第108話「一兵卒の支給品」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
指揮所入口の幕が上がった瞬間、足元に何かが転がるように寄ってきた。
「チュン!」
バートル号だった。太った体を左右に揺らしながら、マイトランドのブーツをしきりにつついている。
「あっ、バートル号!駄目だよ、知らない人に……って、マイトランド!?」
慌てて追いかけてきたトーマスが、ひょろ長い体を折り曲げたまま固まった。
「よう、トーマス。こいつ、俺のことを覚えていたみたいだな。」
「いや、覚えてたんじゃなくて……多分、その雑嚢からいい匂いがするんだと思います。」
マイトランドが肩から下げた雑嚢を見ると、バートル号は首を伸ばし、今度はそちらをつつき始めた。
その騒ぎで、指揮所の中の視線が一斉にマイトランドに集まった。正確には、マイトランドの着ている軍服にだった。
「それ、帝国軍の軍服ですよね?」
ミシェルが近づき、袖にそっと触れた。
「すごい……縫い目が全部揃ってる。生地もしっかりしてるのに、軽い。」
「フク、カルイ。ボタン、ピカピカ。」
アツネイサも覗き込み、金属のボタンを爪で弾いた。
「これが帝国の一兵卒の支給品だ。将校用じゃないぞ。」
マイトランドの言葉に、ミシェルとトーマスは顔を見合わせた。自分たちの擦り切れた軍服と見比べ、言葉が出てこないようだった。
ただ一人、セリーヌだけが近づいてこなかった。
指揮所の奥、地図を広げた卓の傍らに立ったまま、腕を組み、マイトランドの軍服を見ている。その目には、ミシェルやトーマスのような驚きはなかった。
冷たい目だった。いや、冷たいというよりも、見たくないものを無理に見ているような目だった。
マイトランドと目が合うと、セリーヌはすぐに視線を逸らした。
「……さっさと着替えたら? マイトランド。その服、ここじゃ目立ちすぎるのよ。」
それだけ言うと、セリーヌは背を向けた。
正論だった。ヴェルタの陣地で帝国の軍服を着ていれば、アダムスのように敵と見間違える者もいるだろう。
だがマイトランドには、それが本心の全てだとは思えなかった。あれは、目立つから着替えろという忠告ではない。あの服そのものを、目に入れたくないのだ。
ただの新兵じゃない。以前感じた違和感に、また一つ何かが重なった。
「分隊長、ラッセル2等兵。ただいま帰還いたしました。」
「おお、マイトランドか、敵1個連隊の掃討ご苦労。予定よりも遅かったな。帝国に捕まったと思っていたぞ。」
今回の作戦の全容を知るドワイトは、他の面々が緊張している中、笑みをこぼしながら返答した。
「捕まっていたと言えばそうでしょう。ですが今回、帝国に良いパイプもできました。」
「そうか。ならば良かった。で?アダムスから聞いたのか?」
「はい、大体のことは聞きました。ここへ来る途中、稜線から煙も見えました。」
その言葉に、ドワイトの顔から笑みが消えた。
「……そうか。まだ燻っているか。」
ドワイトは視線を落とし、しばらく黙っていた。指揮所の中の誰も、口を開かなかった。
「ネイ閣下は、陣地を造る時、必ず撤退の時のことまで考える方だった。敵に使わせないために、爆薬を仕込んでおく。俺も新兵の頃、閣下からそう教わった。」
ドワイトの声は、低く、平らだった。
「だがな。撤退の時に火を点けなかった爆薬が、何日も経ってから、ひとりでに火を噴くことはない。」
それ以上は言わなかった。
誰かが、あの爆薬を見つけ、火を点ける時を選んだのかもしれない。ドワイトの言葉は、そう聞こえた。
やがてドワイトは顔を上げた。いつもの分隊長の顔に戻っていた。
「ネイ閣下は、まだ見つかっていない。……さて、ジェラルト達と合流したいという話だったな。」
「はい。よろしいでしょうか?」
