「着衣の人魚」(『晩歌 -BANKA-』)⑥
* * *
その、二日後の事でした。
二十五メートル平泳ぎでタイムを測っていた時、私は突然、プールの中で誰かの手に足首を掴まれ、水中へと引き込まれました。咄嗟の事に頭の回転が追い着いていなかったのでしょう、最初は、えっ、と思い、それから、ああ、という冷静な気付きがありました。
私、今、溺れているんだ──そんな奇妙に冷静な刹那を経て、初めて恐怖が込み上げてきました。
そのような事をしたら余計に状況を悪化させるだけだと分かっていながらも、私はパニックを起こしてしまいました。どれだけ授業で救命を学んでいても、いざとなれば誰でも落ち着いて適切な行動が取れる訳ではありません。
私が急に沈み、水飛沫を上げ始めたからでしょう、プールサイドでスタンバイしていた他の部員たちも異常事態に気付いたらしく、ロープを繋いだ浮き輪を投げてくれました。私はそれに掴まって何とか水面に顔を出し、ようやく酸素にありつく事が出来たのです。
呼吸を奪われた事に加え、恐怖によって心臓は痛みを覚える程に激しく脈打ち、浮上した時には水圧が一気に減った事もあって私は眩暈すら覚えていました。浮き輪ごと引っ張り上げられると同時に、水中で私の足首を掴んでいた何者かの手はするりと抜け、私はそのまま引っ張られるままにプールサイドへと寄せられ、事なきを得たのでした。
何があったのか、と皆に聞かれ、私は
「ちょっと、足攣っちゃって……」
そのように言いました。
「もう、洒落にならないからやめてよ、七海に続いてあんたまで」
「準備体操、ちゃんとしたんでしょうね?」
私が本当の事を──水中で足を掴まれたという事を口に出せなかったのは、そんな事が起こるはずはなかったからです。その時、私の泳いでいる左右のレーンに他の人の姿はなかったのですから。
だからこそ、私はぞっとしたのです。
(しかも──)
その時に足首を掴んだ手を思い出すと、まだ背筋が粟立つような気がします。
その手は、水中でもはっきりと分かる程に冷たいものでした。明らかに、生きている人間の手ではありませんでした。
そして水中に沈んだ私は、真空であるにも拘わらず、耳元で確かに誰かの息遣いを聞いたのです。
──いえ、その時には既に、私は自分を水中に引き込んだのが何者であるのかという事を直感的に悟っていました。そして、思いました。
千早が川で溺れたのは、ひょっとすると彼女自身の不注意などではなかったのかもしれない、と。
* * *
その夜から、私は変な夢を見るようになりました。
最初の夜こそ、昼間の余程ショッキングな体験が意識に刻み込まれてそのような夢を見させているのか、と思いましたが、それが繰り返し起こるようになって、きっともっと深い意味があるのだろうな、と気付きました。
それは、底知れぬ暗い水中で溺れるという内容でした。目を覚ますと実際に息苦しくなっていたり、寝汗ではない理由で髪が濡れ、潮の香りがする事もありました。最初はそれも、プールに消毒用に入れられた塩素を、シャンプーできちんと流しきれていないのかな、などと思ったりもしたのですが。
そして、夢の中で繰り返し囁かれる言葉がありました。
──代わって、という。
その声は、千早のものでした。酷く苦しそうで、泣き出したいのを懸命に堪えているかのようでした。
不思議と私にはそれが、怖くてそうなっているというより、目を逸らしたくなる程に悲惨な光景を目の当たりにしてしまい、彼女が心を痛めているからであるような気がしていました。
その場合、彼女は誰を見ているのか──それは、殊更に考えずとも自ずと分かる事でした。
……分かる事だったからこそ、私は胸がずきずきと疼くようでした。
* * *
私はあの日、足首を掴まれて水中に引き摺り込まれた時、それが「人魚」のした事だと考えていました。
おかしな事を考えている、とは、自分でも分かっていました。だって、「人魚」は千早の家の浴槽に居たはずなのですから。しかし、そう考えると辻褄の合う事は幾つもありました。
私は最初、千早が「人魚」に魅入られたのではないかと思い、慄然としました。しかし、夢を見るうちに、もしかしたらそうではなかったのかもしれない、という事に段々と気付きました。
あの「人魚」は、もしかしたらずっと独りぼっちだったのかもしれません。凄まじい苦痛と恐怖の中で、冷たく、暗い水底に沈み、声も上げられないまま誰かに助けを求め続けていたのかもしれません。そして、千早は率先して彼女を助け、図らずもその苦しみを知る事になった。
意識朦朧状態の千早が譫言で呼んだ、「蜜女」という名前。
彼女にとって、その名前が指し示す人が──つまり私がどういう存在だったのかという事を考えれば、これ程分かりやすい話もありませんでした。私は、彼女にとって唯一無二の親友だったのですから。
しかし、それは──良くない事でした。
確かに「人魚」は可哀想だけれど、だからといって千早が、同じ場所まで行ってしまう必要が何処にあるでしょうか。そしてそれは、「人魚」と友達になったという点では私も同じです。
私は──はっきりと言います、怖かった。
千早程に優しくなる事は、出来そうにありませんでした。それどころか、一歩間違えたら彼女が私の手の届かない場所まで行ってしまったかもしれない、そしてその可能性はまだ依然として存在しているのならば彼女を助けなければならないとすら思っていました。
「代わって」──その言葉が、千早が覚悟を決めたつもりで、ほんの些細な、衝動的な本音として零してしまったものだったとしたら。
しかし、今では私も、「人魚」の存在を間近に感じています。
もしも私が今度直接会いに行ってしまったら、私が千早に「代わって」しまう事になるのではないか。
そう考え、私は悩みました。その日は、夏休み最終日の前日でした。




