夜叉 12.
“佐伯ハル”になってからは、お父様もお母様も、元ご主人様でない方のお兄様も、お家で飼っていた猫ちゃんまで、表面上は私に優しくしてくれた。
特にお父様は、事ある毎に「お前は立派な男性と結婚するんだよ」と嬉しそうに言っていた。それを言う時だけは“あの目”も人買いの目もしていない、本当に嬉しそうな笑顔だった。
だから彼の言った事は正しくて、私の心の中にいる怪物はやはり存在してはいけないのだと思った。
“佐伯ハル”になってから良かった点をもう一つ挙げるなら、ご主人様の部屋がそのまま私の部屋だった事になり、“難しそうな本”がすべて私のものになった事だろう。
恐らく彼は神秘主義に嵌っていたらしく、本棚には黒魔術や妖怪や世界の神様といった、趣味が良いとは言えない内容の本が数多く残されていた。
私は暇さえあればそれを読んだ。その時は“これを試されなくて良かった”などと呑気なことを考えていたけれど、今思えば、本の中に怪物の正体を探していたのかも知れない。
そんな自覚があったからこそ、擬態は上手だった。
元々私は部屋の本を読める程度には読み書きができたし、編入の勉強も礼儀作法も、やってみれば案外簡単だった。女学校では成績もよく、友達もできた。稀に話が噛み合わないことを除けば、他のお嬢様と何ら変わらない女の子だったと思う。
ただ、学校で“あの目”を向けてくるのは、せいぜい数人の男の先生だけだった。敢えて会いに行く理由もなく、退屈な日々だった様にも思う。
そんな日々を二年程過ごし、擬態もいよいよ意識する必要が無くなっていた頃のある日、私の前に千代ちゃんが現れた。
あの子は可愛らしい顔を赤らめて、私にお手紙を送ってくれた。手紙の内容はどうやら“エス”という関係の申し出の様だった。
私は手紙を読み、“あの目”をしていない人間から求められるという初めての体験に興味を覚えた。
私はその場でそれを受け入れ、晴れて私と千代ちゃんは“エス”という事になった。
それからは楽しかった——筈だ。千代ちゃんとの関係にも次第に慣れ、彼女のお家にお邪魔する事も増えた。
千代ちゃんのお父様は、亡くなった千代ちゃんのお母様の事を今でも想い続けている、とても素敵な人だった。
私を“あの目”で見る事は無かったし、千代ちゃんを見る時も、決して人買いの目をする事は無かった。
暫くして、千代ちゃんは何故かよく怒る様になった。
大抵は、ベッドで素肌を重ねればなあなあに出来たのだけれど、その日の千代ちゃんは怒るのではなく泣きながら「ハルお姉様が何を考えているのかわからない」と言って私に倒れ込んだ。
試しに擬態をやめて、彼女を抱き寄せながら言葉を探したけれど、言葉以前に、喉を震わせる事さえ出来なかった。
怪物は死んだのだと思った。同時に、自分自身が何者なのかわからなくなった。
どうにかお家に帰って、私は縁側で呆然とお庭を眺めた。お庭では、飼っていた猫ちゃんが欠伸をしていた。
お庭に鼠が一匹入って来て、ついさっきまで呑気に欠伸をしていた猫ちゃんは目の色を変えた。猫ちゃんはあっという間に鼠を捕まえた。
私は、どうにか猫ちゃんの牙から逃げ出そうと必死にもがく鼠に視線を奪われていた。もがいて、もがいて、鼠は突然動かなくなった。私は、鼠が死んでしまったのだと思った。
しかしよく見ると、動かない鼠はまだ激しく息をしていた。それだけ激しく息が出来るのなら、まだもがく事が出来る筈なのに。
そこまで考えて私はやっと理解した。つまりあの鼠は、猫ちゃんの血肉になる事を自ら選んだのだ。
それに気がついた私は、涙が出る程の強い感動を覚えた。
——愛だと思った。鼠と猫ちゃんの愛の発露の極みだと、そう思った。
だから、私に乱暴した前のお父さんも、私を売ってそのまま自殺してしまった前のお母さんも、他の人だってみんな、私を愛していて、私も彼らを愛していたのだ。
——もっと誰かを愛そうと思った。私の中に復活したのは、怪物などでは無いのだと、そうも思った。
私の中に復活した“それ”に名前をつけようと思って少し考えた。お部屋の本を思い出して“夜叉”が良いだろうと思った。
猫ちゃんの足元には頭の無くなった鼠が転がっていて、猫ちゃんは一途にそれを齧っていた。
“夜叉”が復活してから、私は千代ちゃんと身体を重ねる度に、彼女の身体を噛む様になった。強く噛むと、千代ちゃんは小さく声を漏らした。
千代ちゃんが漏らす声が痛みによるものか、歓びによるものか、私には分からなかった。それでも私は、全身に自分の歯形が残るまで噛み続けた。
終わる頃には千代ちゃんの身体のあちこちに噛み跡が刺青のように刻まれているのが常だった。それを見る度に“夜叉”の要求が大きくなっていくのを感じていた。
“そういえば千代ちゃんは、いつも綺麗になりたいって言っていたわね。”
そんな都合の良い言い訳を、夜叉はいつも私に囁いた。
強くなっていく欲の為に、ついに私は千代ちゃんのお父様と井上先生に近付いた。井上先生はすぐのぼせてしまったけれど、信一さんは最後まで後ろめたそうにしていたのが、今思えば印象的だった。
井上先生からは、幾つもの医学の本と手術道具の一式を貰った。
欲しいと言った後“レオナルド・ダ・ヴィンチ”と、昔の優れた芸術家の名前を唱えた。ダ・ヴィンチが、解剖学に精通していた事を井上先生が自慢げに語っていたのを覚えていたから。
