第133話「見えない地図」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
しばらくして、マイトランドは握りしめていた拳をほどき、顔を上げた。
「ジャッカルの情報はわかった。」
マイトランドは、卓の上に指で見えない地図を描き始めた。南門、大通り、東区画、北区画の門、兵舎、厩。昨日一日で自分の足で歩き、目に焼き付けてきた街であった。
「捕虜奪還の日取りを決めよう。攻勢は12月27日。俺は遅くとも25日には、分隊に戻らなければならない。」
「なら、決行は24日の夜だな。」
「ああ。それも、夜更けの鐘が鳴る前だ。」
ディアナが、わずかに目を見開いた。
「北区画の門のことを知っているのか。」
「昨日、門番が言っていた。夜更けの鐘で、北区画の門は閉まる。捕虜がいるのは、その門を入ってすぐの広場だ。鐘が鳴った後では、捕虜ごと北区画に閉じ込められる。」
「……一日で、そこまで見ていたか。」
マイトランドは、見えない地図の上に指を置いていった。
「今日は、昼まで休む。午後はお前の案内で街を回って、逃げ道を足で確かめる。そのついでに、北区画で志願兵の登録を済ませる。」
「登録してどうする。」
「明日は志願兵として働く。どこに回されるかはわからないが、兵の中にいれば、兵の動きが見える。逃げ出すその日まで、ただの泥だらけの難民でいるより、よほど動きやすい。」
ディアナは腕を組み、黙って頷いた。
「では、私の方だ。」
今度は、ディアナが見えない地図の上に指を伸ばした。
「今日と明日で、冒険者たちに噂を流す。帝国軍が北から大軍で攻めてくる、とな。ギルドの掲示板の前、西区画の酒場、宿の食堂。冒険者は噂が好きだ。一晩で街中に広がる。兵も酒場には来る。噂は、兵の口から司令部まで上がるだろう。」
「嘘だと気付かれてもいい。北を向かせることさえできれば。」
「わかっている。そして、明日の夜だ。」
ディアナの指が、東区画の上で止まった。
「まず、東区画の工房から火が上がる。軍が接収した工房の路地には、壁の上から浴びせるための油の樽が並んでいる。あれに火が回れば、東区画は一気に燃え上がる。」
「東門の巻き上げ機の番兵も、北区画の兵も、火を消しに走る。」
「そうだ。そして、私の仲間の冒険者が叫ぶ。『帝国軍の夜襲だ、北門だ』とな。昼間に流した噂が、そこで効いてくる。兵舎から出てきた兵は、火と北門の二つに引き裂かれる。」
「仲間?他にもいるのか。」
「いる。だが、それ以上は教えられない。」
ディアナは、きっぱりと言った。
「何人いるのか、誰なのか、どこにいるのか。軍機につき、存在は教えられない。お前が帝国に通じていようと、ヴェルタの兵であることに変わりはないからな。」
「……道理だな。」
マイトランドは、それ以上は聞かなかった。自分が同じ立場でも、同じことを言うだろうと思った。
「厩の馬は俺がやる。4頭もらって、残りは全部放す。」
ディアナが、マイトランドの顔を見た。
「4頭か。捕虜は4人とも、自分の足では歩けまい。」
「ああ。馬は、俺に考えがある。」
マイトランドは、それ以上は言わなかった。
ディアナも、聞かなかった。
「放たれた馬は、北区画から大通りへ流れ出す。追手の足も、兵の足も止まる。その混乱の中で、お前は捕虜を連れて北区画の門を抜け、東区画から南区画へ走れ。」
「南門はどうする。夜は、格子が下りているはずだ。」
「いや。南門は、夜も開いている。」
ディアナは、事もなげに言った。
「戦の備えで、補給の荷馬車が昼夜を問わず入ってくる。だから南門だけは、夜更けの鐘が鳴るまで、格子を上げたままにしてあるんだ。東の火の手を見れば、南門の番兵も半分は応援に出ていく。お前は、荷馬車の列の脇を駆け抜ければいい。」
(だから、南の番兵は退屈そうだったのか)
夜も開けておく門を守るのに、多くの兵は割かれない。南が手薄な理由が、また一つ腑に落ちた。
そして、決行が夜更けの鐘の前でなければならない理由も、これで二つになった。北区画の門が閉まる前に。そして、南門の格子が下りる前に。
「北には、偽の足跡も残したい。」
「帝国兵の軍服の切れ端が、北門の土手道と、浅瀬の縁に落ちている。明日の夜には、そうなっている。追手は、帝国の手の者が捕虜を連れて北の川を渡った、と思い込むだろう。」
「……火も、叫びも、足跡も。その仲間がやるのか。」
「そうだ。明日の夜、私自身は西区画の酒場で、冒険者たちと飲んでいる。火が上がった時、私は酒場にいた。それを、何人もの冒険者が見ている。」
「疑われないためか。」
「お前が街を出た後も、私はここに残るからな。」
ディアナは、ただ口の端をわずかに上げた。
火を仕込む者も、叫ぶ者も、川辺に切れ端を落とす者も、マイトランドは最後まで、その顔を知ることはなかった。
そこで、ディアナは一瞬だけ言葉を切った。
「……北区画には、火薬庫もある。」
