第109話「虎の子」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
「どうなっている?斥候は出したのか?たった一晩で軍団が消える訳がないだろう!」
そう叫んだのは、第2軍司令官、バルト・ハインリヒ・フォン・ツェッペリン将軍であった。
グルノブルットの第2軍司令部。
夜明けと共に駆け込んできた伝令の報告は、ツェッペリンの想定の、どこにも無いものであった。
「は、斥候からの報告では、中核陣地には生存者はおろか、陣地の跡すら残っていません!」
「跡すら、だと?」
「は。……地面ごと、抉れているとのことです。塹壕も、土塁も、天幕も、何も残っておりません。焼け焦げた大穴だけが、丘の上に口を開けていると。」
伝令の声は震えていた。
報告を読み上げる自分自身が、その内容を信じきれていない声であった。
「周囲の防御陣地はどうした。」
「騎兵師団、歩兵師団ともに健在です。ですが、両師団から指示を仰ぐ伝令が、つい先ほど到着したばかりで……」
「指示を仰ぐ、か。」
ツェッペリンは、その意味を即座に理解した。
理解したからこそ、次の言葉が出てこなかった。
ヴェルタ軍には、帝国軍のような常設の軍団は存在しなかった。
戦時には最大単位である軍がまず全ての師団を接収し、任務に応じて2個以上の師団を振り分けて軍団を編成した。軍団長には、振り分けられた師団長のうち最上級かつ先任の者が就くのが通例であった。
だがそれは慣例に過ぎず、軍団長を失った時に誰が指揮を引き継ぐのかは、どこにも定められていなかった。
軍団司令部を失った第1軍団は、組織としてはこの夜、消滅したのであった。
丘の周囲に残された2個の師団は、もはや軍団ではなかった。
命令を下すはずの者が消え、命令を受けるはずの者だけが残された。
ツェッペリンは、机の縁を握りしめた。
脳裏に浮かんだのは、あの夜の北の空であった。
カルドナ王国軍の別働隊が3000m級の山を越え、この司令部を急襲した夜。
物資集積所が燃え、馬繋場が襲われ、北の空は一晩中赤かった。
大軍が山を越えるなどあり得ない。そう言って北への斥候の進言を退けたのは、他ならぬツェッペリン自身であった。
だからこそ、新しい軍団司令部には「あれ」を置いた。
二度と司令部を奪われぬために。誰にも知らせず、密かに。
その「あれ」ごと、丘は消えた。
「……幕僚を集めろ。隷下の師団長もだ。今すぐにだ。」
ツェッペリンはこの日、第1軍団消滅の報を受けると、可及的速やかに第2軍の幕僚と隷下の指揮官を司令部へ召集し、今後のカルドナ王国への方針を模索した。
◇
司令部の作戦室には、大きな地図が広げられていた。
グルノブルットから南東へ、トレーナへと続く平野。
北にはガゲンテラ山が聳え、その裾野の丘陵に、つい昨日まで第1軍団の駒が置かれていた。
今、その場所には何も置かれていなかった。
卓を囲んだのは、第2軍の幕僚と、各軍団から呼び出された師団長、旅団長たちであった。
誰もが口を閉ざし、地図の上の、何も無い一点を見つめていた。
そして、空いているものがもう一つあった。
ツェッペリンの右手の席。
かつて第1軍団司令、ウィリバルト・ネイ少将が座っていた席であった。
ネイが行方知れずとなってから、その席に座る者はいなかった。
誰が決めた訳でもない。ただ、誰も座ろうとしなかった。
幕僚の一人が、状況を読み上げた。
「第1軍団中核陣地、消滅。軍団司令部、及び中核の師団は、全滅と見られます。周囲の騎兵師団、歩兵師団は健在。現在は各師団長の判断で陣地を保持しております。」
「カルドナ王国軍の動きは。」
「トレーナ方面の敵第4軍に、目立った動きはありません。先日の奪還作戦で退いた敵1個軍団も、トレーナの手前で停止したままです。」
「……動かない、か。」
ツェッペリンの呟きに、答える者はいなかった。
重い沈黙を破ったのは、卓の端に座る老人であった。
第72魔導砲兵旅団を指揮する、ライアン・ヴァイトリング准将。
