夜叉 13.
等間隔に並んだ電灯の弱い灯りが、梶谷の姿を夜の街に明滅させていた。かつて副島と並んで歩いた時より、その明滅はひどく速い。
梶谷は走った。
あの程度の言葉で井上が命を絶つとは、夢にも思っていなかった。井上を半ば死に追いやった事実から逃げているのか、この後の“面倒な仕事”を急いでいるのか——梶谷自身にも判然としなかった。ただ、井上が最後まで語らなかったことだけが頭から離れなかった。
井上は、遂に三島千代の殺害について触れる事は無かった。それどころか、彼は三島千代の死を“都合が良かった”とさえ言った。
井上が三島邸へ押しかける口実を得たことも、信一が阿片中毒だと知っていたことも、すべて誰かによって整えられた“都合”ではなかったか。
だとすれば、一体誰にとっての都合なのか。答えは明白だった。
佐伯ハル。数年前、依頼主である佐伯家の素性を一通り調べた梶谷が、その痕跡ひとつ見つけられなかった女学生。
下の息子の代わりに養子を取ったのだとして、何故女を?遠い親戚から?或いは——。
梶谷は、この辺りで人身売買が横行しているという噂話を思い出し、自身の豊かな想像力に苦笑した。
ともあれ、あの少女の出自は普通ではない。そして今や、一連の事件の中心にいる疑いも濃い。
その少女と一緒に、副島を診療所へ残してきた。
電灯は次々に梶谷の姿を照らし、明滅は速まるばかりだった。
「“夜叉に似ている”ってどういう意味?」
ハルの言葉の後、少し黙っていた副島は意を決したように口を開いた。ハルは相変わらずの悪戯な表情で副島を見つめる。
「そのままの意味ですよ。私は人喰いの怪物であり、欲望の対象です」
不敵な笑みでそう言ったハルに、副島は重々しく口を開く。
「——千代さんを殺したの、ハルちゃんなの?」
副島が絞り出した言葉に、ハルは表情一つ変えず淡々と質問をぶつける。
「どうしてそう思うんですか?」
「あなたは事件の晩、あの屋敷にいた。千代さんを噛んでいたのも、私達に自殺だと思わせる様な手紙を自分から持ち込んだのもあなた」
ハルの表情はやはり崩れない。副島は続ける。
「あの時、あなたが泣いているのを見て、私は目を逸らした。あなたのような子があの惨状を作れるなんて信じたくなくて、可哀想な自分を演じているだけだと決めつけた」
副島は一度視線をテーブルに移して溜息を一つ吐くと、改めてハルを見る。
「でも今、あなたは“夜叉”の話で、明らかに私を、或いは梶谷診療所を試している。それがどんな意図なのかは理解できないし、理解したくもないけれど——」
ハルは表情を変えないまま、副島の言葉に口を挟む。
「では、副島さんはどうするつもりですか?井上先生の様に警察に突き出すのだとしても証拠になるのは貴女の想像だけ。その程度の疑惑なら、覆すだけの力を私は持っています。——警察官には男性しかいませんから」
「確かに証拠としては弱いし、あなたの言う通り、きっとあなたは簡単に覆してしまうのでしょうね。だから私は一つだけ質問をするわ」
副島はハルに視線を向ける。
「“あなたは梶谷先生を殺すつもりなの?”って」
そんな副島の言葉に、ハルは不思議そうな顔をして質問を返した。
「それは、随分と飛躍した質問に思えます」
「千代さんを殺したのがあなただとして、あなたは楽しんでいる。きっと殺しだけじゃなくて、この状況も。そんなの、井上先生なんかよりも余程“繰り返す人”でしょう?」
ハルは表情を変えずに「そうかも知れませんね」と何処か他人事のような相槌を打つだけである。
「少なくとも、梶谷先生以外の誰かが殺されるかも知れないというだけでは、今ここであなたを止める理由にはならないわ」
副島は無表情で事務机に目をやった。そして呟くように「ここで働いて学んだのは、証拠なんてもの、こういう場では案外必要無いという事ね」と言うとハルに視線を戻した。
