夜叉 9.
男は、とある使命感に燃えていた。最早使命感と言うより強迫観念に近いそれは、彼の社会的地位や世間体やその他諸々、彼の身の上の一切を無視して彼の体を突き動かし、遂には人を殺めるに至る程であった。
“これ以上佐伯ハルが何者かに汚されてしまう前に、事を成さなければならない”
男は、芸術に対する造詣にかなりの自負心を抱いていた。しかし彼は佐伯ハルを目の当たりにしたその瞬間から、記憶に仰々しく飾ってあった絵画達は公約数的な佐伯ハルの模倣に過ぎないという妄執に囚われてしまっているのである。
“梶谷診療所が動いている。彼らが自分に辿り着くのは時間の問題だろう。そうなってしまえば全てが手遅れになってしまう”
男は、自身が強い加虐嗜好を抱えていたらしいという事に最近気が付いた。彼は自分の両手を眼前に広げ、三島信一の頭を砕いたときに覚えたあの甘い昂揚、それを大仰な決意と呼び替えるように強く握り締めた。
“きっと自分が馬鹿であったなら、ハルに対しても同じ事をしたいと思ったのだろう。しかし自分には、芸術について深い理解があるのだ”
佐伯ハルの美は今、まさにその盛りである。それは彼にとって、侵されてはならない神秘であり、永遠にしなければならない奇跡であり、焦がれてやまない芸術の粋であった。
男は浮き足立つような気持ちを鎮めようと辺りを見回した。様々な生物の剥製や標本が棚に並び、ここが女学校の一室であるとはとても思えない様相である。
男の視線は、不自然に隙間の空いた棚の一角に留まった。
かつての医学生が夢の跡。劣等感の燻りそのものであった代物は、佐伯ハルによって価値を見出され、今では彼女の所有物になっている。
男は周囲に馴染めなかった為に、追いやられるようにこの部屋へ引き篭もっていた。そんな部屋だったが、いざ今生の別れとなれば何処か物悲しさを覚えてしまう。
そうして鎮まりかけていた男の気持ちは、突然響いたノックの音と共に再び烈しく燃え上がった。
男は机の上に置いてあったメスを引き出しにしまい、麻睡剤の壜をポケットに忍ばせると、昂る気持ちを悟られないよう細心の注意を払って「どうぞ」と短く言った。
ドアがゆっくりと開く音が聞こえ、男の昂揚は頂点に達しようとしていた。
「こんな時間まで理科準備室にいらっしゃるなんて、教育熱心ですね。井上先生」
聞き覚えのある男の声。予想していなかった出来事は、心拍数の上がっていた心臓に更なる負荷をかける。
井上は目を見開いて振り返った。ドアの前には、つい最近会ったばかりのハイカラな男が、涼しい顔で立っていた。
「梶谷、又三郎——」
ほんの少しの静寂の後、井上は隠しきれない狼狽をそのままに少し震えた声で梶谷に話しかけた。
「何故、こんな所に?」
「それは、僕が女学校に入れた理由が聞きたいのかな?それとも——」
梶谷はそう言うと涼しげな顔から一転してニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、井上を見る。
「別の誰かが来る予定だった筈なのに、どうして僕が来たのかを聞きたいのかな?」
井上は険しい表情で梶谷を睨みつける事しか出来ないでいた。梶谷はそれを見ると、わざとらしく眉を上げて肩をすくめる。
「まあ良いか。どうせ後者が知りたいだろうから、前者から説明しよう」
梶谷は部屋へ入ると椅子に腰掛け、足を組んだ。ただし、ドアだけは開け放したままだった。
「——と言っても簡単な話で、ここの校長先生はお得意様なんだ。学校というのは案外“不幸な”事故が起きがちだからね」
井上は変わらず、得意気に話す梶谷を睨むだけである。
「さて、ではお待ちかねの後者についてだけれど——これもまあ、よく考えればこんなに引っ張る程の事も無いような酷くつまらない話だ」
梶谷は椅子から立ち上がると、いまだ険しい顔で黙っている井上を煽るような表情で見下ろした。
「無論、君にとって今ここに居るべきだった人物から聞いたという訳だが——」
「余計なお喋りはやめましょう」
突然口を開いた井上に、梶谷は言葉を中断すると続きを促すように片眉を上げた。
「結局あなたは、僕をどうしたいんですか?」
井上の言葉に、梶谷は驚嘆の声を漏らす。
「想定より話が早いね。助かるよ。僕がここに来た理由は、君と商売の話がしたかったからなんだ」
井上は一段と身構えたが、続く「商売」という言葉に、僅かに気の抜けた表情を浮かべる。
「商売?」
「ああ。金さえ払って貰えれば、三島信一さん殺人事件の犯人は君ではないという事になる」
「僕を疑っているんですか?そもそも僕が犯人である証拠が——」
「余計なお喋りがしたくないと言ったのは君だった筈だけれどね」
証拠はない。あるのはハルの証言だけだった。井上が否定すれば、梶谷はそこで引くしかない。
「——いくらなんですか?」
梶谷は、博打に勝ったことを顔には出さなかった。
「まあ、まずは詳しく話を聞かせてもらってからです。警察が動いてしまっている以上高くつくのは覚悟して下さい」
先程までの薄笑いを消し、突然敬語に切り替えた梶谷に不気味さを覚えながらも、井上は食い下がる。
「そこまでの大金、払えないですよ」
「それに関してはあまり心配しなくても良いかと。ウチへの支払いは“患者”として毎月通ってもらう形で分割払いという事になっています。お上の目を誤魔化すのは、色々面倒なんでね」
「そうですか」
梶谷は再び席に着くと、目線を井上に合わせた。
「という訳で、“事件”について詳しく教えていただけますか?」




