「円」(『晩歌 -BANKA-』)⑤
* * *
それから二日間、咲姉ちゃんから連絡はありませんでした。
私は迷った末、彼女に「双魚球の一件について話さなければならない事がある」とメッセージを送り、彼女と会う事にしました。
二日前の夜にお父さんから聞いた話を、私は考え続けました。
そうしているうちに、私の中で一つの推測が次第に具体的な形となって浮かんできました。
──双魚球を来るべき時、あるべき場所に返す事が、それに関わった者たちに課せられる義務である。お父さんは、その”義務”を果たせなかったから、果たせるまで苦しみ続ける事となった。
その一方で、彼から双魚球を奪った羽立が既に亡くなっている、という事も気掛かりでした。
私は、一九九九年の今頃、誰かが双魚球を羽立から取り戻したのではないか、と考えました。
ただ、その誰かは最後の最後で判断を誤ったのではないか──。
* * *
私と咲姉ちゃんは、市立図書館で会う事にしていました。
私が行った時には既に彼女は到着して待ってくれていましたが、その傍らには作業着姿の老人の姿がありました。
「あれ、鹿嶋さん?」
彼には、私も会った事がありました。咲姉ちゃんの師匠である鹿嶋さんです。
「おお、萵苣ちゃんか。久しぶりだねえ」
仕事をしている時は厳しく、一本気という言葉の相応しい彼だそうですが、私は何度か顔を合わせて、普段はとても穏やかで親しみやすいお爺さんといった印象を抱いていました。
「どうしてここに、鹿嶋さんが?」
「師匠、ちーちゃんが話があるみたいだって言ったら、自分も是非聴きたいって。それで、ちーちゃんがある程度まで核心に踏み込んでいるなら、私にも双魚球と花火大会について教えて下さるって」
咲姉ちゃんが言うと、鹿嶋さんは俄かに声を低め、真剣な面持ちになって「萵苣ちゃん」と私の名前を呼びました。
「これは、もしかすると君には耐え難い事かもしれない。本当の事を知る覚悟は出来ているかい?」
私は、とうに心を決めていました。
「……はい」
きっと彼と同じような表情を浮かべているのだろうな、と思いながら、私は顎を引きました。
「分かっています。このままでは私も咲姉ちゃんも勢威さんも、皆父と同じ運命を背負う事になるという事も」
鹿嶋さんは「宜しい」と肯き、皆で図書館に入りました。
席に就くと、私はお父さんから聞いた話を、自身がそれを聞いて推測した事も含めて二人に語りました。
話が進むに連れ、咲姉ちゃんの表情は段々とシリアスなものになりました。鹿嶋さんは時折肯くだけで、私が話し終えるまで一切容喙する事なく聞いているようでしたが、やがて開口しました。
「双魚球は、花火玉なんだ。サイズで言えば、直径二十一センチ、七号玉くらいだろう」
「花火玉?」
咲姉ちゃんは首を捻りました。
「素材は、水晶じゃないんですか?」
「人の世の素材なら、それに近いものなのだろう。八重君も知っての通り、花火には薬剤、『星』を詰める。この配合に微調整が利かなかったり、詰める位置がずれたりすれば、失敗作になるんだ。透明で、向こう側の景色が見えるような玉なんて存在するはずがない」
「つまり……この世のものではないと?」
咲姉ちゃんの喉が、唾液を嚥下したのかごくりと鳴りました。
「卵、といってもいい。花火は鎮魂と平和の象徴だ、それを打ち上げる為の炎で温める事によって、卵は孵り、在るべき存在がこの土地に戻る」
「それは──」
「恐らく、百年に一度の周期だ」
鹿嶋さんは言いました。
「私に花火の作り方を教えて下さった師匠、八重君にとっては大師匠だが、彼も工場を継ぐ間際、先々代が双魚球の打ち上げを行う場面に立ち会ったそうだ。先々代はそれから、私の師匠に引き継いで間もなく亡くなられた。彼にとっては双魚球の打ち上げこそが生涯の間に果たすべき最後の義務で、それを全うしたからこそ、安らかに往生出来たのだろう、と。
私は、そういう訳にも行かないようだ。まだ、八重君が一人前になり、彼女自身の弟子を取るまで教え導くという務めが残っている。それも、三日後の結果次第ではあるのだけれどね」
