腹の底が、今し方飲み込んだアイスのせいではない理由で、不意に冷たくなったような気がしました。
「今日って、何日だっけ?」
「おいおい椋、しっかりしてくれよ。まだ八月一日だぞ。休み惚けするには、幾ら何でも早すぎるって」
彼は、真顔でそう言ったのでした。
その帰り道、私の頭上はまたあの赤蜻蛉たちで満ちていました。
* * *
部屋の日めくりカレンダーの日付を見た時、それがリョウの言った通り八月一日になっていたので、私は混乱しました。
混乱したけれど、おかしくなっているのは私ではない、という事は疑いの余地がないような気がしていました。私が彼からお別れを切り出されたあの八月一日から今日までの出来事は、決して長い夢なんかじゃないと。
そして、このおかしな出来事は、あの神様のポストに願い事を書いた手紙を入れた時から始まったのだ、という確信も。
──神様のポストが願いを叶えるというのは、本当だった。
けれど、そう考えると、まだ辻褄の合わない事はありました。ではどうして、私の記憶にあるあの八月一日には、「リョウと一緒に居たい」という些細な願いが叶わないような事が示唆されたのでしょう?
いや、そもそもそれ以前に、リョウがお別れを切り出したのは、本当に彼自身の意思だったのか。それとも、ポストによる何らかの影響を受けたものだったのでしょうか。
影響を受けたのだとしたら、その対象は彼や私個人なのか、それとも現実そのものだったのか。
(……調べなきゃ)
ベッドに仰向けになりながら、私はそのような事を考えていました。
そうしないと、私はまたある日、唐突に彼から、お別れを告げられる事になるのではないか。
上手く言えませんが、そんな気がしていたのです。




