「着衣の人魚」(『晩歌 -BANKA-』)⑤
* * *
間もなく私は、千早が水難事故に遭って意識不明に陥った事を知りました。
いつものように練習に行き、彼女が来ていない事を疑問に思って顧問の先生に尋ねたところ、その事を教えられました。
「七海の件については、これから皆に言うつもりだったんだ」
そう言った先生の顔は、沈痛そうでした。
私は家に帰ると、すぐに千早の家に電話をし、彼女のお母さんに話を伺いました。
『何であんな事をしたのか、私たちも分からないの』
話によると、彼女は普段なら絶対に行く事のない深い川に入っており、足を滑らせて溺れたらしく、岸には脱ぎ捨てられた彼女の服と共に大量の川藻が積み上げられていたそうです。
私はその事を聞き、恐ろしくなりました。千早がその時何をしていたのか、すぐに察しがついたからです。
彼女は、「人魚」の餌を取ろうとしていたのだ──。
そうに違いないと私は思いました。
お小遣いがなくなって海藻が買えなくなり、その代わりに与えていた自分の髪の毛もほぼ尽きてしまった。だから、彼女は次の手段として川藻を採ろうとし、溺れたのです。
彼女のお母さんから、彼女が事故に遭った理由について心当たりはないか、と尋ねられた時、私はこの事を口には出せませんでした。
やはり「人魚」の事を打ち明ける事は、出来なかったのです。しかし、その理由は当初から変化しており、この時の私は「意識が戻った時に千早から責められるのではないか」と懸念していました。
その代わり、私は密かに「人魚」の元を訪れました。
千早が入院してから、丸一日食べ物を貰えなかった為でしょう、彼女は元気をなくしていました。が、最近訪れる事がなくなっていた私が顔を見せたので、やや嬉しそうに水を掛けてこようとしました。
この子の為に、千早はあそこまで追い詰められたのだ、と思うと、少々恨めしさが萌すような気もしました。が、その無邪気な仕草を見ていると、込み上げかけた悪い感情はたちまちのうちに雲散霧消してしまいました。
私は暫らく、黙って浴槽の前に佇んでいました。そうしていると、「人魚」が矢庭に浴槽の縁に上体を乗り出すようにし、こちらに手を伸ばしてきました。
「………!?」
そして髪に触れられ、それを口に含もうとされた時の、私の驚愕は如何程のものだったでしょう。
私は考える間もなく、脊髄反射のような動きで跳び退いていました。急にバランスを崩した「人魚」は、バシャン! と水飛沫を上げ、浴槽に滑り落ちてじたばたと藻掻きました。
私は慌てて「ごめん!」と謝り、彼女の手を取って引っ張り上げました。
それから、すぐに気付いて逡巡しました。
分かったのです、この子は、千早の代わりに私の髪を求めているのだと。逡巡しましたが、丸一日何も食べていない「人魚」を見ているうちに、胸奥の深い部分が疼くようでした。
もしこのまま放置していたら、この子は飢えて死んでしまうかもしれない。しかしもしも、それで私も、千早と同じ事になるのだとしたら──。
私は迷いました。が、結局、
「……はい、どうぞ」
ペンケースに入っていた鋏で自分の髪を少し切り取り、彼女に差し出しました。
それを美味しそうに口へと運ぶ「人魚」を見ながら、私はひとまずこの場は乗り切れたと思い、安堵の息を吐きました。
その一方で、これが私自身が千早のように、徐々に引き返しの利かないところへと向かい始めた嚆矢なのではないか、という予感もひしひしと感じられ、ぞっとするような気もしました。
それでも──確かに「人魚」の事は、可愛いと思えてしまうのでした。手放しては駄目だ、と思う程に。
* * *
その後、私がとても心配していたからでしょう、千早のご両親は何度か、入院した彼女の経過について電話で私に伝えて下さいました。しかしやはり、彼女が目覚める様子はないとの事でした。
その一方で、千早は朦朧とする意識の中で、夢を見ているのか譫言を言ってもいたそうです。蜜女の所に行かなきゃ、と。
それを聞いた時、私は違和感を覚えました。
(蜜女……?)
彼女から、私は普段「みっちゃん」と呼ばれています。その呼び方については、幼い頃からよく一緒に遊んでいた為、彼女のご両親も知っているはず。
その時電話をくれた彼女のお母さんが、ちょっと言い間違えただけの事だったのでしょうか。その可能性は十分にありましたが、私は妙に、心の中に引っ掛かるものを感じていました。
また、私は「人魚」の今後の食べ物についても考えていました。
私はあれ以来、毎日のように「人魚」の元を訪れ、少しずつ髪の毛を与えていました。私は髪を長く伸ばしていたので、内側の部分を切り取っていけば、千早程に目に見えて変化が生じる事もありませんでした。
最早「人魚」は、私が今までのように海藻を差し出しても見向きもしなくなっていました。
このままでは、私もいずれ千早のように限界が来る。いや、それ以前に、身内をごまかし続ける事が不可能になる。
その頃からでした、私の中に「『人魚』を手放す」という選択肢が生まれ始めていたのは。
勿論それは、手に負えなくなったペットの命を飼い主の身勝手な都合で奪うというような意味ではなく、本来「人魚」が居たのであろう場所に、そっと彼女を返す、という事です。
けれどその事には、やはり躊躇いがありました。私もまた、きっと千早はそう見てくれてはいないのかもしれないけれど、彼女と同じくらいに「人魚」の事を大切に思っていましたから。何処かに行ってしまったら、きっと悲しくなるのだろうな、と分かっていました。
その時には既に八月も半ばを過ぎて、夏休みの終盤に入っていました。




