「着衣の人魚」(『晩歌 -BANKA-』)⑦
* * *
迷った末に、私は「人魚」の元を訪れました。
千早の家は森閑として、裏庭は晩夏の日差しを浴びて草木の緑が照り映えていました。あたかもそれは、私たちの一緒に居られる最後の時間に、余計な介入をしないように場が計らってくれているかのようでした。
私が離れの浴室を訪れた時、「人魚」は浴槽の中で、元気を失くしたように動きを止め、縁に凭れ掛かっていました。水は濁り、腐汁が混入したかのように嫌な臭いを放っていました。プールで溺れ、また夜な夜な溺れる夢を見るようになってから、私はここを訪れるのが怖くなり、「人魚」には髪もあげておらず、水も交換していなかったのです。
けれど、彼女が生きている事は分かっていました。もしも死んでしまったのであれば、私があのような夢を見続けるはずがないと思ったから。
「……こんにちは」
私は、小声でそう呼び掛けました。「人魚」は寂しがっていたのか、こちらの姿を認めると、俄かに元気を取り戻したようになり、例によって汚れた水を掛けようとしてきました。
髪の毛の隙間から覗いた口元は確かに笑みを形成しており、それを見ると、私の胸には途方もない罪悪感が去来しました。
──この子は、私たちよりもずっと無邪気だったのだ。
そう思いました。
私は、私の都合で彼女を追い出そうとしている。それは確かな事でしたが、私は懸命に、心の中で自らに暗示を掛けるように繰り返していました。
(この子はきっと、居るべき場所に帰るだけなんだ)
それは当たり前の事で。
きっと、そうしなきゃいけない事で──。
「……ごめんね」
私の言葉を、彼女は認識したでしょうか。多分、したと思います。彼女が世界各地の伝説に登場するような人魚と同じ存在でない事は、もうとっくに分かっていましたから。
「だけど、もう一緒には居られないの」
そう言った時、彼女の口元から笑みが消え──それがとても寂しそうに、私には感じられました。
気が付けば私も涙を流しており、こんなはずじゃなかったのにな、と思うと余計に寂しくなるようでした。
* * *
いつか千早と一緒に海へ連れて行った時のように、私は「人魚」を着衣の上から精一杯可愛らしくなるように着飾らせ、自転車に乗せました。
またお出掛けだろうか、というようなわくわくした表情は、最後まで彼女は見せませんでした。彼女はきっと私のしようとしている事を理解した上で、抵抗をしないでいるのだと思いました。
行き先は、やはり海です。誰も居ない、夏風の冷たい海岸で、私は彼女を両腕に抱き抱え、波打ち際へと進みました。
汀で彼女を下ろし、私は満ち潮の及ばない辺りまで下がりました。
彼女は頭を上げ、私の顔を覗き込もうとしたようでした。
私はゆっくりと首を振り、自分が彼女に止めを刺そうとしているかのような思いに駆られながらも「さよなら」と言いました。
「さよなら、………」
名前で呼ぼうとして、結局最後になるまで、自分がそれを出来なかった事に気付きました。千早が彼女に与えた名前は、本当は彼女が持っているべきものではありませんでした。
彼女には、最初から名前があったはずです。あの出会いより以前に、私たちがそれを知る事が出来なかっただけで。
無言で私を見上げていた彼女の口が開きかけた時、潮が満ちて来て彼女を呑み込みました。
彼女はそのまま、引き潮に乗って、沖へ、沖へと流されて行きました。再びその頭が水面に浮上し、私の居る場所から見る事が出来るようになったのは、もう大分距離が開いてからの事でした。
彼女の蓬と乱れた髪が──私たちがどうやっても掻き分ける事が出来ず、その顔を隠し続けていた髪がその時、俄かに左右に分かれました。
私がその顔を見たのは、刹那の間だけでしたけれど。
「………」
見えなくなっていく彼女を見つめながら唇を噛んだ時、渚に吹いていた風が俄かに強まりました。
秋を先取りしたかのようなその冷たさに、無意識のうちに二の腕を摩りながら、私はせめて海の水温が、彼女に最も適したものでありますように、と心の中でお祈りしました。
* * *
千早が意識を取り戻したという連絡があったのは、その日の午後でした。
病室を訪れると、髪の毛の殆どなくなってしまった頭を隠すようにニット帽を被った千早は、上体を起こして窓の外を見つめていました。
寝たきりの状態が続いた為でしょう、薄い入院着の襟から覗く肩や首筋は痩せていました。私が部屋に入り、千早、と名前を呼んだ時、初めて彼女はこちらを向きました。
「もう、大丈夫そう?」
目覚めて良かった、と言おうとしましたが、実際に口から出たのはそのような言葉でした。何を「大丈夫」かと尋ねたのかは、自分でもよく分かりませんでした。彼女は、ゆっくりと口を開きました。
「……蜜女」
みっちゃん、ではなかったので、彼女は多分、私の事を呼んだのではなかったのでしょう。
「あの子、行っちゃったんだね」
「………」
私は無言で肯き、ベッドの傍に歩み寄りました。
千早の頰を、涙が伝い落ちていました。私は何も言わず、そっと両腕を伸ばして彼女の肩を抱きました。彼女の言葉で、私は彼女がずっと、私と同じ夢を見ていたのだと思いました。
何か、とても大切なものを失ったような気がしました。
それでも、私はもう泣きませんでした。涙なら、午前中にもう、十分すぎるくらいに流していましたから。
静かに泣き続ける千早を抱き締めながら、私は──私だけは、いつまでも彼女と友達のままでいようと考えました。
きっと明日、夏休み明け、私たちの間の空気が必ず何かしらの変化を生じているであろう事を予感しながら。
(着衣の人魚・終)
「着衣の人魚」はこれでおしまいです。本作から第五弾までは単純な「怖い話」というよりも幻想色の強いエピソードになります。私の怪奇幻想ものでは化け物(妖怪)も龍王も存在が仄めかされますが、はっきりと名前のつく超常的な存在が姿を見せたのはこれが初めてです。とはいえ、今回の「人魚」も単純にその名の通りの怪異が登場したという訳ではありません。
河童の正体は水死体だったのではないか、という説は実際にあります。長い間水に浸かっていれば皮膚は青黒くなるでしょうし、頭頂部は髪の毛が剝落するので我々がよく知る河童の姿になる訳ですが、では水難で岩場に打ち上げられ、下半身だけが溶け崩れた遺体を見たら、それも人魚に見えない事はないのではないか、と考えたのがこの作品の始まりです。今回登場した「人魚」は水難事故で命を落とした少女の霊で、それが蜜女たちに魅入ったというのが本作の意図でした。
しかし、やはりただぞっとするだけではなく、成仏出来ない魂の寂しさを感じる話でもあります(そう感じて頂けたのなら成功です)。本連作のテーマには「喪失」が含まれるので全編ややセンチメンタルな話にはなるのですが、本作は特に孤独が強調されました。蜜女と千早も、一緒に居るにも拘わらず何処か擦れ違っているような感じがあります。私は、霊は実在するとしたら剝き出しの情念のようなものであると思うので、千早はそれが訴える孤独に感応しすぎてしまったのかもしれません。
明日からは第四弾の投稿に入ります。先日第五弾も脱稿したので、ゲームとして制作した分はこのまま最後まで連投出来そうです。が、如何せん単行本一巻分に換算したら些かボリュームに欠ける感が否めなかったので、書き下ろし短編を二編追加する事にしました。以前、『化物怪奇譚』の修正作業中に「後書き」で「久々に怪談を書きたくなった」という旨の事を言った気がするので有言実行という事になります。




