第140話「あと一呼吸」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
夜になった。
3人は、ディアナの家の扉の内側で息を殺し、巡回の衛兵が通り過ぎるのを待っていた。
石畳を踏む足音が、近づいてきた。ランタンの灯りが、扉の隙間から細く差し込み、3人の足元を舐めた。
足音が、扉の前で止まった。
「……おい、今、何か動かなかったか。」
「猫だろう。」
しばらくの沈黙の後、足音は再び動き出し、ゆっくりと遠ざかっていった。
マイトランドは、いつの間にか止めていた息を、静かに吐いた。
事前のマイトランドの作戦の通り、3人はディアナの家を後にした。
日暮れの鐘は、既に鳴り終えていた。西区画の酒場の方からは、外の野営地から流れ込んできた兵たちの笑い声が、夜風に乗って聞こえていた。
「いいか?先ずは、俺が敵の数を調べる。その後に囮の騎兵を出す。この騎兵に、俺とお前で、帝国兵が出たと騒ぎ立てる。捕虜周りの兵がいなくなったら、一気に鎖を切って捕虜を救出。この時、捕虜周りに数人残るだろうが、これは斬って捨てる。その後、南門から脱出する。」
「了解さ!」
レフの返答に、マイトランドは手で目を覆うと、ガクっと体ごと肩から右膝を落とした。そして姿勢を直すと、反応した。
「おい!なんとも気の抜ける返事だな!本当に分かっているのか?」
「大丈夫さ!」
レフは余程自信があるのだろう、任せてくれと言わんばかりに、胸を拳で叩いて見せた。
「わかった。まぁいい。」
マイトランドは、ディアナに向き直った。
「お前は、予定通り酒場だな。」
「ああ。ジャッカルは、もう店に来ている頃だ。」
ディアナは、外套の襟を立てた。
「お前たちのフォローは、別の者をつけた。」
「別の者?」
「それ以上は聞くな。」
「……軍機か。」
ディアナは、答えの代わりに、口の端をわずかに上げた。
そして、宿の並ぶ通りの人混みの中へ、一人で消えていった。
ディアナの家のある西地区から、南地区を回り、東地区へ。そして、東区画と北区画を仕切る壁の、北区画の門の手前までたどり着いた。
門は、まだ開いていた。夜更けの鐘が鳴るまでは閉まらない。門の脇には、槍を持った門番が立っていた。
その門の向こう、門をくぐってすぐの広場に、松明の灯りが揺れていた。捕虜を囲む兵たちであった。
2人は、門の手前の東区画の路地の物陰に、身を潜めた。
火は、まだ上がらなかった。
酒場が一番混む頃、と決めた刻限は、とうに来ているはずであった。
(遅い)
物陰に身を潜めてから、どれほど経ったか。北区画の門の兵が、ちらちらとこちらを気にし始めていた。
「おい、そこの二人。」
門の脇から、槍を持った兵が一人、こちらへ歩いてきた。
「さっきから、そこで何をしている。」
マイトランドの手が、剣の柄にかかった。レフが、へらりと笑って前に出た。
「いやあ、道に迷ったさ。宿はどっちさ?」
「宿なら西だ。こっちは北区画だぞ。お前ら、どこの……」
兵の槍の穂先が、マイトランドの胸元を向いた。
マイトランドの指が、柄を握り込んだ。
その時であった。
東区画の奥、工房の並ぶ路地の方角から、どん、と腹に響く音がした。
振り返ると、夜空の一角が赤く染まっていた。油の樽に、火が回ったのである。炎は見る間に屋根を舐め、黒い煙が星を隠していった。
「火事だ!東の工房だ!」
誰かの叫び声が上がった。
槍の兵が、弾かれたように振り返った。そして、それに重なるように、北の方角から別の声が響いた。
「帝国軍の夜襲だ!北門だ!帝国軍が川を渡ってくるぞ!」
昼の間に街中を駆け巡った噂が、その一言で火を噴いた。
北区画の兵舎の窓という窓に灯りが点り、兵たちが半ば寝ぼけたまま、鎧も着けきらずに通りへ飛び出してきた。ある者は東の火の手へ、ある者は北門へ。兵の群れが、二つに引き裂かれていった。
