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梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


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10/10

夜叉 10.

 梶谷に促され、井上は呟く様に話し始めた。


「——私は数学教師なのですが、芸術を好んでおりまして」


「はあ」


 井上の口から出た“芸術”という言葉に嫌なモノを感じた梶谷は、敢えてわざとらしく“突然何を言い出すのだ”といった様子で相槌を返す。


 井上が犯人であったなら、大方、話の本質は“佐伯ハルに惚れてしまった”という簡単なものだろうと梶谷には予想がついていた。


 どうやら井上は、自覚したら自尊心が損なわれてしまう思考や感情を、曖昧で高尚そうな概念である“芸術”というヤツに丸投げし、その上でそれに詳しいと思い込む事で自分が優位に立った気でいるらしい。


 この手の勘違いは良家のお坊ちゃん方には特段珍しくもない症状である。しかし梶谷にとって問題なのは、殺人に至るまで拗らせた奴という滅多にお目にかかれない稀有な例が“患者”という事になってしまった点である。この後さぞトンチキなお話を聞かなければならないに違いない。


「——まあ、あなたの様な卑しい人間に芸術の真の価値など理解できる筈もないでしょうけれど」


 井上の皮肉めいた言葉に梶谷は安堵感を覚えながら「はい。理解できないので簡潔に仰って頂きたい」と少々早口で返事をした。


 助かった。先鋭化し過ぎると他者に対して心を閉ざすようになるらしい。ある程度危うい所に到達してからは拒絶される経験も増えていったのだろう。それが更なる先鋭化に繋がって——と言う訳だ。

 これが診察であれば、その“芸術”とやらにある程度の理解を示すか、理解しようという姿勢をとりながら徐々に心を開いていく作業が必要なのだが、今回は商談というテイである。匙は投げなくて済みそうだ。


 真剣そうな顔つきで話を聞き流しながらそんな事を考えている梶谷を他所に、井上は少し口調を強くして話を続けた。


「いえ、ですが話さない訳にはいかないのです。なにせ最も重要な“動機”に関わるお話ですから」


 梶谷からしたら動機など最もどうでも良くて面倒な話題に違いなかったが、話を急ぎ過ぎるのも不自然なので、取り敢えず相槌を打つ。


「私は様々な場所を巡り、様々な芸術を鑑賞してきました。充実感は確かにありましたが、しかし同時に何処か空虚でもあったのです。次第に私の芸術鑑賞の目的は、そんな空虚を埋められるような究極の芸術品探しになっていきました」


 突然饒舌になった井上に軽く不気味さを覚えながらも、梶谷は傾聴を続ける。


「当然そんな物が簡単に見つかる筈もなく、いよいよ胸中の空虚は死ぬまで持ち続けなければならない物なのではないかと考え始めた折の事でした」


 死んでいた井上の瞳に光が差した様に、強い生気が宿る。


「究極の芸術品はある日突然、皮肉にも最も身近で最も嫌いな場所に現れたのです」


「それが佐伯ハルだったと。で、それがどうして三島家の殺人に繋がるんですか?」


 話の腰を折ろうと情緒の欠片もない言い回しで口を挟んだ梶谷に、井上は少々の狼狽を見せた。しかしすぐ質問に対して回答を始める。


「彼女が千代さんとエス、というやつだったのはご存知でしょうか」


「ええ。その関係を続ける為に三島信一と愛人ごっこのような事をしていたという事も知っています」


 梶谷の口から出た三島信一の名前に、井上はほとんど陽の落ちた部屋でも分かる程に顔を赤くし、目尻を吊り上げて怒りの形相を露わにしていた。


「そこが問題なんだ!」


 突然声を張り上げた井上に驚きつつも、梶谷は顔色一つ変えずに黙っている。

 

「エスのような勘違いは女学生なら仕方のない事だろう。しかし三島信一はその財力や権力であの子をたぶらかしたんだ。そんな事、許されない」


 怒りのあまり理路整然としない言動と、劣等感の見え隠れする内容に、梶谷はいよいよ辟易を隠さない。


「僕には寧ろ、妻を亡くした信一さんの喪失感に佐伯ハルが付け込んでいるように感じましたけどね」


「あの子がそんな事をする訳がないだろう」


 酷い盲信である。既に梶谷には、これ以上無駄な話を続けるだけの忍耐力は残っていなかった。


「まあそんな事、正直言えば僕にはどうでもいいのです。今興味があるのは、あなたがどうやってあの三島邸に入り込んで殺人までやってのけたのかという事です」


「私もその点には予てより苦心していました。——不謹慎ですが、千代さんが亡くなったのは都合が良かったと言えます。元担任というのは充分、押し掛けるだけの大義名分になり得ますし、館に入ってさえしまえば、後は簡単でした。彼が阿片中毒を患っている事も、千代さんが亡くなった為にすべての使用人に暇が出されている事も聞いておりましたので、無理矢理に阿片を勧めて酩酊させた所を——という感じです」


