第69話「山を越える敵」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
マイトランド達の試験の数日前、カルドナ王国軍が先に動いた。
ヴェルタ正面に展開するカルドナ王国軍第4軍の兵はそのままに、ネイ将軍の斥候からは見えない後方から2個騎兵師団、1個銃歩兵師団、2個弓兵師団を抜き出し、別働隊として編成した。
別働隊に与えられた命令は一つ。平野北部に聳えるガゲンテラ山を北から迂回し、グルノブルット北方からヴェルタ軍第2軍司令部を攻撃せよ。
正面のネイ将軍が背中を預けた、あの山の裏を通れということだ。
ネイ将軍のヴェルタ軍第2軍第1軍団は、この動きを察知できなかった。
ヴェルタ軍第2軍第1軍団と司令部の間には、斥候の管轄に関する明確な取り決めがあった。ガゲンテラ山の南側——国境に面した平野部の斥候はヴェルタ軍第2軍第1軍団が担当する。北側——グルノブルットの後方と山岳地帯の斥候は、ヴェルタ軍第2軍司令部が担当する。
ネイ将軍は自らの管轄を完璧に果たした。20個の騎兵小隊を代わる代わる送り出し、トレーナ方向の敵の動きを絶えず見張り続けた。
だが、ヴェルタ軍第2軍司令部は北側の斥候を怠っていた。
実は、この問題は一度だけ提起されている。にらみ合いが始まって間もない頃、幕僚の一人が進言した。
「ガゲンテラ山の北側にも、念のため斥候を出しておくべきでは。」
ツェッペリン将軍は数字を確認した。山岳地帯に騎兵小隊を常時展開するには、最低でも10個小隊の交代制が必要だ。馬は山道で消耗し、兵の疲労も平地の比ではない。
「3000m級の山を大軍が越えてくるなど、あり得ない。その兵力は正面の予備に回せ。」
合理的な判断だった。数字の上では、正しかった。
だが、戦場では合理的な判断が最も危険な判断になることがある。
あり得ないと断じた方角から、敵は来た。
別働隊の先頭を行くのは、カルドナ王国軍騎兵第2軍団の一部である2個騎兵師団だった。
平野を離れ、山道に入った時点で、騎兵師団は馬を降りた。鎧を脱ぎ、鎧と武具を馬の背に括りつけ、手綱を引いて山を登る。騎兵の誇りである馬上の姿を捨て、歩兵以下の姿で山を越えるのだ。
道はなかった。獣道すら途切れる急斜面を、工兵が先行して最低限の足場を作り、後続が一列になって登った。馬が怯えて動かなくなるたびに、兵士が目隠しをし、前後から押して進ませた。
3000m級の山岳地帯。昼でも気温は低く、夜になれば指先の感覚を奪うほどの寒さが兵士たちを襲った。焚き火は許されなかった。煙が敵に見つかれば、全てが水泡に帰す。
銃歩兵師団は銃を油布で巻き、背中に負って登った。湿気で火薬が使い物にならなくなることを恐れ、火薬箱だけは兵士の体温で温め続けた。
弓兵師団は弦を外して行軍した。張ったままでは湿気で弦が伸び、矢が届かなくなる。
2日目の夜、最も険しい峠を越える途中で、後方の荷馬車が崖から転落した。馬の悲鳴が谷に響き渡ったが、誰も助けには行けなかった。荷馬車に積まれていたのは3日分の食糧だった。
別働隊の指揮官は伝令に一言だけ伝えた。
「各自の携行食糧で補え。足りなければ、敵のものを奪え。」
3日目の朝、別働隊はガゲンテラ山の北斜面を下り始めた。眼下にグルノブルットの街並みが見えた。そのさらに南に、ヴェルタ軍第2軍司令部の旗が翻っている。
斥候の一人もいなかった。山の北側を見張る目は、どこにも存在しなかった。
兵士たちは山を下りながら、脱いだ鎧を身に着け直した。騎兵は馬に鞍を付け直し、弓兵は弦を張り直した。銃歩兵は油布を解き、火薬の状態を確かめた。
3日間の山越えで、人も馬も消耗していた。だが、眼下の司令部には、山の向こうから敵が来るなどという想定は存在しない。
それが、別働隊の最大の武器だった。
なお、別働隊が山を越え始めたのは、宣戦布告の3日前である。カルドナ王国は外交文書を送る前に、既に兵を動かしていた。宣戦布告とは、攻撃の予告ではなく、攻撃の完了報告に過ぎなかった。
マイトランド達の試験前日の夜。
カルドナ王国からヴェルタに、正式に宣戦が布告された。
宣戦布告の知らせがグルノブルットのツェッペリン将軍に届いた時、将軍は執務室で翌日の兵站計画を確認していた。
「宣戦布告か。予想通りだ。だが、動くのは正面からだろう。ネイの陣地がある限り、敵は平野を突破できない。」
ツェッペリン将軍はそう言って、正面の防衛体制の最終確認を指示した。北側の斥候を強化する命令は、この期に及んでも出されなかった。
準備は完璧だった。正面に関しては。
その数時間後、グルノブルット北方の夜闘が始まった。
最初の異変は、ヴェルタ軍第2軍司令部の北に位置する物資集積所の番兵が気づいた。山の方角から、馬蹄の音がする。それも一頭や二頭ではない。地鳴りのように、音が近づいてくる。
番兵が警報を鳴らした時には、既にカルドナ王国軍別働隊の騎兵が柵を越えていた。
騎兵は物資集積所に真っ直ぐ突入し、火を放った。炎は乾燥した木箱から穀物袋へ、穀物袋から天幕へと瞬く間に広がった。夜空を赤く染める炎は、グルノブルットの街からも見えただろう。
物資集積所だけではなかった。カルドナ王国軍別働隊の別の一隊が、司令部西側の馬繋場を襲った。繋がれた軍馬の綱を切り、火と銃声で馬を暴走させた。数百頭の軍馬が闇の中を四散し、ヴェルタ軍第2軍の騎兵部隊は一夜にして足を失った。
ツェッペリン将軍が執務室を飛び出した時、司令部は既に混乱の渦中にあった。
「何が起きている!」
「北方より敵襲!物資集積所が炎上中!」
「北方だと?馬鹿な、敵は正面にいるはずだ!」
「馬繋場も襲われています!軍馬の大半が逃散しました!」
報告が錯綜した。北から来た、いや西からだ、敵の規模は不明、騎兵だけではない銃声が聞こえる。伝令が飛び交うたびに情報が変わり、ヴェルタ軍第2軍司令部は統一された判断を下せなくなった。
ツェッペリン将軍は混乱する幕僚を前に、状況の把握を試みた。だが、この男の頭は「全てが揃った盤面」で最も力を発揮する。今、目の前にあるのは、想定になかった方角から崩された、見たことのない盤面だった。
北の斥候を出していれば。あの時、幕僚の進言を聞いていれば。その言葉が、ツェッペリン将軍の頭を過ったかどうかは分からない。だが、幕僚の誰も口にはしなかった。全員が同じ判断をしていたからだ。
カルドナ王国軍別働隊は撤退しなかった。物資集積所を燃やした後も、各部隊が散開し、各個に敵の撃破に専念した。ヴェルタ軍第2軍司令部を混乱させ続けることが、この別働隊のもう一つの任務だった。
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