閑話 ティエルシアの最愛
※本話はティエルシア語によるティエルシア視点の閑話(『手のかかる子ほど可愛い』的な話)です。
読まなくても本編の理解に支障はありません。
テラグリウス帝国では神殿や公文書に文語が用いられ、神官や宮廷官僚は高位になるほど文語で話します。
ティエルシアは、その中でも最も格調高く正しく美しい抑揚の文語を謡うように話し、その完璧さの前では神官や貴族は自らの文語が拙く思えてしまい、羞恥から口を閉ざします。
が、その結果、ルクくんは――
『ヤベー……たまに来るヒゲのおっちゃん(※父親、皇帝)とか、子ども(※兄二人、皇子)がしゃべってることは、なんとなくわかるような気がするのに、
いつもそばにいるこの巨人(※母親、皇后)と、周りのメイドっぽいおばちゃんたち(※皇后付き侍女、上級貴族)がなに言ってんのか、ちっともわかんねぇ……。
まあ、でも、この人たち、オレのこと可愛がってくれるし、とりあえずニコニコとしとけばいいかぁ』
ルクレオンの言語習得が大変だった理由は、実は半分以上ティエルシアにあった――という雰囲気を味わっていただければ。
ちなみに先帝サルヴァリオンは文語が苦手で、公務の演説や魔法の呪文は丸暗記しても、読む方がさっぱり。
なので、最終的に『おまえが嫁になって止めなきゃ、俺は皇帝になったらまず第一に公文書の文語を廃止するからな!』とティエルシアを脅して土下座して泣きつきました。
「血と魂との誓約を立てよ。あまねく精霊の御前にて、妾とこの幼き御子へ、久遠の世に至るまで変はらぬ忠誠と、子々孫々に連なる献身を誓ひ給へ」
その御言葉はただ一代の命のみならず、血脈の未来までも縛りゆく重き誓ひにて、帝国史においても稀なる厳命なり。
皇太后ティエルシアがこれほどの誓約を誰かに求めしこと、往古よりただの一度もなかった。求むる必要すらなかりしゆゑである。
胸に抱く幼子のあまりの小ささに、集ひし十四名は初めこそ面を見合わせたりしが、やがて皆、静かに地に伏し、帝国の光を仰ぐ者の誇りをもて誓詞を奏した。
「畏み畏み白す。陛下の御心のまにまに、我らが忠義と献身、ならびに我が血脈に連なる一切の命、これを貴女様と御子へ捧げ奉ること、あまねく七属性の精霊の御前に懸けて、ここに誓ひ申し上ぐ。
調和と安らぎを司り給ふ“聖”の精霊よ。
烈しき焔を灯し、力と勇を授け給ふ“火”の精霊よ。
清らなる流れを巡らせ、癒しと潤ひを垂れ給ふ“水”の精霊よ。
吹き渡りて道を開き、声を運び給ふ“風”の精霊よ。
大地を支へ、実りと安定をもたらし給ふ“土”の精霊よ。
静寂を抱き、影を守り、眠りを導き給ふ“闇”の精霊よ。
光を掲げ、道を照らし、希望を示し給ふ“光”の精霊よ。
ここに、我らが祈り、我らが息、我らが魂の震へ、 そのすべてを捧げ奉る。
もし、我らが誓約を違へ、忠義を曇らせ、陛下と御子の御安寧を損なふことあらば――
聖の精霊は我らの心を調へ給はず、
火の精霊は我らの灯を守り給はず、
水の精霊は我らの血を清め給はず、
風の精霊は我らの名を運び給はず、
土の精霊は我らの歩みを支へ給はず、
闇の精霊は我らの影を抱き給はず、
光の精霊は我らの未来を照らし給はざらん。
されば今、七属性の精霊を証人と仰ぎ奉り、我らが命運すべてを以て、ここに誓ふ。
陛下と御子を護り奉り、その御歩みの障となるものを祓ひ、その御未来に仇なすものを断ち、その御心の安らぎを揺るがすものを滅ぼし奉ることを。
あまねく精霊よ、この誓約を聞き届け、我らが忠誠の証を見届け給へ」
問ふことすらなく、己と一族の命運すべてを差し出す覚悟。この離宮に選ばれし者らは、元よりその器を備へてゐた。
されど、守るべき者のためには、なお絶対の縛りこそ要りける。
幼子は擦り切れた衣に細き四肢、頬はこけ、七つとは思へぬほどの小さき体。
梳かれたこともなき髪の根元には、銀の光かすかに宿れり。
いかなる場所にて生まれ育ちしや、およその推察はつきたり。