それを聞いた彼は酷く感動し、私が欲しがった物を何の迷いもなくすべて差し出した。
信一さんからは阿片を貰った。「阿片を見てみたい」と言うと、次に彼の部屋にお邪魔した時には用意されていた。「喫んでみて」と言ったら彼は少し渋ったけれど、もう一度ゆっくりと「喫んで」と言ったら、彼は阿片を喫んだ。すかさず私は彼の唇に自分の唇を重ねた。
そんな事を続けている内に、彼はキスをせずとも自ら阿片を喫む様になっていた。
最後に、明らかな絞殺だったご主人様の死が、何故病死になったのかを確かめなければならなかった。手掛かりは、あの晩お父様が口にした“梶谷診療所”という名前だけだった。
私はお父様から診療所の仕組みを聞き出した。初めこそ口籠もっていたけれど、私の中で“夜叉”が復活してから、お父様は私の頼みを退けられる立場ではなくなっていた。聞き出すのは難しくなかった。
信一さんが診療所を知っているかも確かめた。金持ちの醜聞を囃し立てる雑誌を彼の部屋へ持ち込み、彼が「酷い記事だ」と言ったから「梶谷診療所を使えばよかったのに」と言ってみた。
「あれは、この辺りの人しか知らないんだよ。何処で知ったんだい?」
「お父様から聞いたのよ」
信一さんが梶谷診療所を知っていれば充分だったから、私はその場で雑誌を破り捨てた。
全ての道具が揃って、私は千代ちゃんの為のお勉強を始めた。
本を一冊読んで、二冊読んで、全部読んで、頭の中で練習して、何匹もの鼠で練習して、最後に猫ちゃんで練習して——時間はかかってしまったけれど、漸く全ての準備が整った。
その夜、私はいつもの様に信一さんを酩酊させ、千代ちゃんの部屋に戻った。千代ちゃんは半狂乱の様子で私に抱きついた。
私は真剣な顔をして「千代ちゃん、心中しましょう。愛してるわ」と言った。千代ちゃんは返事をせず、ただ泣きながら、私から離れなかった。
そのまま私達はベッドで服を脱ぎ、私は今までで最も強く千代ちゃんを噛んだ。出血を伴う程だったけれど、千代ちゃんはこれまでに無い程幸せそうな顔をしている様に見えた。
「自分で死ぬのは怖いでしょうから、私がやってあげる」
私はそう言って、千代ちゃんに阿片を喫ませると首を絞めた。
準備の甲斐があって、その夜千代ちゃんは今まで見た中で一番綺麗な姿になった。
きっと千代ちゃんは、ずっと望んでいた綺麗な姿を、他の誰かにも見てもらいたかっただろうから、私はそのままお家に帰った。
後日、千代ちゃんは病死という事になっていて、“梶谷診療所”は予想通り動いたのだろうと思った。
千代ちゃんのお葬式が終わってから、井上先生によく呼び出されるようになった。彼は毎日飽きもせず“あの目”で私を見ていた。
初めの頃は興味を惹いた彼の芸術の話も、結局同じ様な事を繰り返すばかりで面白くなかったし、彼への用はもう済んでいたから、私の事はさっさと諦めて貰おうと思った。
私は信一さんの話をした。私は彼を阿片中毒にした事と、彼が阿片を喫む度にキスをしていた事を話した。
私の話を聞いた井上先生は、あの日お父様がご主人様へ向けたのと同じ目をしていた。
信一さんは殺されてしまうのだろうと思った。井上先生は冷静では無かったから、すぐに捕まってしまうのだろうとも思った。
“事”がほとんど終わってしまった。悲しくは無かったけれど、楽しい時間が終わってしまう直前の、感傷のようなものを抱えながら、私は理科準備室を後にした。
そして校庭を歩いていると、綺麗なお姉さんに話しかけられた。彼女は“梶谷診療所”を名乗った。
殺人が病死になってしまった事実と、こんなに早く私に辿り着いた手腕に興味が湧いた。楽しい事は尽きないと思った。
しかし当然と言ってしまえばそうなのかも知れないけれど、梶谷診療所の仕事を間近で見るのは難しい様だった。
副島さんに送られる道すがら、診療所へ近づく方法を考えた。お父様から依頼料を引き出すにも、私を少し怖がっている梶谷さんの目を“あの目”に変えるにも、時間がかかる。全てが終わる前には間に合いそうになかった。
退屈の影がまた一つ、輪郭をはっきりさせながら迫っている様な気がした。
梶谷診療所でお話をしている間に、信一さんが殺されていた。お顔を灰皿で何度も殴られたらしい。きっとキスの話をしたから、お顔を執拗に狙ったのだろう。ほぼ間違いなく井上先生の仕業だと思った。
使えると思った。寧ろ、信一さんともう逢えなくなってしまったのに、そうとしか思えなかった自分に苦笑した。
私は信一さんのお葬式で梶谷診療所に行く約束を取り付けた。
梶谷さんが去った後、井上先生から「梶谷診療所の後で良いから、今夜理科準備室へ来るように」と言われた。井上先生は既に一線を超えてしまっているから、多分そこに行くと殺されてしまうだろうと思った。
診療所で、信一さんを殺したのは恐らく井上先生であり、次に殺されるのは私だと話して助けを求めた。
梶谷さんは少し考えた後、「近藤を呼ぶ」と言って診療所を出て行った。
副島さんに「近藤さんって?」と訊ねたら、どうやら警察の人らしかった。井上先生を警察に突き出す理由も、酷くまともな物だった。
退屈の影が、すぐ背後に立っている様な気がした。
私は、“梶谷診療所”を試さなければならないと思った。
「——副島さん、夜叉って知ってますか?」