マイトランドの指が、止まった。
「あれに火を回せば、北区画ごと吹き飛ぶ。兵舎も、厩も。そうなれば、追手どころではない。」
「駄目だ。」
マイトランドの答えは、早かった。
「火薬庫には、手を出すな。」
「なぜだ。一番確実だぞ。」
「丘ごと人を消すような真似は、したくない。」
マイトランドの脳裏に、帝国の砦から戻る途中、稜線の向こうに上がっていた黒煙がよぎった。
あの煙の下で何が起きたのかを、マイトランドは自分の目では見ていない。後になって、アダムスの口から聞いただけであった。一晩で、14000人の歩兵が丘ごと消えた、と。
見てもいないその光景が、かえって頭から離れなかった。
それに、あの火薬庫は、この街を落とした後に使いたかった。
銃歩兵の師団をいくつも作れるだけの国の火薬である。無傷のまま手に入れれば、それはそのまま、ヴェルタの物になる。
マイトランドは、その考えを口にはしなかった。
ディアナはしばらくマイトランドを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった。火薬庫には触れない。」
マイトランドは、見えない地図の上に最後の線を引いた。
「24日の夜、夜更けの鐘の前。火を合図に、俺は北区画の広場へ。捕虜を連れて南門を抜けたら、俺は埋めてある装備を掘り出して、そのまま西へ回ってヴェルタの陣地へ戻る。25日の朝には、分隊に着く。」
「私は、この街に残る。」
「ああ。お前には、まだこの街でやってもらうことがある。」
ディアナは、何を、とは聞かなかった。
「少し寝た後で、街を案内してくれるか?脱出経路の確認と、兵士としての登録もしておきたい。」
「わかった。登録するのであれば、ファルンガルランドについても少し話しておくべきだな。」
ディアナは寝台の下から、薄い帳面を一冊取り出した。卓の上に何も置かない女が、隠していた物の一つであった。
「まず、名前だ。お前はこれから、ラファウ・シマンスキと名乗れ。」
「ラファウ・シマンスキ……。」
「ファルンガルランドでは、ありふれた名だ。ありふれた名ほど、誰の記憶にも残らない。」
ディアナは帳面をめくった。そこには、細かな字でファルンガルランドの村の名が並び、そのいくつかに線が引かれていた。
「出身は、北のザヴィエツ村にしろ。帝国の侵攻で、最初に焼かれた村の一つだ。生き残りは、ほとんどいない。」
「確かめようがない、ということか。」
「そういうことだ。南門で、村の名を聞かれてどう答えた。」
「言っても、もう誰も知らない。帝国に焼かれたから、と。」
ディアナは、わずかに目を見開いた。
「……上出来だ。ファルンガルランドの者は、焼かれた村の名を口にしたがらない。本物の生き残りと、同じ答え方だ。」
ディアナは、帳面を指でなぞりながら続けた。
「ファルンガルランドの者は、名乗る時、最初に父の名を言う。お前なら『ヤヌシュの子、ラファウ』だ。それから、挨拶の時に胸に手を当てる。右手を、左の胸にだ。それと、帝国のことは、自分からは口にするな。聞かれたら、黙って目を伏せろ。」
「恨み言の一つも言わなくていいのか。」
「私はファルンガルランドの者ではない。彼らが本当に帝国をどう思っているのかまでは、わからん。わからないことは、口にしない方がいい。黙って目を伏せていれば、相手が勝手に察してくれる。」
「そして、祈る時は、東に向かって膝をつく。ファルンガルランドの都が、東の方角にあったからだ。今はもう、どこにも無い都だがな。」
マイトランドは、一つ一つを繰り返した。ヤヌシュの子、ラファウ。右手を左の胸に。帝国のことは口にしない。東に膝をつく。
繰り返すたびに、泥だらけの難民の形が、少しずつ中身を持っていくようであった。
「言葉の癖もある。ファルンガルランドの者は、『ル』の音を、舌を巻いて強く言う。お前の話し方には、ファルンガルランドの訛りがまるで無い。」
「……ラファウ。ラ、ファ、ウ。」
「巻きすぎだ。」
ディアナが、初めて声を立てずに笑った。
窓の鎧戸の隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
夜通し歩き回り、騎兵を出し、尋問をし、尋問をされたマイトランドの瞼は、もうほとんど上がらなかった。
「続きは、起きてからだ。」
ディアナは、眠そうに聞いていたマイトランドに寝具を渡し、そのまま眠りにつかせた。
眠りに落ちる直前まで、マイトランドの唇は、新しい名を小さく繰り返していた。
ラファウ・シマンスキ。
ヤヌシュの子、ラファウ。
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大国の侵攻を前に、嘘をつくAIを使いこなして、小さな砦を守り抜く戦記です。
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