白くなった髭を蓄え、背は丸くなりかけていたが、その目だけは若い頃と変わらず鋭かった。新貴族の出でありながら、いくつもの戦場を砲と共に渡り歩き、老齢の名将と名高い男であった。
ヴァイトリングは、司令官であるツェッペリンに、叱責覚悟で進言した。
「司令官殿、我々はまだ数の上では優勢です。戦力の逐次投入をやめ、ここはこれまでの損失の穴埋めに、銃歩兵師団を前面に、全軍でトレーナまで一気に攻勢をかけたらどうじゃろうか。」
作戦室がざわめいた。
全軍での攻勢。
それは、この場の誰もが頭の片隅に置きながら、口にしなかった言葉であった。
ツェッペリンは基本的に貴族、新貴族の隔てなく、幅広い意見や見解を求める将軍であった。その見識から、若くして大将、司令官職に就いたといっても過言ではなかった。
貴族院20名家の一つ、ツェッペリン家の次代の家長。
士官学校を首席で卒業し、帝国との合同演習では最優秀指揮官に選ばれた。38歳にして第2軍を預かるこの男に、才が無いと言う者はいなかった。
ただ一つ、彼には癖があった。
準備を完璧に整えるまで動かない。そして、準備していないことには、驚くほど弱かった。
この日のツェッペリンは、いつもと少し違った。
「だめだ、だめだ。銃歩兵師団はだめだ。もうすでに我々は4000丁を越える銃を失っているのだぞ!これ以上失うことはできない。」
作戦室の空気が、止まった。
「……4000丁、ですと?」
最初に声を上げたのは、騎兵師団長の一人であった。
ざわめきが卓の上を走った。
銃歩兵師団は、奪還作戦でも最後尾に控えていたはずである。一発も撃ってはいない。それがなぜ、4000丁も失われているのか。
中核陣地には、隷下の師団にすら知らされぬまま、銃歩兵連隊が1個配されていた。
かつて司令部を急襲されたツェッペリンが、虎の子の銃を唯一前線に出したのが、軍団司令部の守りであった。
消えた14000名のうち、4000名は銃歩兵だったのである。
「司令部の守りに置いていた。それだけだ。」
ツェッペリンは、それ以上を語らなかった。
ヴァイトリングは、その短い答えの中に全てを読み取った。
(北の空が赤かったあの夜から、この方はずっと、司令部を奪われることを恐れておられる……)
恐れて置いた銃が、恐れていた通りの形で消えた。
今のツェッペリンにとって、銃歩兵師団は兵力ではない。最後に残った命綱なのだ。
だが、それでも言わねばならなかった。
ヴァイトリングは、いつもと違うツェッペリンに違和感を覚えながらも、再度の進言をした。
「将軍、今回の軍団の損失は、敵の工作によるものじゃと考えますぞ。」
「工作だと?」
「先日の奪還作戦を、思い出してくだされ。あの陣地にいたカルドナ王国軍の1個軍団は、我々が近づくと、一戦も交えずに退きましたな。」
ヴァイトリングは、地図の上の、空いた丘を指で叩いた。
「あの丘は、ネイ将軍が6日で三重の塹壕を築き、カルドナの第1波を完璧に跳ね返した丘じゃ。守るに易く、攻めるに難い。その丘を、敵はあっさりと明け渡した。……そして我々が入った途端、丘ごと消えた。」
作戦室が、静まり返った。
「偶然とは思えませぬ。敵は、我々に丘を取らせたのですじゃ。このまま軍団以下の規模で戦力を各個撃破されたら、やがて第2軍はなくなってしまいますぞ。第2軍の精鋭である銃歩兵を使い、一気に攻勢に出るべきじゃと具申致しますぞ。」
「それはわかる。わかってはいるが、銃歩兵師団はだめだ。あれは我が軍の虎の子だ、最後の最後まで攻勢に使ってはならん。だれか、他の攻勢案はないか?」
ツェッペリンは、好きな食べ物を最後の最後まで皿の上に残しておくようなタイプだったのであろう。
だが、皿の上に残した好物は、いつか誰かに取られるか、冷めて食べられなくなる。
この日、ツェッペリンは一皿を失ったばかりであった。それでもなお、残った皿を抱え込んだ。
ツェッペリンはヴァイトリングの意見を一蹴すると、他の幕僚に意見を求めた。
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