夜叉 5.
梶谷診療所の応接室は、普段と異なる緊張に支配されていた。その中心で、佐伯ハルが何でもなさそうに座っている。
女学校でどんな話をしたのかは知らないが、梶谷には副島がまさか佐伯ハル本人を、しかも翌日に連れて来るとは全くの想定外だった。
確かに考えてみれば、直接本人を連れて来て梶谷が話を聞くというのが一番手っ取り早い。しかし女学生を連れ込むだなんて、男である梶谷にはなかなか出てこない発想である。そこは素直に優秀な助手の手柄を認めるべきだろうと、彼は思った。
——梶谷は改めて、背の低いテーブルの向こうに座った女学生を見る。
三島邸に出入りする美少女。調査を始めてから幾度も聞いた噂話だ。
しかしそれを聞く度に梶谷は内心、所詮は街で話題になる程度のものだろうと高を括っていたのだった。三島千代や副島だって、ともすれば街で噂になってもおかしく無い位の美女ではないか、そんな事すら考えていたのである。
“仮に創造主とかいうのが居たとして、ソイツが芸術方面に大変なやる気でも出したのだろうか——”
結局はそんな大袈裟な想像で、梶谷の持っていた考えが簡単に塗り潰されてしまう程の、完全にも思える美少女がそこに居た。
整ったその顔は、普段梶谷が客人に対して用いる無表情と同じ、いや、それ以上に、見る者の思い込みを誘った。
清楚も妖艶も、冷淡も情熱も、見る者は望むままにその顔へ読み込めた。相反する印象を押し込んでなお、ハルの美貌は少しも破綻していない。
副島がハルにお茶を差し出した。湯呑がテーブルに触れた際、微かに鳴った乾いた音で正気を取り戻した梶谷は、努めて優しげに、親しみやすい態度を意識しながら口を開いた。
「この診療所の院長をしている梶谷又三郎です。佐伯ハルさん、わざわざお越し頂いて申し訳ないね。色々とお尋ねしたい事があるのだけど、いいかな?」
「ええ、どうぞ何でも」
ハルは、梶谷や副島が感じている緊張など微塵も気にしていない様に落ち着いた口調でそう言うと、差し出された湯呑に口を付け「美味しい」と一言呟いた。副島は梶谷の隣に座った。
「では早速。三島千代さんについてなんだけれどね——」
「昨日も思ったのだけれど、どうしてあの子の事を私から知りたがるのかしら」
ハルはそう言って湯呑をテーブルに置き、悪戯な笑顔を浮かべる。
“私と千代ちゃんがどんな関係だったか、とうに知っているのでしょう?”
そう言っている様な笑顔だった。
——女学生がここに来るには両親の許可が必要だった筈で、娘を女学校に通わせる事の出来る人間が梶谷診療所の本当の仕事を知っている可能性は高い。しかし、それを娘に話すかどうかはその限りでない。
そんな短い逡巡の末、自分の仕事についてハルは詳しく知らないだろうと決め打ちした梶谷は、物々しい雰囲気を演出する為に深刻そうな顔をした。
「君が生前の千代さんと親しくしていたと言う噂を聞いてね。実は、千代さんの死因が少し不可解なんだ。少なくとも病気では無い。僕ら医者には、千代さんのお父様に真実を知らせる義務がある」
副島から冷たい視線が刺さった。呆れているのか、半ば感心しているのか、梶谷には判然としない。
「——自殺だったのではないでしょうか」
ハルは何処か悲しげな表情で、しかし淡々とそう言った。
意外な言葉に虚を突かれた梶谷だったが、あくまでも表情には出さず「何故そう思うのかな」と短く尋ねる。ハルは表情をそのままに答えた。
「千代ちゃんが亡くなった日、私、千代ちゃんのお家に居たんです。でも喧嘩してしまって」
「喧嘩、何故?」
事件当日に三島邸に居たというハルの言葉を聞いて副島は少し眉を動かしたが、梶谷の表情は一切変わらない。
「私、信一さんの愛人だったの。彼の愛人になれば、千代ちゃんのお家に好きな時に行けると思って」
「愛人?しかし君、学生だろう?」
探していた情報を得た喜びを隠すように、梶谷は大袈裟に驚いて見せる。
「ええ。そこは彼も分かってくれていたから、愛人と言っても、彼のお部屋にお邪魔して、膝枕をしてあげたり添い寝をしてあげる位の——ええと、キスはして差し上げたのだったかしら。とにかく、それくらいの事しかしていないわ」
梶谷は、以前三島信一が“肉体関係があった訳ではない”と強く否定していたのを思い出していた。ハルの美貌をもってすれば、或いはそんな無茶な話も通せてしまうのかもしれない。そう思った。
「それで、その日も信一さんのお部屋に行こうとしたら、千代ちゃんに行かないでって止められてしまったんです。それ自体は何度もあった事なんですけれど、その時はかなり強く止められてしまって」
ハルの表情が、一段と曇る。
「そこからは売り言葉に買い言葉でした。私は千代ちゃんと逢う為にそうしているのに、あの子は分かってくれなかった。結局、私は千代ちゃんのお部屋を飛び出して信一さんの所に行ってしまったんです」
ハルの目から涙が溢れる。副島は彼女から目を逸らした。
「朝になって千代ちゃんのお部屋に声をかけたのですけれど、返事が無くて。でもその時はまだ怒っているのかな位に思っていました。まさか亡くなっているなんて」
梶谷の隣で黙っていた副島が口を開いた。
「——気を悪くしたらごめんなさい。それは、自殺してしまう程の喧嘩にはとても思えないのだけれど」
