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梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


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6/10

夜叉 6.

 梶谷と副島が三島邸に着く頃には既に野次馬の群れが出来上がっており、それが描いた弧の内側では十数人の警察官が洋館内を物色している。

 人々を押し除けながら近づいてくる梶谷の存在に気がついた警察官達は、忌々しそうな顔を隠そうともしなかった。


 “警察よりも、法よりも先に”


 副島に対してそんな大見得を切っていた梶谷だが、実際は警察に先を越されてしまう事が往々にしてある。

 その結果、彼が現れた事件は“何故か”捜査が打ち切りになってしまう事が多くなり、何某かの権力が働いているらしいという事は末端の人間にも簡単に察せられる状況だった。

 もとより強い警察官の正義感にデモクラシーという社会の潮流が後押しして、彼らからの梶谷の扱いは蛇蝎の如くといった具合なのである。


「おう又三郎。また俺たちの仕事を邪魔しに来たのか?」


 そんな梶谷に対して親しげに話しかけてきたのは、梶谷が軍医時代に同僚であった近藤だった。

 元々軍人だった彼だが、日露戦争の終結を機に警察官へ転身し、今ではそこそこのポストに就いているらしい。


「いや、今回は違うよ。三島さんとは知り合いだったんだ」


「そうか。お前は本当に金持ちの知り合いが多いな」


 梶谷は優しい笑顔で、すれ違いざま近藤の肩に手を置きながら館に向かって歩を進める。

 会釈をしながらそれに続いた副島を見て、近藤は酷く驚いた顔をした。


「お前、遂に結婚したのか?」


 梶谷は首だけで振り返り、横目に近藤を見た。


「彼女は助手だよ。初めの頃は男装なんて事までさせていたけれど、最近はそう見える様にしてついてきてもらっているんだ」


「そうか、俺はてっきり不能が治ったのだと思ったんだが。しかし、何故わざわざ女なんか雇ったんだ?」


 近藤は顎に指を当てて眉間に皺を寄せる。


「——看護婦の事を助手とは言わないよな?」


 恥を知らない粗野な近藤の発言に、しかしノスタルジー故か、それが寧ろ彼の好ましい点である様な気がして梶谷は苦笑し、近藤へ向き直る。


「彼女は優秀だよ。今の君の様な考えが世の中の主流である内は殊更にね。まあ、僕もそれに気がついたのは最近なのだけれど」


 梶谷はそう言うとわざとらしく周りを見て、その後改めて近藤を見る。近藤以外の警官達は、権力を後ろ盾に悪事を犯している疑いのある男と自身の上司が楽しげに会話しているのをどこか怪訝そうに見ていた。


「そんな事より、こんな奴らを現場に通してしまって良いのかい?」


 ばつの悪そうな梶谷の言葉に、近藤は歯を見せて笑う。


「構わん。他の者達は戦争でのお前を知らんだけだ」


「僕はもう軍人じゃないよ。それに“軍人崩れがやくざな仕事”なんて、ありふれた話じゃないか」


「俺にはお前が軍を辞めた理由がわかるし、軍を辞めた人間が何の支援も無しに飯を食っていく事の大変さも理解しているつもりだ。俺は運が良くて警察官をやっているだけだという事もな」


「——警察官がそんな事言って良いのかよ」


「良くはない——が、最近の世間は潔癖過ぎる——とも思う。このまま行けば、“死にたくない”なんて利己的な理由で同僚の屍体を盾に使った俺も大犯罪者になっちまうんじゃないかって怯えてるよ」


 近藤の表情に一瞬だけ陰が落ちた。が、すぐに明るい表情に戻る。


「——まあ安心しろ。証拠が出ればいつでも逮捕してやるから」 


 梶谷も近藤に合わせて明るい笑顔を作った。


「それは、気を付けなければいけないな」




 梶谷と副島は近藤と別れ、三島信一の寝室に向けて続く長い廊下を歩いていた。


「あの、先程の彼は?」


 副島は何処か気まずい雰囲気に耐えられず、取り敢えずの疑問を口にした。


「ああ、前の仕事で同僚だった近藤という男だ」


「その何というか、良い方でしたね」


「馬鹿なだけだよ。馬鹿でお人好しだから、軍人なんて続けられなかったんだろうね」


 副島はこれまでに見た事の無い程悲しげな梶谷の無表情を見て、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。


“梶谷先生だって、軍人を続けられなかったじゃないですか”





 結局殆ど言葉を交わさないまま寝室に辿り着いた梶谷と副島を出迎えた三島信一の屍体は、三島千代のそれと異なり、見るも無惨な姿だった。


 椅子に座ったままの彼の、その首から上に対してだけ執拗に、何らかの鈍器による強い殴打を複数回与えたのだろう。頭部の皮膚が所々、毛髪や肉ごと剥がれて骨を顕にしている。

 また、首がありえない角度で上向きに曲がっており、ドアに背を向けて座っているにも関わらず、不細工に陥没した顔面がドアを通って部屋に入る梶谷の姿を上下反対に見ていた。


 三島千代の扱いとは相当な差があるが、しかし何処か偏執的であるという点に於いて、近しい部分が梶谷には感ぜられた。


 ——ここまでの財を成した男の最期が、“変態性欲の猟奇殺人者に撲殺される”か。


 何処か感傷的に屍体を観察している梶谷の後ろで、副島は周囲に漂う血の臭いと独特の臭気の為にハンカチーフを取り出して軽く鼻を押さえた。

 そんな副島に気が付いた梶谷は幾つかの小物が乱雑に置かれているテーブルに歩み寄り、その上からパイプを選んでハンカチ越しに摘むように持ち上げると副島に向かって振って見せる。


「こんな酷い撲殺屍体を作るのに縛る必要もないとは、やはり阿片は恐ろしいな」


 血の臭いに混じる独特の臭気は阿片から発せられているのだと察した副島の呼吸は無意識に浅くなる。


「犯人は、三島家に何らかの恨みがあったのでしょうか」


 梶谷はパイプを机上に戻しながら、キョトンとした顔で副島を見る。


「犯人の事なんて、もうどうでも良いじゃないか」


 梶谷の回答は、既に副島にとってそこまで驚きに値するものではない。が、疑問が全く無い訳でもない。


「では何故、こんなに急いでここに来たのですか?」


 冷静に質問を続ける副島に口角だけで笑顔を作りながら、梶谷は机の上から一冊の手帳を拾い上げて中を眺める。そして手帳のある部分を指さして副島に見せ「これを確かめにきたんだ」と言った。

 梶谷が指差した先では、週明けに梶谷診療所に支払いをしに行く旨の予定が書かれていた。


「これさえあれば、少なくとも一月分の診察料くらいは遺産から引っ張れるだろう。ちょっとした情報収集の報酬としては上等だ」


 きっと彼は、手帳に記述が無ければ書き足す位の事は平気でやっていたに違いない。副島には既に、梶谷に対するそんな嫌な信頼が出来上がっていた。


「では、もう戻るという事で宜しいですか?夕食の為にお買い物に行きたいのですが、何か食べたい物があれば言って頂けると助かります」


「惨殺死体を前にして献立の話とは、君も随分この仕事に慣れたものだね」


「そんなんじゃありません」


 場に似つかわしくない会話をしながら部屋を後にする梶谷と副島を、三島信一の陥没した顔面が上下逆さまに、極めて静かに見つめていた。

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