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第87話「手が震えた」

剣より頭、魔法より読み。


平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。


ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。

「ジェル、この方向に20〜30名ほどの小集団がいるな。気配を消して近寄れるか?」


 担がれたマイトランドは、移動中に急に南東方向へ腕を上げると、ジェラルトに言った。


 ジェラルトの右肩に腹を下にして後ろ向きに担がれているため、マイトランドが腕を上げた方向は、ジェラルトにはよく見えない。


「ああん?どっちだ?服を引っ張ってくれ。そっちに向かうから。」


「ああ、すまんすまん。そうだな。こっちだ。」


 マイトランドが南東方向にジェラルトの服を引くと、ジェラルトは一度立ち止まり、マイトランドを担ぎ直してから方向転換し、再び移動を開始した。


「肩を2度叩いたら近い合図だ、止まってくれ。」


「わあぁったよ。早めに頼むぜ。」


 それからしばらく走ると、マイトランドがポンポンと二度肩を叩いた。


 ジェラルトは即座に足を止め、音を殺してその場にしゃがみ込んだ。


「降ろしてもいいか?さすがに疲れたぜ。」


「ダメだ。ここは帝国軍第18軍団の、観測所手前の監視地域だ。帝国兵がどこで見ているかわからん。2人で歩いているところを見られると、偵察行動だと判断される。1人が1人を担いでいれば、負傷兵の搬送だ。帝国が敵と見なすのは武装した集団であって、怪我人を運んでいる兵士じゃない。」


「……お前、いつからそこまで考えてたんだよ。」


「担がれてる間、暇だったからな。」


 マイトランドはそう言うと、少し声を落とした。


「ジェル。ここから先の話をする。」


「おう。」


「少し土産が欲しいな。俺がここに残るから、適当に敵の配置を調べてきてくれ。目の前にいるヤツらが小隊規模だ、何かの先遣隊だろう。後方に大隊以上の大きな部隊がいるはずだ。気配察知した感じ、この方向とこの方向あたりだな。」


 そう言って、2つの方角を指差した。


「適当に行って一発ぶっ放して、派手に逃げて来い。」


「え?ちょっと待てよ。俺が偵察するのは異能があるからいいとしても、お前はどうするんだよ。丸腰だぜ?アレがあるとしても、もし襲われたら無理ってもんだろ。」


「この足じゃ走れん。一緒に行っても足手まといになるだけだ。それにな、今の俺が軍人に見えるか?飯も食ってないただの農民だろ。大丈夫だ。地面に横になって寝ておくさ。」


「寝ておくって……お前な。」


「それとな、逃げるときは火薬袋を何個か落として盛大に逃げて来い。着火はお前の魔法で出来るだろう。出来るだけ一杯引き連れて帰って来てくれよ。」


 ジェラルトは一瞬黙った。


 マイトランドが言っていることの意味は分かっている。火薬袋を落として爆発させれば、追っ手は複数の敵がいると判断する。1人の偵察兵を追っているだけだと思わせないためだ。そして大勢を引き連れて帝国軍の監視地域に突っ込めば、帝国軍は国境を越えて自国の監視地域に侵入してきたカルドナ軍を排除せざるを得ない。


 つまり、ジェラルトは餌だ。


 そしてマイトランドは、動けない体で帝国の目の前に転がっている、もう一つの餌だ。


 カルドナ軍が1〜2名の兵士を追って帝国の領域に踏み込む。帝国にとっては挑発そのものだ。


 放っておけばカルドナ軍がそのまま帝国領に食い込んでくる可能性がある。帝国軍が動かない理由がなくなる。


「……わあぁったよ。」


 ジェラルトはそう言うと、腰のピストレットに手を当て、火薬袋の数を指で確認した。


「ああ!?模擬戦じゃねえからな。死ぬんじゃねえぞ。」


「お前もな。」


 マイトランドが静かにそう返すと、ジェラルトは鼻で笑った。


「俺が死ぬわけねえだろ。」


 ジェラルトはマイトランドが頷くのを確認すると、その場にゆっくりとマイトランドを降ろした。


 マイトランドは地面に横になり、ボロ布を体にかけると、目を閉じた。


 その姿は、どこからどう見ても行き倒れの農民にしか見えなかった。


 ジェラルトはもう一度だけ振り返り、それから敵の主力への威力偵察と誘導に向かった。


 マイトランドは、ジェラルトの足音が完全に消えたことを確認すると、静かに目を開けた。


 仰向けのまま、夜空を見上げる。


 星が出ていた。雲は少ない。風は南東から。乾いた風だ。


 マイトランドは目を閉じ、意識を集中させた。


 視界が切り替わる。


 水色の鳥が上空に舞い上がり、マイトランドの目には地上の光景が広がった。


 まず南東。ジェラルトが向かった方向だ。


 先遣隊の陣地が見える。篝火が3つ。天幕が4張。小隊規模で間違いない。歩哨が2名、南側に立っている。北側、つまりマイトランドたちがいる方向への警戒は薄い。


 その先、さらに南東。


 篝火の数が一気に増えた。天幕の数は数え切れない。馬繋場がある。指揮所らしき大型の幕舎が中央に1つ。


 マイトランドは前話で地形から推測した敵の規模を、上空から改めて確認した。


 連隊規模。間違いない。


 ただし、天幕の間隔が広い。兵の数に対して陣地が大きすぎる。つまり、この連隊は定数を満たしていない。実際の兵力は連隊の6〜7割といったところだろう。それでも大隊よりは遥かに多い。