「そうだな。あっちの3人は不眠不休で頑張っている。追加の糧食も昨日届いたところだ、4人分の糧食1週間分を持ったら、直ちに合流してくれ。」
「はい!」
「それと、マイトランド。」
ドワイトは、マイトランドの軍服を上から下まで眺めた。
「帝国で何を見てきたかは、戻ってからじっくり聞かせてもらう。」
「はい。分隊で試してみたいことが、山ほどあります。」
ドワイトは片眉を上げたが、何も言わなかった。ただ、口の端が僅かに動いた。
「その前に、分隊長。これを置いていきます。」
マイトランドは雑嚢を下ろし、中から包みを取り出した。帝国を発つ時に持たされた戦闘糧食の残りだった。
包みを開くと、乾燥肉、黒パン、小さな干し果物、そして塩の小袋が現れた。
「帝国の戦闘糧食です。1日半分しか残っていませんが、一口ずつなら全員に行き渡るでしょう。」
「なんだ、黒パンなら俺達のと一緒じゃねぇか。」
アダムスが黒パンを手に取り、拍子抜けしたように言った。だが指で押した瞬間、その顔色が変わった。
「……柔らけぇ。」
帝国の兵にとっては、硬い戦闘糧食の黒パンだ。だがヴェルタの戦闘糧食の黒パンは、日持ちさせるために乾燥させ、石のように固くしたものだ。水でふやかさなければ歯が立たない。同じ黒パンという名前でも、まるで別の食べ物だった。
マイトランドは乾燥肉をナイフで薄く削ぎ、黒パンに載せて、塩をひとつまみ振った。
「こうやって食うんだ。」
一口かじったアダムスが叫んだ。
「うめぇ!なんだこれ、うめぇぞ!」
トーマスも同じように食べ、目を丸くしている。
ミシェルは自分の分を手に取ったまま、それをアツネイサに差し出そうとした。
「ミシェル、お前の分だ。お前が食え。」
「でも……」
「いいから。」
マイトランドに押し返され、ミシェルはようやく干し果物を口に入れた。そして、何も言わずに俯いた。
ドワイトは黙って乾燥肉を一切れ口に運び、しばらく噛んでいた。
「……帝国は、これを一兵卒に食わせているのか。」
「はい。一兵卒にも、です。」
ドワイトはそれ以上何も言わなかった。
ヴェルタの戦闘糧食は、乾燥した黒パンと水だけだ。帝国の兵が硬いと言う黒パンですら、ヴェルタの黒パンより柔らかい。そのうえ肉があり、果物があり、塩がある。塩の小袋一つにも、兵を長く戦わせるための計算があるのだろう。
その差を、ここにいる誰もが一口で理解していた。
「あっ!バートル号!」
トーマスの声に振り向くと、バートル号が床に落ちた帝国の黒パンの欠片をついばんでいた。そのまま満足そうに膨らむと、今度は隣に置かれたヴェルタの黒パンをつつき、ぷいと顔を背けた。
「ああ……うちの黒パン、食べなくなっちゃったらどうするんですか!」
トーマスの悲鳴に、指揮所の中に久しぶりの笑い声が響いた。
マイトランドはそれを背に、荷物をまとめ始めた。
荷物の底には、帝国へ向かう前に置いていったヴェルタの軍服が畳まれていた。
セリーヌの言葉が頭をよぎる。着替えるべきだ。理屈では分かっている。
だがマイトランドは、ヴェルタの軍服を手に取ったまま、しばらく動かなかった。
帝国の軍服は軽い。生地は厚いのに、汗を吸ってもすぐに乾く。縫い目が肌に擦れず、屈んでも跳んでも突っ張らない。この数日、山道と訓練場を歩き回って、その良さは体が覚えていた。
一方、ヴェルタの軍服は重く、硬い。雨を吸えば、さらに重くなる。
これから向かうのは、不眠不休で監視を続ける山の警戒所だ。
「……まあ、ジェル達なら敵と間違えたりはしないだろう。」
マイトランドはヴェルタの軍服を雑嚢の底に押し込むと、帝国の軍服のまま、4人分の糧食を担いだ。
背中に、セリーヌの視線が突き刺さるのを感じた。
マイトランドは振り返らず、ジェラルトの待つ警戒所に進発した。
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