「着衣の人魚」(『晩歌 -BANKA-』)②
* * *
「蜜女! 千早ちゃんからお電話よ!」
翌朝、私を眠りから覚ましたのは、階下から響いて来たお母さんの声でした。
昨夜は夜中にこっそりと帰宅した私でしたが、幸い家族の誰にも見つかる事はありませんでした。濡れた水着は、夜中にもう一度洗濯機を回す訳にも行かないので自室の窓際に吊るして乾かしましたが、まだ生乾きでした。この日も水泳部の練習はあるので、湿った水着を着なければならないのは何となく気持ち悪い気がしましたが、私たちはその程度の事は我慢しなければ、と思って、承知の上で「秘密の特訓」を計画したのです。
とはいえ洗わずに干した水着は、乾くに連れてプールの消毒用の塩素の匂いが強くなり、目を覚ますと同時に部屋の中に潮のような香りが漂っていました。その為でしょうか、帰ってからすぐに眠りに就き──プールから上がった後は疲労に加えて水圧で副交感神経が優位になるので眠くなるのです──、見た夢の内容は海岸で遊んでいるものでした。
お母さんから、千早から電話が来た事を告げられた私は一気に微睡みから引き上げられました。まさか、彼女の方では昨夜の夜間外出が露見したのでは……という考えが萌し、慌てて一階に下りました。
千早自身も同意の上で「秘密の特訓」に付き合ってくれた訳ですが、唆したのは私です。
パジャマのまま、寝癖のぴんぴんと立った髪を梳かす事もせずにお母さんから受話器を受け取った私が「もしもし」と出ると、電話口の向こうの千早はやや声を潜めながら『おはよ』と挨拶してきました。
『ごめんね、みっちゃん。こんな朝っぱらから』
「それはいいけど、どうしたの?」
私が尋ねると、千早は増々声を小さくして『それがさ……』と言ってきました。
『居るんだよね……私ん家の、庭に』
「居るって、何が?」
『その……昨日の人魚が』
私は息を呑むと共に、それで彼女が急に内緒話をするように声を潜めた理由に納得が行きました。私は、家族とはいえこちらのプライバシーを尊重してくれているのかやや離れた所に居るお母さんの方をちらちらと見ながら、千早と同じように囁き声になって尋ねました。
「千早、まさかあの後で学校に戻ったりは……?」
『してない、してない! あの子も、私たちがプールに放置して来たままだったはずなのに』
「千早の家の人たち、もう知ってるの?」
『まだなの。私、早く起きてカーテン開けて、いちばん最初にあの子が倒れているところを見つけたんだけどさ。とにかく、家族に見つかる前にどっかに隠さなきゃって思って。
うちさ、去年改築したばっかりで、庭の離れに今じゃ使ってない浴槽があるんだよね。今はそこに、水張ってあの子を入れてあげてる。そしたらさ、あの子、ちょっとだけ動いて』
「動いた……?」
『だけど、まだ元気っては言えない感じね』
千早はそこまで言うと、矢庭に『ねえ』と声色を変えました。
『みっちゃん、この事さ……私たちだけの、秘密にしておいてくれると助かるんだけど』
「えっ?」
『あの子ね、尾鰭が腐っちゃってるの。魚がそうなるのって、完全に弱っちゃってる証拠なんだよね。最初に見た時、ちょっと怖かったけど──なんか、段々可哀想になってきちゃって』
「秘密にするのはいいけど」
言われずとも、私はそうするつもりでした。夜の学校に忍び込んでプールに入った事などが知られれば大目玉でしょうし、人魚が居たなんて事を話しても、きっと誰も信じないでしょう。もし信じてくれたとしても、それで大騒ぎになったりしたら面倒です。それに、その結果あの「人魚」が何処かに引き取られ、解剖なんかされたりしたら──という、よくある心配も胸中にはありました。
しかし、
「どうするの、その子? 隠しておくにしても──」
いつまでもそうしておく訳には行かないし、と続けようとした私でしたが、それよりも早く千早が言いました。
『それなんだけどね、みっちゃん。……私たちで、お世話してあげるっていうのは駄目かな?』
「それって、飼うって事?」
『とにかくあの子、元気にしてあげたいの』
彼女の声は、抑えられていながらも切実でした。私は、当然躊躇いました。
「だけど私たち、当たり前だけど人魚の飼い方なんて知らないし……第一、場所はどうするの?」
『うちの、さっき言った浴槽を使う』
千早は『お願い!』と言ってきました。受話器の向こうで、彼女の手刀を切る様子が目に浮かぶようでした。
『あの子、私たちは一回見捨てちゃったのに、頑張ってうちまで来たのよ。きっと私たちに、助けて欲しいって言ってるんだと思う。
もしバレたら、私が責任取る。ご飯のお金とかも私が出すし、基本的には私が面倒見て、みっちゃんはちょっとお手伝いしてくれるだけでいい。絶対にみっちゃんに迷惑掛けたりしないから、ね?』
「………」
私は、暫し呻吟しました。
確かに、あのぐったりした「人魚」の姿を思い起こした時、千早のように「可哀想だ」と思う気持ちが全然なかったといえば嘘になります。それに、飼う為の場所も彼女の方で用意してくれるというのなら、私が家族の目を盗むような真似をする必要もないでしょう。
私はそう考え、千早に対して返事をしました。
「分かった。千早がそう言うなら」
『ありがとう、みっちゃん!』
ほっとしたように言う彼女の声を聞きながら、私は何となく「だけど」と考えていました。
千早はああ言ったけれど、やっぱり餌代は多かれ少なかれ私も持つ事になるのだろうな、と。アルバイトの出来ない中学時代の私たちの収入源なんて、月々のなけなしのお小遣いくらいのものでしたから。