槍の兵も、マイトランドたちのことなど忘れたように、門をくぐって北門の方へ駆け出していった。
門の脇には、もう誰もいなかった。
(……ディアナの仲間か。あと一呼吸、遅かったら)
マイトランドは、顔も知らない誰かに、心の中で礼を言った。
「レフ、今だ。厩へ行くぞ。」
「馬さ?」
「2頭ずつだ。残りは全部放す。」
2人は、門をくぐって北区画に入った。
すぐ目の前が、捕虜のいる広場であった。広場の兵は、火にも北門にも動かず、捕虜の周りを固めていた。2人は、その広場の縁を、兵の目を避けるように回り込み、兵の流れに逆らって、北区画の奥の厩へと走った。
厩の番兵も、火と北門の騒ぎに駆り出されて、姿が無かった。繋がれた馬たちが、火の匂いに怯えて足を踏み鳴らしていた。
マイトランドとレフが、それぞれ手近な馬の手綱に手をかけた時であった。
厩の入り口に、ランタンの灯りが揺れた。
「くそっ、俺の馬はどこだ!」
兵が一人、飛び込んできた。
マイトランドはレフの襟首を掴み、馬の腹の陰へと引き倒した。すぐ目の前で、蹄が藁を踏み鳴らした。
レフが手をかけていた馬が、見知らぬ手に怯えて、大きく鼻を鳴らした。
「……誰かいるのか?」
ランタンの灯りが、こちらへ向いた。
灯りの縁が、マイトランドの靴の先を掠めた。
「おい、何やってる!早く来い!北門だ!」
外から、別の兵の怒鳴り声がした。
厩の兵は舌打ちをすると、手近な馬の手綱を引きちぎるように解き、裸馬に飛び乗って駆け出していった。
ランタンの灯りが消えるまで、2人は藁の上で動かなかった。
「……今のは、危なかったさ。」
「黙って馬を解け。」
マイトランドとレフは、それぞれ2頭ずつ、手近な馬の手綱を解いた。
レフは、裸馬の首筋を撫でて落ち着かせると、慣れた手つきで2頭の手綱を片手にまとめた。馬は僕たちの嗜み、と言っていたのは、嘘ではなかったらしい。
残りの馬の繋ぎ縄を、マイトランドは片端から剣で断ち切っていった。
尻を叩かれた馬たちが、いななきを上げて厩から飛び出し、火の粉の舞う大通りへと、なだれを打って駆け出していった。
4頭の馬を、広場の南の端、門のすぐ内側にある、空き家になった古い倉の裏手に繋ぐと、マイトランドは息を整えた。
広場の捕虜の周りには、まだ30名ほどの兵が残っていた。火にも北門にも動かず、捕虜の番を続けているのである。
巡回の衛兵がいつも通るのは、その倉の前、広場の南の縁を、門から兵舎の方へ抜ける通りであった。
マイトランドとレフは、倉の軒下まで戻ると、マイトランドが周囲を確認し、土魔法を発動した。
驚くレフを余所に、土くれの騎兵が2騎、その場に現れると、マイトランドは続けて口頭により命令した。
「お前達、もうすぐ巡回の衛兵が来る。巡回の衛兵が来たら、そいつらを撃破殲滅しろ。それまでは待機だ。」
普段は思念により命令するが、レフの手前、口頭で命令しておいた方が都合が良いだろう。
「ほら、隠れるぞ。」
土くれの騎兵を倉の陰に待たせた後で、2人は広場をぐるりと回り込み、倉とは反対側、広場の北の端の兵舎の陰に身を潜めた。
広場を挟んで、倉と向かい合う位置であった。ここからなら、捕虜も、捕虜を囲む兵も、倉の前の通りも、全てが見えた。
巡回の衛兵が、来なかった。
騒ぎで、巡回の道順が変わったのかもしれない。東の空はますます赤く、北門の方からは、兵たちが戻り始める声が聞こえ始めていた。帝国軍の姿が、どこにも無いことに気づき始めたのであろう。
(まずい。北門の兵が戻ってくる)
マイトランドの額を、冷たい汗が伝った。
騎兵を、先に出すか。いや、巡回を襲わなければ、「巡回の兵士が襲われた」という叫びが嘘になる。
その時、通りの角に、ようやくランタンの灯りが揺れた。
巡回の兵士が、3人、姿を現した。
マイトランドの指示通り、土くれの騎兵は突撃を開始した。
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