第70話「誰も答えられなかった」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
時同じくして、ネイ将軍の守るヴェルタ軍第2軍第1軍団の陣地にも、カルドナ王国軍第4軍が動いた。
正面から、本格的な攻撃が始まったのだ。
ネイ将軍は三重の塹壕に兵を配置し、丘の頂上から弓兵が射撃を浴びせた。
カルドナ王国軍の先鋒が第一塹壕に迫った。だが、塹壕の手前に仕掛けられた逆茂木が、敵騎兵の突撃速度を殺した。馬が逆茂木の杭に脚を取られて転倒し、後続の騎兵が次々と玉突きのように崩れた。そこへ弓兵の矢が降り注ぐ。
騎兵を諦めたカルドナ王国軍は、重装歩兵を前面に押し出した。厚い鎧で矢を弾きながら前進する重装歩兵は、逆茂木を力ずくで引き剥がし、第一塹壕に迫った。
だが、塹壕の手前30歩の地面が、突然崩れた。
落とし穴だった。深さは腰ほどだが、底には先を尖らせた木杭が並んでいる。重装歩兵が重い鎧ごと落ちれば、自力では這い上がれない。もがく重装歩兵の上から、第一塹壕の兵が槍を突き下ろした。
後続の歩兵は落とし穴を避けて迂回しようとしたが、迂回路は左翼の開けた平野に向かう一方通行だった。ネイ将軍が意図的に、そう設計していた。迂回した敵歩兵は、丘の上から側面射撃を受け、陣形を保てないまま後退した。
6日間かけて築いた陣地は、設計通りに機能した。
カルドナ王国軍の第1波は、第二塹壕に到達することすらできなかった。
敵の先鋒が退いた後、ネイ将軍は戦場を見渡した。
「第2波が来る。それまでに陣地の補修と負傷者の後送を急げ。」
冷静な声だった。兵士たちは将軍の声に安堵の表情を浮かべ、黙々と作業を始めた。逆茂木を補修し、落とし穴に落ちた敵兵を引き上げ、崩れた塹壕の壁を突き固める。
だが、ネイ将軍の目は陣地の正面ではなく、背後のグルノブルット方向を見ていた。北の空が、不自然に赤い。
「あれは何だ。」
副官が望遠鏡を覗いた。
「グルノブルット方面に火の手が見えます。」
ネイ将軍の表情が変わった。
「司令部が襲われている。山を越えてきたか。」
状況は即座に理解できた。正面の攻撃は陽動ではない。だが、本命は背後だ。司令部が潰されれば、補給が止まる。補給が止まれば、この陣地は干上がる。
ネイ将軍の脳裏に、あの取り決めが過った。北側の斥候はヴェルタ軍第2軍司令部が出す手筈だった。あの火の手を見る限り、出していなかったのだろう。
だが、ネイ将軍はその言葉を口にしなかった。今それを言っても何も変わらない。
「援軍要請を出せ。司令部が混乱する前に、判断を仰ぐ。」
伝令が駆け出した。第三塹壕から馬を引き出し、後方の中継点に向かって走り出す。
ネイ将軍はそれを見送ると、正面に向き直った。第2波は間もなく来る。援軍が来るかどうかは分からない。だが、今やるべきことは目の前にある。
「全員、陣地を守れ。我々の仕事は、ここを通さないことだ。」
兵士たちは頷いた。北の空が赤いことに、全員が気づいていた。ヴェルタ軍第2軍司令部で何かが起きている。補給は来るのか。援軍は来るのか。不安が塹壕の中を這うように広がっていた。
だが、ネイ将軍が平然と塹壕の壁を点検し、弓兵に矢の残数を確認させ、負傷者に声をかけている姿を見て、兵士たちは黙って持ち場に戻った。
将軍が動じていない。それだけが、今この陣地を支えていた。
援軍要請はヴェルタ軍第2軍司令部に届いた。
だが、ツェッペリン将軍の手元には、それに応じるだけの余裕がなかった。
司令部周辺ではカルドナ王国軍別働隊との戦闘が続いている。どの部隊がどこにいるのか把握できていない。予備兵力はあるが、それを動かせば司令部の防衛が手薄になる。何より、馬繋場を襲われたことで騎兵部隊の大半が馬を失い、急行できる機動兵力がなかった。
幕僚の一人が進言した。
「ネイ将軍の陣地は堅固です。援軍なしでも持ちこたえるのでは。」
ツェッペリン将軍は答えなかった。彼の頭の中では、数字が合わなかった。手元の兵力、司令部の防衛に必要な数、ネイに送れる数、動かせる馬の数。どう計算しても、余裕がない。全てが揃わない限り、この男は動けなかった。
「……現時点では、援軍は出せない。ネイには持ちこたえるよう伝えよ。」
その一言が、ヴェルタ軍第2軍第1軍団の運命を決めた。
カルドナ王国軍第4軍の第2波攻撃は、第1波とは比較にならない規模だった。
カルドナ王国軍重装歩兵第4軍団が正面に圧力をかけ、カルドナ王国軍銃歩兵第6軍団が左翼の開けた平野から射撃を浴びせた。ネイ将軍が騎兵の反撃用に確保していた出撃路が、敵の銃弾で封じられた。