彼の言葉を最後に、私たちは暫し黙り込みました。
義務、という言葉が、やけに私の頭には残るようでした。それは先日から、ずっと私の中で渦巻き続けていた事だったからです。
私は、一人一人の人生は自分たち自身が決めるもので、生まれながらに課せられた役割という考え方には否定的でした。そのような運命論的な考え方は、それがたとえ不条理なものであったとしても受け容れなければならない、というような諦めを感じさせるからです。
しかし、その一方で、向き不向きというものがある事は認めざるを得ません。
花火職人は、誰にでもなれる職業という訳ではないのだ、と、咲姉ちゃんが教えてくれました。今し方鹿嶋さんの言った通り、「星」を調合して詰める作業や、危険物の取り扱いに関する勉強など、繊細さや忍耐力の求められる仕事です。鹿嶋さんの師匠には二人のご子息が居たそうですが、彼らはそれには向いていなかったという事でした。
彼らは家を出、大師匠は弟子を探さざるを得なくなりました。鹿嶋さんはそのような話を聞かされていたので、自らを選ばれた跡継ぎだと思い、勇んで仕事に打ち込んだのだといいます。ですがその熱心さのあまり、家庭を持つ事には向いていなかったのだ、と、少々自虐的に語られたそうです。
鹿嶋さんは大学の卒業後、見合い結婚をして男女一人ずつの子を授かったそうですが、五年目に離婚し、親権はどちらも奥さんの方に渡りました。そのまま再婚の話が出る事もなく、子供も弟子も持たないまま、九十代まで来てしまったというお話でした。
そういえば勢威さんは、先代当主の甥に当たる人物という事でした。先代にお子さんが居なかったのか、何があったのかは分かりませんが、恐らく彼は代々双魚球を継承する家系の中で、本来であればその役割を継ぐはずのなかった人物だったのかもしれません。
だから彼も、双魚球の重要性を知ったのはつい最近の事なのかもしれない、と私は思いました。
「……連帯責任、なのでしょうか?」
私は沈黙を経た後、意を決して口を開きました。
「最初に双魚球を手放したのは、父でした。だから、罰を受けていたのは彼だけでした。けれど、今年の花火大会で打ち上げが成功しなかったら、私たち皆が囚われる事になる」
私が言うと同時に、咲姉ちゃんがぐっと顎を引き、表情を強張らせました。それは怯えているというよりも、殉教者の覚悟に近いように思われました。
「──罰、というのは、ちょっと違うんじゃないかな?」
鹿嶋さんはやや上体を前傾させ、机の上で両手の指を組むと、言い聞かせるように語りを再開しました。
「萵苣ちゃん。君のお父さんは間違いなく、一度は呪縛から解放されたはずだ。羽立という男は踏み込んではならない領域に踏み込み、自ら身を滅ぼす事になったのだから。
しかし、誰か、四阿さんの苦しみを知っていた者が居たのだろうね。誰よりも身近で、彼の事を心から救いたいと願っていた誰かが。
一方でその人は、双魚球を狙う羽立と同等の存在が、他にも居るという事を確信してもいた。来るべき時が来る前に眠堂へと双魚球を戻せば、四阿さんはまた苦しめられ、過ちを繰り返すだろうと」
「その人は──」
私は、段々と話の行く先を理解し始めました。
……いえ、本当は、もうとっくに分かっていた事かもしれません。
「取り戻した双魚球を、何処にやってしまったんでしょう?」
私は、喉がからからになっていたのでしょう、出した声は酷く掠れ、微かに震えを帯びていました。
「その人って、一体……?」
「ちーちゃん……?」
咲姉ちゃんは、私が何に思い至ったのかは分からないようでした。無意識に私の頰は上気していたのでしょう、こちらの表情を「今にも泣きそうになっている」と捉えたのか、やや不安そうな顔で覗き込んできました。
鹿嶋さんは、萵苣ちゃん、と、私の名前を呼びました。
「君たちのお陰で、私には何となく分かった。勿論、私が君や八重君の行動を知ったのは、これが初めてだったけれどね」
彼は言いました。
「推測だが、その人は──」
それを聞いた時、私は堪えきれなくなって涙を流しました。
それは、随分と長い間、止まる事をしませんでした。




