「着衣の人魚」(『晩歌 -BANKA-』)③
* * *
こうして私たちは、周りの人たちには内緒で「人魚」の飼育を始めました。
薄々予感していた通り、やっぱり餌代に関しては千早が一人で出し続ける事には無理があり、私も払う事になりました。とはいえ、二人で飼う事にしたのだから、別に文句があった訳ではありません。
人魚の食性がどういうものかなんて事はネットにも本にも載っていないのでかなり困りましたが、私は以前ディズニー映画で人魚が海藻サラダを食べていた事を思い出し、それらをあげてみてはどうか、と提案しました。
私は千早の家を訪ね、彼女と一緒に「人魚」にワカメや海ぶどうなどをあげてみましたが、そうすると「人魚」は解れて簾の如く垂れ下がった髪の毛の隙間から口元を覗かせ、それらを食べてくれました。そこで私たちは初めて、一部分とはいえ「人魚」の顔を見る事が出来たのです。「人魚」の肌は青白く、プールの底に沈んでいた為でしょう、緑青色をした藻のようなものがあちこちにくっついていましたが、それを拭き取ろうとすると黒っぽい血が滲んでしまい、私たちは慌てて拭き取るのを中止しました。
上半身が人間の姿なのでついつい人間と同じように考えてしまいますが、彼女は私たちにとっては全く未知の生き物なのです。思っている以上に皮膚が敏感で弱いのかもしれない、と思い、汚れは水浴びをさせているうちに自然に落ちるのを待とうという事になりました。
彼女のボロボロの着衣は除く事が出来ず、それと繋がっているような尾鰭の爛れも回復の兆候を見せませんでしたが、その体調は徐々に良くなっているようではありました。
「みっちゃん! あの子ね、今日跳ねたんだよ」
私が千早の家を訪れて「人魚」に会いに行くのは、基本的には水泳部の練習が終わった後でしたが、学校で会うと千早は真っ先に、朝彼女が見た「人魚」の様子について教えてくれました。
彼女は、段々あの「人魚」が可愛くて仕方がなくなったようでした。家に居る分彼女が「人魚」と共有する時間は私よりも必然的に長くなるし、家族にバレないようにするのに相当気は遣っているようでしたが、やっぱり手間が掛かるとその分だけ愛情も増すようです。
それは、私も間もなく身を以て体験しました。「人魚」は確かに元気になっているようで、調子のいい日には浴槽の水を両手で跳ね飛ばし、私たちに悪戯をしてくる事もあります。ある日は、いつものように海藻をあげていた私に向かって、そこだけ見える口元をにっと綻ばせて微笑みを見せてくれました。
「この子にも、そろそろ名前をつけてあげない?」
飼育を始めて一週間程が経ち、私がそう提案すると、千早もそれに賛成してくれました。
私は命名が上手じゃないので──ゲームでのニックネームなどはいつも本名の「みつな」にしてしまいます──、名づけ親には千早がなっていいよ、と言いました。彼女は暫し考え込んでいましたが、
「……すぐっていうと、やっぱり難しいね」
やがて照れたように頭を掻きながらそう言いました。
「そのうち思いついたら、みっちゃんにも教えるね」
* * *
千早の「人魚」に対する愛着は、自宅にスペースを設けて彼女を住まわせ、いつも食事を与えたり水の交換を行ったりしているのでやはりどうしても私よりも強くなるようでした。
彼女はそのうち、
「ずっと狭い浴槽に閉じ込めておくのも可哀想じゃない?」
と言い出し、それをきっかけに、私たちは「人魚」に海を見せに行こうという事になりました。
私は、プールの底で見つかった「人魚」が一体何処からやって来たのか、という事を時々考えており、家のPCを使って、江戸時代にブームになったという人魚の事や西洋の人魚に関する民間伝承を調べたりしていましたが、やっぱり淡水よりも海水に生息しているという記述の方が多かったので、海に連れて行ってみるというのはいい考えのように思いました。
もしかしたらあの「人魚」も、海を見る事で自分が何処からやって来たのかを思い出すかもしれません。
私と千早は話し合い、下半身が魚の彼女をどうやって連れ出そうか、と考え、その部分を隠した上で自転車に乗せるという方法を採る事にしました。その際、使用したのは奇しくもマーメイドスカートでした。
私も千早も、小学生の頃には夏になるとよく家族や友達で海水浴に行ったものでしたが、いつしかそういった事も少なくなっていました。中学生になると、皆当時より活発でなくなり、暑い日は家に籠りがちになります。それに、泳ぐのであれば学校のプールが開放されているのでそれでいいじゃん、という事にも。
私たちはあえて海水浴客の居ない遊泳禁止の海岸に行き、「人魚」を波打ち際まで連れて行きました。
「……どうかな? 何か、思い出せそう?」
私は、今まで「人魚」が喋ったのを聞いた事がないにも拘わらず、自然にそんな事を尋ねていました。
彼女は案の定その問いには答える事なく、神妙な様子で水平線の方に顔を向け続けていました。
私はそんな彼女の、髪に隠れて見えないはずの視線に、何処となくホームシックのような情緒が漂っているのを感じました。が、その時は先入観もあり、そう見えていただけかもしれません。
しかし、千早も私と同じ印象を抱いたようでした。
黙って「人魚」に寄り添い続けていた彼女は、徐ろに
「ねえ……何処にも行っちゃわないよね?」
ぽつりと、思わず零れ出したというようにそう呟きました。
その声色は、本気で心配そうで、何処か寂しそうにも聞こえて、私はそこで、彼女が「人魚」といつかお別れする日が来る事を憂えているのだ、という事に気が付きました。
その時私は、自分たちが「人魚」をいつまで周囲の人たちに隠して飼い続けるのかという事について、具体的な事を何も考えていなかった事に気付きました。私たちは最初、あまりにも弱りきり、助けを求めているようだった「人魚」を可哀想だと思って飼う事にした訳ですが、彼女が元気になった後はどうすればいいのか、という事は不思議に考えもしなかったのです。
しかし、千早のその時の言葉を聞いた時、私は何となく予感を抱きました。
きっと千早は、彼女とのお別れを望まないのだろう、と。