梶谷はすかさず、間の悪い質問をした副島の足を軽く踏んで注意する。
副島の疑問はもっともだった。しかし梶谷は、その違和感を今突きつけるより、ハルが自ら矛盾を口にするまで泳がせたかった。まずは時系列を確かめるべきだ。
「朝になってという事は、君はそれまで信一さんの部屋に?」
「ええ。信一さんはすぐに眠ってしまいましたけれど」
「君は起きていたのかな?」
「いえ、私も直ぐに眠ってしまいました」
梶谷は最後に「そうか」と短く言って、ひとまず追及を切り上げた。
信一は阿片で意識を失い、ハルも眠っていたと主張する。これでは彼女が夜中に部屋を抜け出していたとしても、それを否定できる者はいない。アリバイがないことだけは確認できた。これ以上ここで問い詰めても、こちらの疑念を悟らせるだけだ。
梶谷が追及を切り上げるのを待っていたかのように、ハルは床に置いていた革製の学生鞄を持ち上げ、中から手紙の束を取り出してテーブルに置いた。
「私が何故自殺だと思ったのかは、ここに書いてあります」
「拝見しても?」
梶谷は無表情で尋ねた。真剣そうな雰囲気の演出には成功しているが、実際は彼の機嫌が悪くなっていただけである。
「ええ、是非」
梶谷は手紙の束を手に取ると、ばつの悪そうな顔をしている副島にも何枚か渡し、手紙に目を通した。
手紙はどうやら三島千代がハルに宛てて書いたものらしかった。
その殆どは“親愛なるハルお姉様”から始まり、後には何とも悩ましげな言葉がつらつらと続いている。
副島も梶谷から注意を受けたことなどすっかり忘れてしまったかのように読み耽っている様だった。
“貴女がお父様のお部屋に行ってしまう度に胸が裂ける様な気持です。”
“いずれお父様のお身体にも私と同じ様に噛み跡が刻まれてしまうのではないかしら。そんな事を想像しては枕を濡らす日々です。”
梶谷が手紙に目を通す中で、まずこれらの文章が彼の目を引く。
あの乙女に噛み跡をつけた人物は佐伯ハルである可能性が高いという事くらいしか分からない訳だが、何の情報も無かった頃からは大きな進歩だった。
「すみません。そろそろお暇させて頂いても宜しいですか?お父様とお母様にあまり長居しないよう言われているので」
ハルはそう言うと開いていた鞄を閉じてから小脇に抱え、立ち上がった。
「お手紙はしばらくこちらに置いておきますので、お好きに読んでください」
手紙に釘付けだった副島だが、ハルの発言に驚き、素早く顔を上げた。
「いいの?大切なものなんでしょう?」
ハルは力のない儚げな笑顔を副島に向ける。
「一人でいる時、このお手紙の束が目に入るだけで泣きたくなってしまいます」
聞きたいことはまだ山積している。だが、居所も学校も分かっている相手だ。ここで無理に引き留めて疑念を悟らせるより、まずは手紙の真偽を調べた方がいい。梶谷はそう考え、わざとらしく深刻そうに口を開く。
「——親しい友人を亡くしたばかりだというのに、ご協力どうもありがとう。副島君、送ってあげなさい」
副島は梶谷の指示通りハルに付き添い、応接室を後にした。
ハルと副島が部屋から出て行った後、梶谷は改めて三島千代の手紙を読み始めた。
事前に副島からエスという文化について話を聞いた際、同性愛的だがプラトニックなものであるという説明を受けていた。しかし手紙には案外しっかりと肉体関係があったような記述が散見される。
それ自体もそうだが、寧ろそんなものを今日初めて会った男に読ませてしまう女学生の存在に、彼は内心苦笑した。
その後数十分が経って、梶谷は粗方の手紙に目を通し終えた。
手紙には日が経つに連れて三島千代が不安定になっていく様子が生々しく記載されていた。
初めこそ“お姉様の隣に居ても恥ずかしくないくらい綺麗になりたい”といった年頃の少女らしい文章ばかりであったが、その後徐々に“お家の猫ちゃんは、まだ戻っていないのでしょうか”といった世間話の中に先程の噛み跡やお父様の話題が混じり始める。
そして最後の方には“心中”などと剣呑な単語が幾つか出現している。内容を信頼するのであれば、三島千代が自殺してしまいかねない精神状態であった事に説得力はありそうだった。
しかし梶谷の中で、佐伯ハルに対する疑念は寧ろ深まっていく。
犯行当時、屋敷にいた。遺体の噛み跡とも関係がある。そして、自殺説を裏付ける手紙を自ら持参した。こんなものどう好意的に解釈しても、事件の中心にいる人間である。
但し一つだけ、三島千代に施されたあの解剖の手腕だけがどうしてもハルと結びつかない。未熟だったとは言え、医学書に軽く目を通すだとか、理科の授業での解剖だとか、その程度の学習だけで身につく手際ではなかった。
明日にでも学校と佐伯家の周辺を調べさせようか。梶谷がそう考えた時である。
「先生!」
突然乱暴に応接室の扉が開いたかと思うと、息を切らした副島が現れ、叫ぶように梶谷を呼んだ。
「副島君、早かったじゃないか。そんなに急いでどうした?」
「ハルさんを表までお送りしたところ、三島邸の方から来た人が騒いでいて——」
副島は胸に手を当てて呼吸を整えると、梶谷の反応を窺うようにゆっくりと視線を向けた。
「三島信一さんが、何者かに殺害されたそうです」




