第92話「母の好物」
剣より頭、魔法より読み。
平民の少年が戦場の頂を目指す、泥臭い成り上がり戦記です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
ルーデルは、ジェラルトが観測窓から離れていくのを確認すると、また笑顔でマイトランドに話しかけた。
ここからは全て帝国語だった。マイトランドにとっても、ルーデルにとっても、はるかに自然な会話だった。
「というか、お前はそもそも何をしていたんだ?」
「はい。母の為に、山菜を取りに行っていたら、捕まってしまいまして。」
「山菜?食べる物に困っている村はないはずだが?」
マイトランドは、ルーデルの問いに一瞬背中に冷たい汗を感じたが、即座に機転を利かせて答えた。
「母の好物なんです。すいません。皇帝陛下のお名前に傷をつける様な勝手なことをしました。」
「そうか、だが母の為にしたことが、皇帝陛下のお名前に傷をつけるようなことはないだろう。それは災難だったな。ならば仕方ない。砦の中に入れるように手配しよう。」
「ありがとうございます。」
何の疑問も持たないルーデルに、マイトランドは大袈裟に礼を言うと、首都の方向へ体を向け、帝国式の敬礼をした。
「なんだ、また皇帝陛下に敬礼か?良い心がけだ。良い家庭に育ったようだな。」
帝国臣民には、感謝を表現するときに皇帝陛下のいる方角へ向かって敬礼をする習わしがある。マイトランドは師であるアラン・ウォルキンスからそう聞いていた。
ルーデルはマイトランドが敬礼を終えると、ふとマイトランドの体をじっと見た。
乾いた唇。頬のこけた痩せた顔。震える足。ボロ布の下から覗く手首は、骨の形がはっきり見えるほどだった。
ルーデルの笑顔が消えた。
「どのくらい、捕まっていた?」
「・・・少し、長かったです。」
「食べていないのか?」
「はい。水も、あまり。」
ルーデルは黙って木箱の一つを開けると、包みを取り出した。帝国軍の戦闘糧食だった。
「水と戦闘糧食しかここにはないが、好きなだけ食べると良い。」
ルーデルの声は、先ほどまでの陽気さとは違っていた。静かだが、温かかった。
「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。」
マイトランドは再び頭を下げると、何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。
帝国臣民としての演技だった。だが、空腹は本物だった。
ルーデルが差し出した戦闘糧食の包みを開けると、中には乾燥肉、硬い黒パン、小さな干し果物、そして塩の小袋が入っていた。水筒も一つ添えられている。
マイトランドは水筒の蓋を開け、一口含んだ。
水が喉を通り、体の隅々に染み渡るのを感じた。こんなにうまい水を飲んだのはいつ以来だろう。
乾燥肉を一切れ口に入れた。ヴェルタ軍の配給では見たことのない、しっかりと味のついた肉だった。燻製にしてから乾燥させているのだろう、噛めば噛むほど旨味が出る。黒パンを齧った。ヴェルタの黒パンとは別物だった。ずっしりと重く、穀物の風味が濃い。干し果物には蜂蜜が塗られていた。塩の小袋まで添えられている。
前線の、それも前進観測班の戦闘糧食がこれだ。ヴェルタ軍の配給は、硬くなった黒パンと薄い麦粥がせいぜいだった。
マイトランドは黙々と食べた。
ルーデルは何も言わず、マイトランドが食べるのを見ていた。その目には、もう帝国軍人としての陽気さも、職務上の関心もなかった。拉致された同胞の痩せた体を見る、一人の帝国臣民の目だった。
マイトランドは再度首都方向への敬礼をした。
ルーデルはそんなマイトランドを見ると、巻貝の魔道具を手に取り、声を送った。
「こちら前進観測班2、ルーデル中尉。栄光ある帝国臣民をヴェルタ兵が救出した。アイヒマン中佐に繋いでくれ。」
巻貝はしばらく沈黙した後、喋り出した。
「こちらはアイヒマン中佐だ。ルーデル中尉、今から回収班を向かわせる。そのまま待機させろ。」
「こちらルーデル中尉、アイヒマン中佐、感謝いたします。交信終わり。」
回収班を待つ間、マイトランドは食べながら掩体の中を改めて観察していた。
ルーデルは部下に何か指示を出し、観測手たちは再び観測窓に戻って通常の監視態勢に入っている。砲撃が終わったからといって警戒を緩めない。職務に忠実だった。
マイトランドの目は、壁に立てかけられた地図に留まった。等高線が細かく書き込まれ、要所にはルーデルの筆跡と思しき数字が記されている。射撃諸元だろう。地図の端には三角形が複数描かれていた。三点交会法の計算痕跡だ。
さらにその隣に、小さな冊子が開いたまま置いてあった。射表だ。距離と角度の対応が整然と並んでいる。この一冊があれば、観測手が報告する距離と方位から、砲兵は即座に射角を割り出せる。
通信手の横には、予備の巻貝の魔道具が2つ並べてあった。1つが壊れても、すぐに切り替えられる。通信が途絶えることは許されない。そういう設計思想だった。
マイトランドは黒パンを齧りながら、その全てを頭に叩き込んでいた。
地図の描き方。射表の構成。通信手順。掩体の構造。観測の方法。砲兵との連携。
一つ一つは理解できる。教本で読んだことのある理論もある。だがそれらを組み合わせ、末端の4人の班にまで浸透させ、夜間の実戦で寸分の狂いもなく機能させている。
個人の才覚ではない。帝国という国の力だ。
これをヴェルタに持ち帰る。持ち帰って、自分の部隊で再現する。
マイトランドは最後の干し果物を口に入れながら、静かにそう決めていた。
しばらくすると、掩体の扉が外から叩かれた。
ルーデルが扉を開けると、帝国軍の軍服を着た4名の兵士が立っていた。回収班だ。
ルーデルはマイトランドに向き直り、帝国語で言った。
「この者たちがお前を砦まで連れて行く。心配するな。もう安全だ。」
「ルーデル中尉、本当にありがとうございました。」
マイトランドは立ち上がり、最後にもう一度帝国式の敬礼をした。
ルーデルは笑顔で敬礼を返した。
「皇帝陛下のご加護を。母上によろしくな。」
マイトランドはルーデルから回収班に引き渡されると、回収班に連れられ、後方の砦へと入った。
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