第97話「超えるべき父」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
だがフリッツはそんなマイトランドの反応を意にも介さず続けた。
「それにね、今部隊を作ったところで、無駄になってしまうんです。私は来年の半年間を、士官学校で過ごすことに決めていますから。」
「士官になられるのですか!おめでとうございます!」
「ええ、ありがとうございます。士官候補生の試験にはもう受かっていまして。来年からの入校が決まっているんです。」
フリッツはさらりと言ったが、マイトランドはその言葉の重みを理解していた。帝国の士官学校は、家柄だけでは入れない。試験に受からなければならない。
士官学校。
フリオニールも士官学校に入校している。フレデリカも、クレアも。
帝国とヴェルタ。別々の国の士官学校だが、もしこの先どこかで、フリッツとフリオニールたちが出会うことがあったら。
マイトランドは、その光景を一瞬だけ想像した。
「でも、それが終われば自分の中隊を持てるでしょう。その頃には君も16です。部隊配属ですよね?ぜひ、私の部隊を希望してください。人事部には話を通しておきます。来てくれることを願っていますよ。」
フリッツは一拍おいて、笑みを深くした。
「帝国臣民なら、ですけどね?」
最後の一言に、先ほどの追及とは違う軽さがあった。からかっているのだ。分かっていて、あえて乗せている。
「はい!僕に決定権があるのであれば、喜んでビスマルク様の元に、はせ参じます。」
「嘘でも、そう言ってもらえると嬉しいですね。では、この話はもうやめにしましょうか。」
フリッツはそう言うと、食堂の方を指差した。
「さあ、冷めないうちに食堂へ行きましょう。お腹が空いて、倒れてしまいそうです。」
2人は再び、食堂へ向かって歩き出した。
食堂は砦内で最も大きな建物だった。長い木製のテーブルが何列も並び、壁には帝国軍旗と皇帝の紋章が掲げられている。この時間帯は砲撃直後ということもあり、人はまばらだった。
フリッツは慣れた様子で厨房の窓口に向かうと、2人分の食事を受け取ってきた。
木製のトレイの上には、玉葱と肉を煮込んだ温かいスープ、焼きたての厚切り黒パン、バターの塊、茹でた芋にグレイビーソースがかかったもの、燻製肉の厚切りが2枚、茹で卵、干し葡萄を練り込んだ菓子パン、そして小さな林檎が載っていた。
マイトランドは目を疑った。
先ほどルーデルから貰った戦闘糧食でさえ、ヴェルタ軍の配給とは比較にならなかった。だが食堂の食事は、それとすら次元が違った。バターがある。卵がある。菓子パンがある。果物がある。これが前線の、しかも通常の食事だというのか。
ヴェルタ軍の食堂で出るのは、薄い麦粥と硬くなった黒パン。良い日で干し肉が一切れ。果物など、新兵教育の間に一度も見たことがなかった。
「どうしました?食べないんですか?」
「い、いえ。いただきます。」
マイトランドはスープを一口含んだ。
温かかった。塩味がしっかりとつき、玉葱と何かの肉が煮込まれていた。体の芯から温まるのを感じた。
黒パンを千切り、スープに浸して食べた。パンが汁を吸い、口の中でほろほろと崩れる。ルーデルの戦闘糧食の黒パンよりもさらに柔らかかった。焼きたてに近い。
燻製肉を一切れ食べた。脂がのっていた。ヴェルタの干し肉とは、肉の厚みからして違った。
「美味しいですか?」
「はい。とても。」
「そうですか。それは良かった。」
フリッツは微笑むと、自分も食事を始めた。
だが、フリッツが食事を始めて間もなく、1人、また1人と、兵士たちが2人のテーブルに寄ってきた。
最初にやってきたのは、前掛けをした炊事係の兵長だった。手には、菓子パンと林檎を載せた皿を持っている。
「上級曹長殿、掃討明けでしょう。お連れさんの分も、おまけです。」
「ありがとうございます、グスタフ兵長。いつも助かります。でも、これでは兵長が主計に叱られませんか?」
「なぁに、上級曹長殿の腹を空かせたままにしちゃ、それこそ炊事班の恥でさぁ。」
兵長はそう言って笑うと、マイトランドのトレイにも菓子パンを一つ載せ、厨房へ戻っていった。
次にやってきたのは、腕に包帯を巻いた若い猟兵だった。フリッツの前で直立すると、深々と頭を下げた。
「上級曹長殿。先ほどの掃討では、ありがとうございました。上級曹長殿が声をかけてくださらなければ、自分は今頃……」
「頭を上げてください、ヨハン。君が私の合図を信じて、すぐに伏せてくれたからですよ。傷の具合はどうですか?」
「はっ、軍医殿はかすり傷だと。」
「それは良かった。今夜は痛むかもしれませんから、無理をせず、ちゃんと休んでくださいね。」
若い猟兵は目を潤ませながら敬礼し、去っていった。
最後に、隣のテーブルから古参の曹長が声をかけてきた。
「おい、ビスマルク。また飯を抜いて掃討に出たらしいな。お前が倒れたら、誰が俺の酒の相手をするんだ。」
「私はまだ、お酒を飲める歳ではありませんよ、曹長。」
「だから早く大人になれと言ってるんだ。」
食堂の中に、小さな笑いが起きた。
マイトランドは、黙ってその光景を見ていた。
炊事係も、負傷兵も、古参の曹長も、誰一人として公爵家の嫡子にへつらってはいなかった。家柄に近づこうとする者の顔ではない。フリッツという一人の人間を慕う者の顔だった。
そしてフリッツは、その誰に対しても同じ言葉で応え、一人ひとりの名を呼び、その身を案じていた。
この人は、本当に人望があるのだ。
ヴェルタの貴族士官で、兵がこんな顔で寄ってくる者を、マイトランドは知らなかった。
やがて兵士たちが去ると、2人は食事をしながら、フリッツの生い立ちの話をした。
フリッツは帝国首都で生まれ、幼い頃から武術と学問を叩き込まれた。だがビスマルク公爵は、息子を公爵家の温室で育てることを嫌った。
「父は私を、14で軍に入れました。公爵家の嫡子としてではなく、一兵卒として。最初の3ヶ月は、誰も私の家柄を知りませんでした。殴られましたし、走らされましたし、食事を取り上げられたこともあります。」
フリッツは林檎を齧りながら、懐かしそうに語った。
「でも、あの3ヶ月がなければ、今の私はいません。兵士の目線でしか見えないものがあるんです。それを知らない指揮官は、部下を無駄に死なせる。父は、それを教えたかったのだと思います。」
マイトランドは黙って聞いていた。
アランのことを思い出した。アランもまた、マイトランドに教本だけでは学べないものを教えようとしていた。
「おや、何か考え事ですか?」
「いえ、フリッツさんのお父上は、素晴らしい方ですね。」
「ええ。偉大すぎて、困ってしまいます。」
フリッツは苦笑した。その苦笑には、父への敬愛と、その影の大きさに対するわずかな重圧が同居していた。
「でも、偉大な父を持つことは、恵まれていることだと思っています。超えるべき目標が、はっきりしていますから。」
その言葉に、マイトランドは何も言えなかった。
マイトランドには、超えるべき父がいない。父の顔も知らない。
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