 梶谷はそれを聞き、この後の面倒な仕事に思いを馳せながら、最後の詰めとして「ちなみに、凶器は?」と訊ねた。


「灰皿だったと思います。酩酊している三島信一が、あの子の名前を呟いた辺りで衝動的に」


 ここまで聞いて梶谷は、開け放してあったドアを見た。


「あー近藤、これだけ自供があればもう良いか?」


「——充分だよ。お疲れ様」


 そう言いながら、恰幅の良い男性が部屋に入って来た。



「俺がどう言う職業か、格好を見れば分かるよな?——と言う訳で、三島信一さん殺害の容疑で逮捕する」


 近藤は井上を見ながらそう言い、不躾に椅子を足で退かしながら警察手帳をはためかせ、二人に近付いた。

 それを見た井上は酷く狼狽した様子で梶谷に喰って掛かる。


「どういう事だ?だって、さっき商売だって、金さえ払えば犯人が私でなくなるって——」


 梶谷は惚けた顔で井上を見た。


「僕はただの医者ですよ?ただの医者が殺人事件の犯人を教えられて、する事は一つじゃないですか。警察を呼ぶ事です。貴方がどんな“勘違い”をなさっているのか知りませんけど」


「勘違いだと?ふざけるな。梶谷診療所が何をしているかなんて有名な話じゃないか」


 語気の強い井上の言葉に、梶谷はわざとらしく浮かない表情を浮かべる。


「それに関しては僕自身も困っているんですよ。先程貴方が言った通り、僕は卑しい男ですから、金払いの良い上流階級の方ばかり相手しているんです。そのせいで謂れのない噂話が広まってしまって」


「何を、言っているんだ?噂話だと?」


「ええ。忌々しい噂話だと常々思っていましたが、まさかこんな使い道があるとは。わからないものですね」


 一連の梶谷の言葉は明らかな欺瞞であったが、しかしそれをこの場で覆す事が不可能であると理解した井上は床にへたり込んだ。


 梶谷は椅子から立ち上がって近藤の通り道を作る。近藤は刺激しないようゆっくりと井上に近付き、そのまま労わるように肩を貸した。

 近藤に助けられ、項垂れながら立ち上がる井上を見た梶谷は、少しばかりの同情から口を開いた。


「——佐伯ハルに出会ってしまったのは、運が悪かった」


 井上は項垂れていた頭をもたげ、睨むように梶谷を見つめるだけだった。梶谷は話を続ける。


「あの娘はやがて幾十、幾百の人間の魂を弄んで貪り、肥えていく怪物になる」


 最早井上は反論をしなかった。黙って梶谷を睨むだけである。


「君も、その肥やしの一人になってしまったんだ。だから、運が悪かった」


 そこまで聞いて、井上は嘲るように鼻で笑った。


「肥やしだと?馬鹿な事を。私ほど彼女を思っている人間が居るものか。彼女もそれに応えてくれていたのだ」


 佐伯ハルに対してだけでなく、自分自身に対しても酷い妄信。もうこの男は救えない。

 つい今しがた梶谷の胸中に去来していた同情は鳴を潜め、眼前の男に対する嫌悪感に支配されてしまった。

 だから一つだけ、梶谷は意地悪な質問をする事にした。


「——佐伯ハルに噛まれた事は?」


「噛む?あの子がその様なはしたない真似をする訳がないだろう?」


 井上の答えを聞いた梶谷は悪意を込めて、酷く憐れむような表情を顔に浮かべて見せつける。そしてわざとらしく敬語を使って井上に語り始めた。


「三島千代から佐伯ハルに宛てた手紙を読む機会があったのですが、三島千代は他の人間に佐伯ハルが噛み跡をつけるという事に対して強い不快感を露わにしていました」


「梶谷」


 近藤が少々強い口調で声を上げた。彼は今回の件についてまだ大まかな理解であるが、今梶谷のしている話が状況をより悪くするであろう事は明白であり、警察官としてはやめさせるべきであると考えたのである。