 次に北西。帝国軍第18軍団の方向だ。


 マイトランドは帝国軍の陣地の位置から逆算した。


 砲兵の射程、観測に必要な視界、後方との連絡手段。それらを考えれば、前進観測班を出す位置は限られる。


 おそらくあの稜線の手前だ。掩体を掘り、完璧に偽装しているだろう。鳥の目でも見えるはずがない。帝国軍ならそうする。


 マイトランドは口元だけで、かすかに笑った。


 見られている。それでいい。


 この作戦は帝国に見てもらわなければ意味がない。行き倒れの農民が寝ている。その農民をカルドナ軍が大勢で追いかけてくる。帝国軍の監視地域で、だ。


 帝国が何もしなければ、カルドナ軍はこの地域を自由に使えると学習する。帝国にとって、それは許容できない。


 マイトランドは再び目を閉じ、水色の鳥をジェラルトの方向に飛ばした。


 ジェラルトはちょうど先遣隊の陣地を大きく西に迂回し、敵本隊の野営地に向かって走っていた。


 隠密の異能が発動している。足音もない。気配もない。闇の中を影だけが滑るように移動している。


 大丈夫だ。ジェラルトならやれる。


 マイトランドは、そう自分に言い聞かせた。


 ジェラルトは走りながら、呼吸を整えていた。


 敵の先遣隊を迂回するのに時間はかからなかった。マイトランドが方角を指差してくれたおかげで、無駄な探索をせずに済んでいる。


 あいつの気配察知はいつもながら反則だ、とジェラルトは思った。担がれながら、揺られながら、それでも周囲の敵の位置を正確に読んでいる。


 やがて、風に乗って焦げた木の匂いが届いた。


 篝火の匂いだ。近い。


 ジェラルトは速度を落とし、姿勢を低くした。隠密の異能に加え、風の指向性を自分の周囲に集め、足音と気配を周囲に散らした。


 木々の間から、ちらちらと光が見え始めた。


 篝火だ。1つ、2つ、3つ。いや、もっとある。ジェラルトが数えられる範囲だけで10を超えていた。


 さらに近づくと、天幕の群れが視界に広がった。


 敵カルドナ王国軍の野営地だ。


 ジェラルトは息を止め、木の陰から野営地を観察した。


 マイトランドの言った通りだ。先遣隊の後方に、大隊どころか連隊規模の部隊がいる。天幕の配置、馬繋場の規模、篝火の数。すべてが大部隊の存在を示していた。


 ジェラルトの目が、野営地の中央に据えられた大型の幕舎を捉えた。


 指揮所だ。


 幕舎の前に衛兵が2名。幕舎の中から光が漏れている。誰かがまだ起きている。


 ジェラルトは腰からピストレットを抜いた。


 火薬を流し込む。弾丸を込める。槊杖で押し込む。


 その動作の一つ一つが、グレイグに教わった通りの手順だった。


 だが、手が震えていた。


 ジェラルトは、自分の手を見下ろした。


 震えている。間違いなく、震えている。


 模擬戦では、こんなことは一度もなかった。木剣で殴り合っても、騎兵に突っ込んでも、砦に潜入しても、手が震えたことはない。


 だが今、この銃口の先にいるのは、演習用の防具をつけた同期ではない。


 生きている人間だ。


 引き金を引けば、死ぬ。


 イブラヒムに言った自分の言葉が頭をよぎった。


 ――怖いのは普通だ。


 ジェラルトは歯を食いしばると、ピストレットを構え直した。


 狙いを定める。敵の中央幕舎。衛兵と衛兵の間。幕舎の入口を覆う布の向こう側。


 あの中に、この部隊を率いている誰かがいる。


 ジェラルトは息を吐き切り、引き金を絞った。


 ズドーン。


 銃声が夜の山間に響き渡った。


 近くの木に止まって羽を休めていた鳥たちが、発砲音に驚き一斉に飛び立った。


 弾丸は火薬の力に押されて、一直線に敵中央幕舎へと吸い込まれていった。


「ぐわあああ。」


 大きな悲鳴が上がった。


 幕舎の布が内側から激しく揺れ、何人かのカルドナ軍人が手に松明を持って飛び出してきた。


「敵襲!敵襲!」


 ピーッ!ピーッ!ピーッ!ピーッ!


 敵襲の報と、それを知らせる笛の音が連鎖し、まるで巣穴の傍で甘いものを見つけた蟻のごとく、カルドナ王国軍人たちが周囲の天幕から大量に湧いて出た。


「大隊長がやられたぞ!探せ!!生かして返すな!」


 その叫びが耳に届いた瞬間、ジェラルトの視界が一瞬白くなった。


 大隊長。


 殺った。


 人を殺した。


 膝から力が抜けかけた。胃の奥から何かがせり上がってくる。指先が痺れ、ピストレットを取り落としそうになった。


 模擬戦で何度も敵を倒した。ロンベルトの槍を弾き返した。砦でライナーを取り押さえた。だがそのどれとも違う。今のは、確かに人の命を奪った手応えだった。


 ジェラルトは目を強くつむり、歯を食いしばった。

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