第一塹壕が突破された。
今度は逆茂木も落とし穴も効かなかった。第1波で構造が露見した罠は、第2波では避けられるか、埋められるかした。陣地は使い捨てではない。だが、罠は使い捨てだった。
ネイ将軍は第一塹壕の兵を第二塹壕に下げ、防御を集中させた。弓兵は矢を惜しまず射ち続けたが、重装歩兵の厚い鎧の前では効果が薄い。
それでも、第二塹壕は持ちこたえていた。ネイ将軍が6日間かけて築いた防御線は、簡単には崩れない。
だが、時間が経つにつれて状況は変わった。矢が尽き始め、負傷者が増え、交代する兵がいなくなった。何より、背後から届くはずの補給が来ない。
副官が近づいた。
「将軍、援軍の返答です。現時点では援軍は出せない、持ちこたえよ、と。」
ネイ将軍は一瞬だけ目を閉じた。それから、いつもと変わらぬ声で言った。
「そうか。なら、我々だけで守る。」
だが、ネイ将軍は分かっていた。補給なしでは、この陣地を維持できる時間に限りがある。兵を消耗させ続けた先にあるのは、全滅だ。
陣地を守り続けるか。兵を退かせるか。
ネイ将軍は第三塹壕に退き、残存兵力を数えた。まだ戦える兵は半数を切っていた。
「撤退を開始する。負傷者を先に下げろ。殿は私が務める。」
副官が声を上げた。
「将軍自ら殿を!」
「私が残れば、兵は最後まで秩序を保つ。崩れた撤退は追撃で全滅する。いいから行け。」
部下たちが動き始める中、数名の兵士が踏み留まった。
「将軍、自分も残ります。」
ネイ将軍は振り返った。名乗り出たのは、陣地構築の初日から共に塹壕を掘った古参の歩兵たちだった。
「お前たちが生きて帰ることが、この陣地の最後の戦功だ。ここで死ぬことではない。行け。」
兵士たちは動かなかった。ネイ将軍はその顔を一人一人見た。
「命令だ。」
静かな一言だった。だが、将軍の声には有無を言わせぬ重みがあった。兵士たちは唇を噛み、一人、また一人と背を向けて走り出した。
最後に残った古参の一人が振り返り、敬礼した。ネイ将軍は敬礼を返すと、丘の頂上に向き直った。
ネイ将軍は丘の頂上に立ち、最後の弓兵と共に追撃してくるカルドナ王国軍を迎え撃った。
撤退する部隊の背中が、グルノブルットへ続く一本道の向こうに小さくなっていく。秩序は保たれていた。崩れた撤退にはなっていない。
それを確認した時、ネイ将軍の口元に微かな笑みが浮かんだ。
ヴェルタ軍第2軍第1軍団の陣地を占領したカルドナ王国軍が、ヴェルタ軍第2軍司令部を急襲したカルドナ王国軍別働隊に合図を送ると、別働隊がヴェルタ軍第2軍司令部より撤退を開始した。
カルドナ王国軍別働隊の目的は最初から、ヴェルタ軍第2軍司令部の壊滅ではなかった。混乱させ、援軍を出させず、ネイの陣地を孤立させる。それだけで十分だった。
敵の一時後退により、ようやくヴェルタ軍第2軍本隊は態勢を整えた。だが、気づいた時にはヴェルタ軍第2軍第1軍団の陣地はカルドナ王国軍の手に落ちており、物資集積所は灰と化していた。
ツェッペリン将軍は残存する兵力を確認した。兵力の差から、カルドナ王国軍が後退することはなかった。だが、進軍するには物資が足りない。奪われた陣地を取り返すだけの力も、今のヴェルタ軍第2軍にはなかった。
そこに留まることしかできなかった。
ヴェルタ軍第2軍第1軍団の残存兵力がグルノブルットに帰還したのは、翌日の昼だった。
隊列は乱れていなかった。負傷者を担架に乗せ、互いに肩を貸し合いながら、兵士たちは秩序を保ったまま戻ってきた。ネイ将軍が殿を務めると宣言したあの一言が、最後まで撤退を支えていた。
だが、ネイ将軍の姿はその中になかった。
最後に将軍を見たのは、副官だった。副官自身も重傷を負い、担架の上で意識が朦朧としていた。
「将軍は……最後まで、丘の上にいました。撤退する我々の背中を見て……笑っておられました。それ以降は……分かりません。」
帰還した兵士たちが将軍の名を呼んだ。
「ネイ将軍!」
「将軍はどこだ!」
誰も答えられなかった。声は虚しく、グルノブルットの街に響いて消えた。
捜索隊が編成されたが、陣地は既にカルドナ王国軍の支配下にあり、近づくことすらできなかった。
ネイ将軍の生死は、不明のままだった。
ツェッペリン将軍はネイの消息を尋ねた。幕僚も兵士も、誰も答えられなかった。
6日間で陣地を築き、カルドナ王国軍の第1波を完璧に退け、兵を生かすために殿を買って出た男の行方を、誰も知らなかった。
面白いと思っていただけたら、ブックマークしていただけると大変励みになります。次回もよろしくお願いします!




