夜叉 6.
梶谷と副島が三島邸に着く頃には既に野次馬の群れが出来上がっており、それが描いた弧の内側では十数人の警察官が洋館内を物色している。
人々を押し除けながら近づいてくる梶谷の存在に気がついた警察官達は、忌々しそうな顔を隠そうともしなかった。
“警察よりも、法よりも先に”
副島に対してそんな大見得を切っていた梶谷だが、実際には警察に先を越されることも多い。
そして、一度警察が動き出した後に梶谷が姿を現した事件は、“何故か”途中で捜査が打ち切られることが相次いだ。何某かの権力が働いているらしいという事は末端の人間にも簡単に察せられる状況だった。
もとより、権力を笠に着て捜査を潰す梶谷は、警察官の職業的正義感を逆撫でする存在だった。そこへデモクラシーという時流まで加わり、彼らからは蛇蝎のごとく嫌われている。
「おう又三郎。また俺たちの仕事を邪魔しに来たのか?」
そんな梶谷に対して親しげに話しかけてきたのは、梶谷が軍医時代に同僚であった近藤だった。
元々軍人だった彼だが、日露戦争の終結を機に警察官へ転身し、今ではそこそこのポストに就いているらしい。
「いや、今回は違うよ。三島さんとは知り合いだったんだ」
「そうか。お前は本当に金持ちの知り合いが多いな」
梶谷は優しい笑顔で、すれ違いざま近藤の肩に手を置きながら館に向かって歩を進める。
会釈をしながらそれに続いた副島を見て、近藤は酷く驚いた顔をした。
「お前、遂に結婚したのか?」
梶谷は首だけで振り返り、横目に近藤を見た。
「彼女は助手だよ。初仕事では男装までさせたけれど、女の方が都合のいい場面も多いと分かってね。今日は夫婦にでも見えれば、それで構わない」
「そうか、俺はてっきり不能が治ったのだと思ったんだが。しかし、何故わざわざ女なんか雇ったんだ?」
近藤は顎に指を当てて眉間に皺を寄せる。
「——看護婦の事を助手とは言わないよな?」
恥を知らない粗野な近藤の発言に、しかしノスタルジー故か、それが寧ろ彼の好ましい点である様な気がして梶谷は苦笑し、近藤へ向き直る。
「彼女は優秀だよ。今の君の様な考えが世の中の主流である内は殊更にね。まあ、僕もそれに気がついたのは最近なのだけれど」
梶谷はそう言うとわざとらしく周りを見て、その後改めて近藤を見る。近藤以外の警官達は、権力を後ろ盾に悪事を犯している疑いのある男と自身の上司が楽しげに会話しているのをどこか怪訝そうに見ていた。
「そんな事より、こんな奴らを現場に通してしまって良いのかい?」
ばつが悪そうな梶谷の言葉に、近藤は歯を見せて笑う。
「構わん。他の者達は戦争でのお前を知らんだけだ。現場に入るのは構わないが物には勝手に触るなよ」
「偉い知り合いがいると便利で良いね。しかし、僕はもう軍人じゃないよ。“軍人崩れがやくざな仕事”なんて、ありふれた話じゃないか。君の部下達はどうもそれを疑っている様だけど」
「俺にはお前が軍を辞めた理由がわかるし、軍を辞めた人間が何の支援も無しに飯を食っていく事の大変さも理解しているつもりだ。俺は運が良くて警察官をやっているだけだという事もな」
「——警察官がそんな事言って良いのかよ」
「良くはない——が、最近の世間は潔癖過ぎる——とも思う。このまま行けば、“死にたくない”なんて利己的な理由で同僚の屍体を盾に使った俺も大犯罪者になっちまうんじゃないかって怯えてるよ」
近藤の表情に一瞬だけ陰が落ちた。が、すぐに明るい表情に戻る。
「——まあ安心しろ。証拠が出ればいつでも逮捕してやるから」
梶谷も近藤に合わせて明るい笑顔を作った。
「それは、気を付けなければいけないな」
梶谷と副島は近藤と別れ、三島信一の寝室に向けて続く長い廊下を歩いていた。
