「円」(『晩歌 -BANKA-』)④
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眠堂に預けられていたらしい双魚球が、もし売られてしまっていた事が判明したらどうするか、という事については、その時点で既に咲姉ちゃんから鹿嶋さんに確認を取って貰っていました。
鹿嶋さんは、もしそれが判明したのであれば自らがその取り引き相手の元へ交渉に赴き、大枚を叩いてでも買い取る、と答えたそうです。当然その時には、情報の出所が眠堂であるという事は一切明かさず、間違っても店の信用を貶めるような事態にはならないようにする、と。
鹿嶋さんが処分可能な資産を全て処分し、工場と土地の権利を手放せば約一千万円の金額が確保出来るという事でした。自分は既に高齢なので先はそう長くない、死ぬまでの間に手持ち花火を作っていけるくらいのお金さえ残れば問題ない、と。私は咲姉ちゃんからそれを聞いて絶句しましたが、咲姉ちゃん自身もこれには抗議の声を上げたそうです。
それでは、自分が学ぼうとしていた花火職人としての技術はどうなるのだ、と。鹿嶋さんもその事は考えていない訳ではなく、むしろそのような事になったら双魚球を確保出来たとしても問題になる、と言ったといいます。
この街で、花火職人が居なくなるという事は大問題らしいのです。鹿嶋さんは咲姉ちゃんが弟子入りを申し込んだ時、彼女がアルバイトでお小遣い稼ぎをする、程度の目的でそう言ってきたのだと思ったらしく、一発の打ち上げ花火を作る事の忍耐と危険について丁寧に教え諭したという事でしたが、咲姉ちゃんがそこで折れず、必要な免許があるのなら彼の下で学びながら取得するとまで言った時には、内心とても安堵したのだ、と後に語りました。
私は、咲姉ちゃんはこのまま、大学卒業後もこの街に留まり、本職の花火職人になるのだろうか、と考えました。
もしも鹿嶋さんが、彼女のその意志を確認しないうちにそのような事を考えたのだとしたら、彼女の将来を早々に限定してしまう事になるのではないか、とも思った私です。しかし、それは鹿嶋さんが、これは一度始めたからには易々と中途半端に投げ出せる仕事ではないのだ、と強く思っているからこその、当然の考え方であるようでした。
咲姉ちゃんも、自分の事をまだまだ半人前以下だとは思っていながら、その時点で鹿嶋さんから目を掛けられ、将来を期待されているという事は光栄だと思っているようで、いつかはっきり「自分は師匠の後を継ぐのだ」という事を私に宣言してきた事がありました。
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その夜、日付が変わる頃でした。
私はこっそりと起き出し、抜き足差し足で店舗に下りました。カウンターの裏にある棚を開け、目的のものを探します。鍵の在処はいざという時の為にお父さんに教えられていたので、難なく棚は開ける事が出来ました。
目的のものとは、顧客リストの事です。バブルの終わりから間もなく安里さん一家が夜逃げをし、経営難が始まったのだとしたら、羽立から眠堂に接触があった時期を割り出す事はそう難しくはありません。
すると、やはり一九九二年の記録の中に、お父さんが羽立に商品を売ったというものが見つかりました。
私は暫らくの間、そのファイルを持ったまま動けませんでした。
お父さんも、勢威さんから接触を受け、分かったのしょう。このまま花火大会の日までに双魚球が見つからなかったら、鹿嶋さんと同様誰かから「怒られる」事になるのだ、と。
いや、事によると──お父さんは既に、怒られているのではないでしょうか。
誰に?