 それでも、梶谷は止まらない。


「つまり噛み跡を付ける、或いは噛むという行為自体に、佐伯ハルにとって愛情表現的な、そうでなくてもそれに近しい意味があるのだろうと考えます」


「梶谷、もうよせ」


「つまりあの娘に噛まれた事が無い、それはおろかあの娘が人を噛む事を想像出来ないと言うのは——」


「梶谷!」


 近藤の声は殆ど怒号と化し、気付けば光源が月灯のみになった暗い部屋の空気を揺らした。漸く梶谷は口を閉じて——残響。




 ほんの少し間を置いて、井上は静寂を破る事なくゆらりと立ち上がった。窓を背にしている為に逆光となり、表情は見えない。怒りで醜く歪んでいるのかも知れないし、絶望で涙を流しているのかも知れない。


 そして突然、井上は素早く身を翻すと引き出しを開けてメスを取り出し、近藤と梶谷に向けた。二人は瞬時に井上から距離を置き、部屋は緊張感に支配される。


 その後、井上は梶谷と近藤に向けていたメスの刃先を自分の頸に当て、身体の中心に向かって引き切った。

 暗い部屋の中で鮮血が黒々と噴き上がって飛び散り、井上が倒れ込む。


 喉に流れ込んだ血液と、直ぐには止まらない呼吸がコポコポと嫌な音を立てる。その後ヒューヒューと何処か間の抜けた空気音が繰り返されて減衰していき、遂に聞こえなくなった。


 極めて滑らかな、何気ない日常のような所作に呆気に取られ、茫然と光景を見ていた梶谷は、正気を取り戻すと首だけで近藤を振り返り口角を上げた。

 そして「薄っぺらな芸術家気取りさんは、怪物の肥やしである事を自覚した途端に自殺してしまいましたとさ」と言い捨てた。


 近藤は怒りのあまり梶谷に詰め寄ったが、梶谷の顔が見える距離まで近付いた途端に少し怯んでしまう。

 顔の上下を全く別の人格が動かしているのでは無いかとすら思える、そんな笑顔擬き。

 大連からの輸送船、脚気の為に酷く浮腫んだ顔にこれを貼り付け、軍を辞めると言ったあの日の梶谷と、近藤には重なって見えてしまった。


 それでも近藤は不快感を露わにして胸倉を掴み、厳しい言葉を梶谷にぶつける。


「お前が殺したような物だろ」


「ああ、そうだね」


 梶谷は素っ気なく答えると近藤の手を払い、井上の屍体に背を向ける。


「急ぎの用が出来たので、一度診療所に戻るよ。他に何かあればそこまで」


 そう言って梶谷は、早足に部屋を後にした。








 梶谷診療所の応接室には、副島とハルが二人残され、気まずい静寂の中にいた。


「——梶谷さん、結局井上先生を警察に突き出すんですね」


「そうね」


 沈黙を破ったハルに対して言葉を探しあぐねた副島は、取り敢えずの相槌を打った。


「てっきり、この事件も隠蔽してしまうものだと思っていました」


「私も此処で働いて長い訳では無いけれど、話を聞く限り井上先生が彼の顧客でない事は理解出来るわ。ああいう人が梶谷診療所に仕事を寄越して殺人を隠蔽すると、味を占めて繰り返すようになるから」


 二人の間に再び沈黙が訪れた。

 それを再び破ったのもハルだった。


「——副島さん、夜叉って知ってますか?」


「え?ええ。聞いた事はあるけれど、説明しろと言われると難しいわね。恐ろしい、鬼みたいな感じかしら」


 ハルは副島の言葉を聞いてから「一般的にはそんな認識ですよね」と前置きしてから話を始めた。


「夜叉は元々インドの神様で、人喰いの鬼神でありながら財宝や豊穣の神様という側面も持っているんです。それに夜叉には男と女が居て、女の夜叉は官能的に表現される事が多いんですよ」


 突然おかしな話題を提示したハルに狼狽しながら、副島は「また急に、どうしてそんな話を?」と取り敢えず雰囲気を壊さない様に中身の無い簡単な質問を投げ掛けた。


 そんな副島に、ハルは不敵な笑みを浮かべて口を開く。


「——私に似ているなと思って」

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