第105話「3日分の戦闘糧食」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
射撃の後、フリッツはマイトランドを訓練場の別の区画に連れて行った。
そこでは猟兵たちが、全く異なる訓練を行っていた。
匍匐前進。
兵士たちが地面に腹ばいになり、銃を抱えたまま這うように進んでいる。頭を決して上げない。遮蔽物から遮蔽物へ、地面を這いながら移動する。
「これが、銃撃下での移動です。書庫で読んだでしょう?」
マイトランドは頷いた。兵法概論の「銃撃戦における防御の原則」に書かれていた。銃撃下での移動は匍匐か短距離の躍進。その文字が、今、目の前で実行されている。
匍匐前進の次は、躍進の訓練だった。
遮蔽物の陰から飛び出し、3歩から5歩だけ全力で走り、次の遮蔽物に飛び込む。立ち上がっている時間を最短にする。飛び出す前に次の遮蔽物を確認し、飛び込んだ瞬間に銃を構える。
「銃弾が飛んでくる中を、立って歩く者は死にます。這うか、走るか。その判断と技術が、銃の時代の歩兵に求められるものなんです。」
ヴェルタ軍の歩兵は、盾と槍を持ち、隊列を組んで前進する。立ったまま、胸を張って、正面の敵に向かって歩く。
帝国の歩兵は、地面を這い、遮蔽物に身を隠し、3歩走っては伏せる。
同じ歩兵でありながら、戦い方が根本から違う。
次にフリッツが見せてくれたのは、猟兵の散開戦術だった。
10名ほどの猟兵が、号令なしに動いていた。
1人が前に出ると、別の1人が遮蔽物の陰から援護射撃をする。前に出た者が遮蔽物に着くと、今度はその者が援護し、別の者が前に出る。交互に前進しながら、敵陣に近づいていく。
「これを、交互躍進と言います。前に出る者と援護する者が、交互に入れ替わる。1人が動いている間、必ず誰かが撃てる状態を保つんです。そうすれば、敵は頭を上げられません。」
マイトランドの頭の中で、分隊の顔が次々と浮かんだ。使える。この戦術は、帰ったらすぐに試せる。
訓練場の隣では、工兵が掩体の構築訓練を行っていた。
フリッツはマイトランドをそちらにも案内した。
「工兵の掩体構築の速さも、見ておくといいですよ。」
4名の工兵が、スコップと鶴嘴で地面を掘り始めた。
速かった。
土を掘り、丸太を組み、天井を渡し、土を被せる。1名が掘り、1名が丸太を運び、1名が組み、1名が土を被せる。分業が完璧に確立されていた。
マイトランドは時間を数えていた。
4名で、前進観測班の掩体と同規模の構造物を、半刻もかからずに完成させた。
「半刻でこれですか。」
「帝国工兵の、標準的な速度です。よく訓練された工兵なら、もっと速いですよ。」
ドワイトに教わったエンピの掘削法を思い出した。あれはネイ将軍から伝わった技術で、塹壕を掘るための基本だった。だが帝国の工兵は、単に穴を掘るのではなく、構造物を建てている。丸太の組み方、排水溝の角度、換気口の位置。全てが規格化されていて、誰がやっても同じ品質の掩体が完成する。
3日目の最後に、フリッツはマイトランドを書庫に連れ戻した。
「最後に、地図の読み方をお教えしておきましょう。帝国軍の地図は、ヴェルタのものとは精度が違いますから。」
フリッツは壁に掛かった地図を机の上に広げた。等高線が細かく描かれ、河川、道路、集落、稜線の全てが詳細に記されている。
「この線が等高線です。線の間隔が狭いほど傾斜がきつく、広いほど平坦です。」
「はい、それは知っています。」
「では、ここに砲兵陣地があるとしましょう。」
フリッツは地図上の一点を指した。
「敵はここにいます。砲兵陣地から敵までの距離と方位を、算出してみてください。」
マイトランドは地図を見つめた。等高線から高低差を読み取り、距離を測り、方位を割り出す。
「距離は約2400歩。方位は南南東。ただし高低差があるので、実際の射角は平地の射角より1度ほど浅くなります。」
フリッツは目を見開いた。
「・・・計算が速いですね。それに、高低差の補正まで入れるとは。」
「等高線から高低差を読みました。砲兵陣地と敵の位置の水平距離と、その高低差が分かれば、射角は三角法で出せます。」
フリッツはしばらく黙ってマイトランドを見つめていた。
「マイトランド。君は本当に、ただの農民なんですか?」
「母の好物の山菜を採りに行く、ただの農民です。」
マイトランドがそう言うと、フリッツは声を上げて笑った。
「ははは。ただの農民が、三角法を使いこなすんですか。面白い国ですね、ヴェルタは。」
3日間はあっという間に過ぎた。
フリッツは惜しみなく教えてくれた。編成、通信、指揮継承、武装、戦術、剣術、射撃、匍匐前進、掩体構築、地図の読み方。聞けば答え、見せてくれと言えば見せてくれた。
マイトランドは、この3日間で得たものの大きさを、まだ完全には測りきれていなかった。だが一つだけ確かなことがあった。
ヴェルタに持ち帰れるものは、山ほどある。
3日目の夜。
フリッツの居室で、最後の夜を過ごしていた。
「帝国臣民の君は明日、母君のいる村へ帰るんでしたね。」
フリッツはそう言いながら、小さな包みをマイトランドに手渡した。
「この包みを持って行ってください。3日分の戦闘糧食です。邪魔になる物でもないでしょう。」
マイトランドは包みを受け取った。ずっしりとした重みがあった。あの燻製肉と黒パンと干し果物が入っているのだろう。ヴェルタ軍の1週間分の配給に匹敵するかもしれない。
「色々教えていただいた上に、こんなことまでしていただけるなんて、ありがとうございます。」
「こんなこと、気にしなくていいんですよ。」
フリッツは笑顔で言った。だがその笑顔の奥に、少しだけ寂しさが見えた気がした。
3日間、マイトランドはフリッツにとって初めての「家柄にあやかろうとしない」相手だったのかもしれない。対等に話し、対等に学び合える相手。フリッツがそれをどう感じていたのか、マイトランドには分からなかった。
「さて、明日も早いですし、休みましょうか。」
「はい、おやすみなさい。」
マイトランドはフリッツの居室の寝台に横になった。
目を閉じると、この3日間で見たもの、聞いたもの、読んだものが、頭の中を駆け巡った。
帝国の師団編成。通信の連絡網。指揮継承の仕組み。避弾経始。竜騎兵。猟兵。帝国式抜剣術。皇室剣術。ドルトン騎兵銃の設計思想。ライフリング。円錐形弾丸。三点交会法。効力射。掩体の構築。匍匐前進。交互躍進。戦闘糧食。紙。
そして、フリッツ・ヨアヒム・フォン・ビスマルク。
いつか必ず、この借りを返す時が来る。
マイトランドは目を閉じたまま、小さく呟いた。
「先生。僕は、あなたが教えてくれたものの先を、見てきました。」
返事はなかった。当然だ。アランはここにはいない。
だが、この3日間で学んだ全てが、アランの教えの延長線上にあった。アランが教えてくれた断片が、帝国という体系の中でようやく繋がった。
明日、ヴェルタに帰る。ドワイト分隊に戻る。ジェラルトが待っている。
マイトランドはそのまま、静かに眠りに落ちていった。
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