そんな事を考えていた時でした。
「何をしているんだ?」
不意に電気が点き、開かれた座敷への扉からアンダーシャツ姿のお父さんが姿を現しました。
* * *
「ごめんなさい、お父さん……」
私が咲姉ちゃんと一緒に行っていた双魚球の捜索の事を正直に話すと、お父さんは私を叱る事はしませんでした。ただ、私から詳しい事を尋ねられる事を避けようとしたかのように、話は終わったとばかりに立ち去ろうとしました。
私は、ままよという気持ちで彼を呼び止めました。
「待って」
お父さんはぴたりと足を止め、私の方を振り返りました。私はその時になって、胸中で躊躇いが頭を擡げるのを感じました。
彼に、今私たちの周りで起こっている出来事について尋ねるつもりでした。しかしいざとなって、私は開きかけた口を閉じてしまいました。その時の心の中には、勢威さんから言われた事が渦巻き続けていました。
勢威さんは私に、今回の件についてはお父さんに尋ねる事もやめた方がいいと言っていました。
もしもお父さんが今まで、私の知らないところで来るべき何かに備えて動いていたのだとしたら。もしもそれが、私を巻き込むまいとしたお父さんの配慮だったのだとしたら、私が今になって容喙する事は、そんな彼の想いを踏み躙る事になるのではないか。
ですが──それなら、お父さんが今直面している問題とは、何かあった時に私に累が及ぶ事を憂えねばならないくらいに危ないものなのでしょうか。
そんなものと、今お父さんが向き合っているのだとしたら。
そして私に、そんな彼の為に何か出来る事があるのだとしたら──。
「……教えてよ、お父さん」
私は、迷いを振り切るようにそう言いました。
「私、このままじゃ気味が悪いよ。お父さんたちが、何に必死になっているのか教えて欲しい。もし私に、お父さんの手伝いが出来るなら……」
「………」
お父さんは、また難しい顔で考え込みました。
しかし、やがて意を決したように再び口を開きました。
私はその時、彼の目に一縷の希望のような色を見て取ったのです。
「眠って目が覚めても、まだ夢の中に居るような──そんな気分を味わった事はないか?」
彼からの問いに、私は思わず「えっ?」と首を傾げました。
「寝起きだと、そういう事もあると思うけど」
「双魚球を手放してから、父さんは毎日ずっと、そういう感覚に悩まされ続けていたんだ。離人感というのだろうか、何というか、自分がこの世に居ないような感じがしてな」
私は思わず、ハーフパンツの裾をぎゅっと握り締めました。
「怖い事、言わないでよ」
「一つの夢が終わった事は、分かっているんだ。けれど──正直父さんは、いつからが夢で、いつからが現実なのか、最早確信が持てない。何度も夢から覚めたと思い込んで暮らし、何年も経った後になってからそれが夢だったと気付いているような、そんな気がする」
お父さんは言いながら座敷の卓袱台の所に胡坐をかき、エアコンのスイッチを入れながら私に手招きをしてきました。
私は汗がじっとりと滲んでいました。しかしそれは、夜間には誰も居なくなる一階のクーラーの電源が今まで切られていたが故の蒸し暑さではなく、不安に由来するものでした。
お父さんが、何処か遠くに行ってしまうような気がしたのです。
「どういう事?」
私は彼の所まで行き、膝を抱えて座りました。
「お父さん、何の夢を見ているの?」
「お前が生まれてから、丁度今くらいの歳になるまでの日常を、延々とだ。勿論、だからといって父さんが未来予知を出来たりはしないぞ。毎日変わり映えのない日常でも、何かしらは少しずつ違うようにな。だが、その終わりはいつも同じなんだ。その時になると、父さんは──」
そこまで言ってから、彼は「いや」と言葉を切りました。
「これ以上はやめておこう。気分が悪くなる」
「何なの? 私は大丈夫だから、最後まで教えてよ」
私は言い募りました。
「そうか? だったら言ってしまうが、どうか気を悪くしないでくれ。
五日後の、花火大会の夢なんだ。お前が、双魚球を持って祭りの雑踏の中を河川敷へと駆けて来る。お前は息を切らせながら川の中に入り、打ち上げ場所である対岸に向かって流れの中を歩き出そうとする。
だが、流れは速く、お前はどうしても進めない。父さんはそんなお前に、必死に呼び掛けるんだ。やめてくれ、お前がそこまでする必要はないんだ、とな。だが、それは届かず……お前は川の中に見えなくなってしまう。俺は後悔に苛まれて、岸辺で膝を突いて目が覚める」




