烈風 2.
傳次郎の要望により、三人は少し上等なカフェーの席についていた。
「副島君、もう帽子は外してしまって構わないのではないかな?」
梶谷が上着を脱ぎながらそう言うと、副島は帽子を脱ぎ、外套の襟元へ押し込んでいた髪を背へ流した。手入れの行き届いた真黒な長髪を見て、傳次郎は初めて副島が女だと気づいた。
彼は驚いた顔で「君、女だったのか。奢ってもらう俺が言うのもなんだけど、こんな場所で良かったのかい?」と副島に言った。
「ええ、構わないですよ。こういう場所に来るのを気にする世間体なんて、私にはありませんから」
副島は涼しげにそう答えると、女給にポートワインを注文した。
「折角良い店に来て、それに余計な金があるのだから、もっと良い酒を頼めば良いのに」
梶谷はそう言って、戻ろうとする女給を呼び止め、模造でないスコッチウイスキーを注文した。傳次郎は全く悪びれる様子もなく「同じものをもう一つ」と付け加えた。
酒が進むにつれ、三人の話題は次第に世の中全体へ広がっていた。
「——そもそもあの館の金だって、田口一人で作った訳じゃない。工場で働いた連中の金でもあるんだがね」
傳次郎は田口についての不満を饒舌に語っている。
「随分と田口に詳しいね。昔、何かあったのかい?」
「さあね。まあ、あれだけ成金ぶりを見せつけていれば、嫌でも色々と耳に入ってくるさ」
詮索を躱された梶谷はウイスキーを口に運びながら、神妙な顔で傳次郎の語りに再び耳を傾ける。
「ともかく、田口の工場に関してはそこで働く連中も良くない。資本家に唯々諾々と従っていたら、行き着く先は奴隷ではないのか?」
傳次郎の話の内容が次第に危うくなってきたのを感じ、梶谷は口を挟む。
「花の帝都で共産主義の御高説とは、君も随分命知らずだな。大逆事件がどんな顛末だったか知らない訳ではないだろう?」
傳次郎は梶谷の言葉に、目を見開いたままハハハと笑った。
目が笑っていない。しかし、何処か余裕を感じさせる雰囲気が傳次郎からは醸されている。
「命知らずか、しかしそれは少し違う。俺はもう死んでいるのだ」
「私も、もう一年程この仕事をしていますが、そんなに元気に笑う死体は見た事ないですよ」
副島も酔いが回っているらしく、普段なら口にしないような冗談を笑顔で返した。
「——まあ、気持ちが全く分からない訳ではないけれど、得もないのにわざわざ危ない事はしない方が良いと思うよ。辞めたとは言え、僕は軍に身を置いていた人間だからね」
梶谷はグラスに残ったウイスキーを飲み干すと「さて」と言って手を叩く。
「そろそろお開きにしようか」
カフェーからの帰り道、三人は心地の良い酩酊の中、秋の夜風を浴びながら歩いていた。
「梶谷君、今後も田口の所に行くんだろ?また奢ってくれよ」
傳次郎の軽口に梶谷は口角を上げて「あんな上等な店でなければまた行こう」と答えた。
「——なあ」
良い雰囲気だった三人の後ろから、野太い男の声が聞こえた。梶谷と副島が振り返ると、見るからに無頼漢と思しき大柄な男がニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて立っていた。傳次郎だけは前を向いたまま表情を強張らせている。
「お前ら、あのカフェーから出て来ただろ?そんな金持ちの皆さんから、少しばかりお恵みを頂こうと思ってね」
梶谷は折角の良い気分を台無しにされ、近づいて来る大男に向かってわざとらしく溜息を吐いて見せた後、返事をする。
「残念ながら、泡銭が入っただけだよ。君に恵んでやる程の金は持っていないさ」
大男は梶谷の言葉に耳を傾ける様子もなく、副島に視線を向ける。
「こんな美人の姉ちゃんまで侍らせて、羨ましいねえ」
そう言うと大男は副島の襟に手を掛け、引き寄せようとした。副島は目の前の男への軽蔑を隠さず「梶谷先生」と冷静に言った。
梶谷も冷静に「ああ」と言うだけである。
傳次郎は大男が副島の襟に手をかけた途端に焦った様子で「“ああ”って何だよ。このままだと副島ちゃんが危ない目に遭っちまうぞ」と梶谷に捲し立てる。
対して梶谷は何気ない顔で「大丈夫だよ。だって彼女は——」
梶谷の言葉が終わる前に男の巨体が宙を舞い、地面に転がった。
「——優秀だからね」
梶谷は地面に組み伏せられた大男に近付いてしゃがみ、話しかけた。
「女に喧嘩で負けた事は黙っておいてあげるから、さっさと帰りなさい」
そう言って、梶谷は男の上着のポケットに紙幣を二、三枚入れ、副島に解放を指示した。
「“優秀”って、そういう意味だったのか。助手って言い回しも変だとは思ってたんだよ」
大男が去った後、傳次郎はついさっき起こった出来事がまだ信じられないといった様子で言葉を零した。
「傳次郎さんも、最初の言葉選びを間違えていたら、ああなっていたかもしれないですよ」
副島は明るい笑顔で傳次郎の顔を覗き込む。
「そいつはおっかねえな。さっきのは柔術かい?」
「ええ。柔術に限らず、武芸は一通り嗜んでいます」
「ますますおっかねえや。しかし、どうしてただのお医者様にこんな用心棒みたいな助手が必要なんだ?」
傳次郎の質問に、梶谷は「それは言えない。今の事は、なるべく言いふらさないでくれよ」と煙に巻いた。
傳次郎は腑に落ちない様子ながらも「そうか」とだけ言って歩を進めた。
暫く歩くと梶谷は曲がり角を指差し「それでは、僕達はこっちだから」と言った。
「ああ。まあなんだ、最後色々あったけれど、楽しかったよ。また行こう」
傳次郎はそう答え、角を曲がる二人を静かに見送るのだった。