「あの、先程の彼は?」
控えめな言葉とは裏腹に、副島の声には問い質すような冷たさがあった。
「ああ、前の仕事で同僚だった近藤という男だ」
「その、何というか。良い方でしたね」
「馬鹿なだけだよ。馬鹿でお人好しだから、軍人なんて続けられなかったんだろうね」
梶谷はどこか悲しげな無表情を浮かべた。副島の不機嫌にも、取って付けたような近藤への褒め言葉にも、気づいていない様だった。
そんな梶谷を見て、副島は喉まで出かかっていた言葉を飲み込む。
“梶谷先生だって、軍人を続けられなかったじゃないですか”
結局殆ど言葉を交わさないまま寝室に辿り着いた梶谷と副島を出迎えた三島信一の屍体は、三島千代のそれと異なり、見るも無惨な姿だった。
犯人は、椅子に座った信一の首から上だけを、鈍器で執拗に殴ったらしい。頭部の皮膚が所々、毛髪や肉ごと剥がれて骨を顕にしている。
また、首は椅子の背越しに後方へ折れ曲がっており、ドアに背を向けて座っているにもかかわらず、陥没した顔面だけが、入ってきた梶谷達を上下逆さまに見ていた。
三島千代の扱いとは相当な差があるが、何処か偏執的であるという点に於いて、近しい部分が梶谷には感ぜられた。佐伯ハルの関与、その疑いを拭いきれないが、既にそれは彼にとって思考を巡らせるに値する情報ではなかった。
——ここまでの財を成した男の最期が、“変態性欲の猟奇殺人者に撲殺される”か。
犯人に対する興味の代わりに、梶谷はどこか感傷的な目で屍体を眺めた。副島はその後ろで周囲に漂う血の臭いと独特の臭気の為にハンカチーフを取り出して軽く鼻を押さえた。
そんな副島に気が付いた梶谷は幾つかの小物が乱雑に置かれているテーブルに歩み寄り、その上に置かれているパイプを指差して副島に声をかける。
「拘束された痕も、抵抗した形跡もない。阿片で動けなかったところを襲われたか」
血の臭いに混じる独特の臭気は阿片から発せられているのだと察した副島の呼吸は無意識に浅くなる。
「犯人は、三島家に何らかの恨みがあったのでしょうか」
梶谷はパイプから視線を外し、キョトンとした顔で副島を見る。
「犯人の事なんて、もうどうでも良いじゃないか」
梶谷の回答は、既に副島にとってそこまで驚きに値するものではない。が、疑問が全く無い訳でもない。
「では何故、こんなに急いでここに来たのですか?」
冷静に質問を続ける副島に口角だけで笑顔を作り、梶谷は「三島信一への診察料名義の請求書はもう出来てるね?」と聞きながら手袋をつけた。
副島が「はい」と短く答えると梶谷は「よろしい」と言ってから机の上から一冊の手帳を拾い上げ、頁を捲った。副島は近藤から“物を触るな”と言われていた事を思い出したが、何か口にする事は無かった。
少しの時間が経って、梶谷は手帳のある部分を指さして副島に見せ「急いで来たのはね、これを確かめにきたんだ」と言った。
梶谷が指差した先では、週明けに梶谷診療所に支払いをしに行く旨の予定が書かれていた。
「これさえあれば、少なくともひと月分の診察料くらいは遺産から引っ張れるだろう。ちょっとした情報収集の報酬としては上等だ」
きっと彼は、手帳に記述が無ければ書き足す位の事は平気でやっていたに違いない。副島には既に、梶谷に対するそんな嫌な信頼が出来上がっていた。
「では、もう戻るという事で宜しいですか?夕食の為にお買い物に行きたいのですが、何か食べたい物があれば言って頂けると助かります」
「惨殺死体を前にして献立の話とは、君も随分この仕事に慣れたものだね」
「そんなんじゃありません」
場に似つかわしくない会話をしながら部屋を後にする梶谷と副島を、三島信一の陥没した顔面が上下逆さまに、極めて静かに見つめていた。




