第75話「あいつらなら心配はいらねぇ」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
ドワイトは会議室の隅に座ったまま、腕を組んでいた。
第2軍への配属。事実上の左遷だ。教官たちがどう受け取ろうが、ドワイトにとっては織り込み済みだった。あの二人に103回も罰則をつけておいて、何のお咎めもなしで済むとは最初から思っていない。
——まあ、そうだろうな。
3年前、トランガ中将に呼び出された日のことを思い出した。
「ドワイト、貴様に任せたい仕事がある。新兵教育隊に入る平民が二人いる。徹底的に鍛えろ。」
それだけだった。理由も目的も告げられなかった。ただ、軍参謀本部副本部長が直々に指名した以上、ただの新兵ではないことだけは分かった。二人が受けている試験は貴族用だ。その費用も受験資格も、誰かが手配している。トランガ中将かどうかは分からない。だが、他に心当たりもなかった。
最初は面倒な仕事を押し付けられたと思った。だが、あの二人と過ごした日々は——
——いや、それはいい。
ドワイトは思考を切り替えた。問題は妻だ。
軍曹の給金は安い。教育隊に配属されてからの3年間、前線手当もつかなかった。妻には苦労をかけた。繕い物の内職をしているのを知っていたが、何も言えなかった。それでもあの女は、夫が前線に出ない。毎日帰ってくる。それだけで十分だと言った。
それが、また前線だ。しかも第2軍。カルドナとの国境だ。
——あいつ、泣くだろうな。いや、泣かねぇか。あいつは泣かない。黙って飯を作って、黙って荷物を詰めて、黙って見送る。それが一番きつい。
ドワイトは溜息を噛み殺した。
だが、次にフランドールの口から出た言葉は、予想していなかった。
曹長への昇進。騎兵兵科への転換。
ドワイトの腕組みが、わずかに緩んだ。
——曹長か。
15年の軍歴で、軍曹のまま止まっていた階級が動いた。教育隊では昇進の機会などない。前線にいた頃から、とうに諦めていた。
曹長の給金は軍曹とは違う。あの女に、少しはまともな暮らしをさせてやれる。繕い物の内職をしなくて済むかもしれない。
騎兵への兵科転換。ドワイトの目が、一瞬だけ光った。
元々、騎兵だった。部下が騎兵の突撃に巻き込まれて死んだ日、ドワイトは自ら歩兵への転属を願い出た。馬に乗ることが嫌になったのではない。馬の上から振り下ろされる刃で部下を失ったことが、許せなかった。
だが、今は違う。
あの二人が第2軍に行くなら、騎兵として隣にいた方がいい。歩兵のままでは、あいつらの速さにはついていけない。
——それに、あの男の頭にぶら下がっていれば、もう一つ二つ階級が上がるかもしれねぇ。
ドワイトは内心で笑った。103回も罰則をつけた相手の出世にぶら下がろうとしている。我ながら図々しい話だ。だが、あの男の盤面の読み方を間近で見てきた。ラッセルは上に行く。間違いなく行く。その隣にいれば、引き上げられる。それだけは確信していた。
——「階級が上がった」って先に言えば、怒りが少し収まるかもしれねぇ。いや、あの女はそういう順番に騙されるタイプじゃねぇな。
フランドールがブレンナーと話している声が、遠く聞こえていた。
——まあ、いい。どうせ殴られる。だが、曹長の給金なら、あいつに少しいい布でも買ってやれる。
ドワイトの口元が、かすかに歪んだ。笑みとも苦笑ともつかない、この男だけの表情だった。
——トランガ中将。あんたの見立ては正しかったよ。あいつらなら、心配はいらねぇ。
フランドールは書類を整え終えると、ブレンナーに目を向けた。
「ブレンナー少尉。」
「はい。」
「君の思惑通りとまではいかないが、一つ伝えておくことがある。」
ブレンナーが顔を上げた。
「総合順位は公式記録として確定する。首席ラッセル、次席ランズベルク、第三席フリオニール・フォン・グレッテ。これは覆らない。」
ブレンナーの表情が硬くなった。
「だが、修了式での首席発表は行わない。」
ブレンナーの目が微かに動いた。
「戦時下に移行した以上、修了式は簡略化される。順位の読み上げも、壇上での表彰も行わない。新兵には配属先の通達のみを行う。」
「それは……大佐のご判断ですか。」
「大本営の前倒し命令に伴う措置だ。式典に時間を割く余裕はない。結果として、貴族院の耳に入るのは記録のみということになる。壇上で平民の名が読み上げられるのと、書類の一行に名前があるのとでは、政治的な意味が違うことくらい、君にも分かるだろう。」
ブレンナーは黙った。しばらく考え込んでいた。
「……正式記録には残る。しかし、公の場では発表しない。」
「そうだ。私は評定を歪めない。だが、無用な騒ぎを起こす趣味もない。ラッセルの首席は事実だ。だが、今この国に必要なのは、派閥争いではなく、戦える兵士だ。」
ブレンナーは長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……了解しました。」
それは納得の言葉ではなかった。だが、少なくとも抵抗の言葉でもなかった。
フランドールは立ち上がった。
「修了式は明日に前倒しする。各班長は本日中に班員に通達しろ。ただし、第2軍の被害状況については一切口外するな。新兵に伝えるのは、カルドナ王国の宣戦布告と、部隊配属の前倒しのみだ。」
教官たちが頷く中、フランドールは最後にもう一度、書簡に目を落とした。
「……ネイ少将、行方不明か。」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
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