「“あなたは梶谷先生を殺すつもりなの?”」
予告していた問いを改めて突き付ける副島に対して、ハルは目を輝かせながらも淡々と答えた。
「面白そうなら、そうするつもりです」
それを聞いた副島は口角を上げ、天井を見上げると「そう」とだけ言った。
梶谷の前では見せた事のない、温度の失われた冷たい笑顔だった。
その後副島は目線をハルに向け、口を開く。
「でも、それは駄目。梶谷又三郎は私の獲物だから」
副島の言葉を聞いたハルは、少しだけ面食らった様子で目を見開き、まじまじと副島を見た。そして声を出して笑った。夜を切り裂くような、甲高い笑い声が響いた。
一通り笑い終え、ハルはまた悪戯な表情で副島を見ると、挑発的な口調で話しかける。
「それで副島さんは、梶谷先生をどうしたいの?」
「案外無粋なこと聞くのね。ご想像にお任せするわ」
副島はそう突き放したが、ハルは尚も目を輝かせて会話を続ける。
「でもそんな事、私に話してしまって良かったんですか?梶谷先生に告げ口をしてしまうかも知れないのに」
「ええそうね。それでも、脅しの為に言っておく必要があったの」
「脅し?」
「もうお分かりでしょうけれど、私は梶谷診療所がどうなっても構わない。彼が隠してきた殺人を何処かの記者に暴露するなんて事、今の私には簡単よ。先生に逢いづらくなるから最終手段にしているだけでね。まあ、そんな事をすれば私もただでは済まないでしょうし」
副島は、表情をそのままにハルを見つめる。
「もし私が暴露する決心をしたとして、その記事にあなたの名前を書き足すというのはどうかしら?あなた美人だし、きっと映える記事になるわね」
「それは、とても困ります」
一拍置いてそう言ったハルの目は、言葉に反して輝きを失っていない。副島はそれを嘲るような目で一瞥し、話を結ぶ。
「あなたが今後梶谷先生に近づかないのであれば、雑誌や新聞に梶谷診療所の名前が載る事は無いし、千代さんの死因は病死のままね」
副島の話を全て聞き終えたハルは笑みを浮かべてソファから立ち上がり、翻って副島を見据えると口を開いた。
「——わかりました。“脅しに屈して”お暇させて貰います。梶谷診療所廃業のお知らせを楽しみにしていますわ。最後に、お手を拝借しても?」
ハルの言葉に副島は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、挑発を受けるように左手を差し出した。それを見たハルは微笑を湛えたまま片膝をつき、副島の左手首を持つと小指の付け根あたりに噛み付いた。
副島は突然の激痛に少し顔を歪めたが、すぐに冷酷な笑顔を浮かべる。
暫くしてハルの口から解放された左手には、噛み跡がくっきりと刻まれ、血が滲んでいた。
ハルはそれを見ると、血に濡れた口角を上げ、応接室のドアに向かって歩を進めた。
「ああそうだ。今度こそ本当に、最後に一つだけ」
ドアノブに手をかけたハルは、思い出した様に振り返って副島を見る。
「退屈は恐ろしいですよ。きっと、死んでしまうより」
ハルの言葉に、副島は笑顔で「ええ、心しておくわ」と答えた。
副島の言葉にハルは微笑みを返し、ドアを開いた。
「それでは、さようなら」
そう言って、ハルはドアの向こうの闇に消えていった。
梶谷が息を切らしながら診療所に戻ると、ソファには副島が一人、座っているだけだった。
「佐伯ハルは何処に?」
そう訊ねられた副島は、ハルがしていた様な、悪戯な微笑みを返して口を開く。
「夜叉は、夜闇に紛れて消えてしまいましたよ」
「——夜叉ねえ」
梶谷はそう言って、包帯が巻かれている助手の左手を見た。
「左手、どうしたんだ?」
「少し怪我をしてしまって」
副島の纏う“それ以上の追求を許さない雰囲気”に、梶谷は一度口を噤んでしまう。
「——そうか。まあ、無事で良かった」
夜は更け、電灯の弱い灯りでは照らし切れない深い闇が街を覆っていた。