七年前――銀髪の近衛騎士が世を去りしと、しばらく後に聞かされた折の、いと気の毒に思ふ情がふと甦りたり。
若く、美しく、生真面目にて、帝国に忠を尽くした娘なりき。
戦場にてではなく、病に伏して逝きたりとの報に、どこか腑に落ちぬ思ひが胸に残れり。
さらに思ひ出づるところは、亡き夫サルヴァリオン、政務を厭ひ、 よろこび勇みて魔物討伐へ駆け出さんとせし折に――、
『戦に赴く前に子を成せ。寄り来たる者あらば拒むことなかれ。さもなくば、ヴェルサディスの執務、そなたが肩代はたらむか?』
と、容赦なく尻を蹴り飛ばし、夫を諫めし日々なり。
銀髪の娘は自ら皇帝にすり寄る性質にはあらざりしが、夫の性格上、無理強ひはせざりしはず。
さりながら、ティエルシアは調査を怠らぬ。結果いかんにては、死者への恨みつらみ、さらに積み重ならんこと必定なり。
「まったく……あれは妾に面倒ばかり押し付けおりて……」
嘆息しつつ、ティエルシアは即座に《影環》の者らを呼び寄せたり。
《影環》―― 皇帝・皇后・皇太后の三者のみが命を下すこと能ふ、帝国最深部の隠密組織なり。
その者らは名を捨て、姿を捨て、ただ帝国の影として生きることを誓ひし者たち。
風のごとく現れ、影のごとく消え、魔物の動向より貴族の密談に至るまで、帝国の裏側すべてを掌握す。
ティエルシアは皇后の頃より、《影環》を駆使して夫の治世を陰より支へたり。
ヴェルサディスが皇帝となりてよりは、その若き治政が揺らがぬやう、帝国中の動向を静かに見守り続けたり。
されど――この幼子を抱きしその日より、ティエルシアは《影環》を完全に動かした。
北方ノルドガルド、スレイアの故郷たるグレイヒルの町を皮切りに国内すべての児童管理院、帝都の裏路地、地方領の記録庫、魔導院の封印文書、皇族の血統を記す秘匿の書庫。
皇宮区の政務記録、近侍の報告書、女官局の儀礼日誌、聖騎士団の行幸記録、禁衛軍の巡察簿、四大公爵家軍の遠征報告。
さらには皇帝官房の私的文書庫に至るまで――《影環》は皇太后の命を受け、帝国中枢と辺境のあらゆる痕跡を洗ひ出したり。
ティエルシアは幼児に添ひ寝しながら寝台に伏し、己が命の残り火を削りつつ、報告を一つひとつ確かめたり。
その眼差しは、かつて帝国最強の剣として戦場を駆けし時と同じ鋭さを宿しつつ、胸の奥底には母としての祈りが静かに燃えたり。
(――この者の素性、必ずや突き止めん。そして、今度こそ護り抜かん)
やがて散り散りの情報が一条の道理を成し、ティエルシアの深奥に揺るがぬ結論刻まれたり。
灰ネズ――この幼子こそ、かつての皇后付き近衛騎士スレイアが産みし子にして、皇帝サルヴァリオンの血を引く者。
その誕生は、ルクレオンがこの世を去りし直後。
すなはち、この者はルクレオンの魂を宿す者なり。
ティエルシアは灰銀の御髪をやはらかに撫でさせ給ひ、幼き額へ、静々と口付けを垂れ給へり。
◇◇◇◇◇
そもそも皇太子との婚儀は、ティエルシアの本意にはあらざりき。
皇族に忠義を捧ぐことはあれど、自ら皇族の列に加はらんとは思ひもよらず。
しかし、当時の皇帝をも巻き込みて四方より圧力加へられ、 自らより図体の大きき皇太子にはいかほど邪険に扱ふことも出来たりしが、その側妃三人の楚々たる涙の哀願――、
『我らの子は次代の資質に欠けておりまする。どうぞティエルシア様のお産みになる御子に、この国の未来をお願いしとうございます』
これを受けては、気高き騎士たる彼女といへども、つひに心折れたり。
軍服を脱がぬことを条件に皇太子妃となり、やがて金緑の瞳を持つヴェルサディスを産み、帝国の国母として絶対の地位を得たり。
二人目の皇子を授かりても、ティエルシアの生活は変はらず。
政務と鍛錬に明け暮れ、育児は乳母と教育係に任せたり。
しかし、三人目の子がすべてを変へたり。
第三子ルクレオンは、生まれながらに小さく、泣き声も弱く、気を抜けば魔力が尽きて身体は冷え、命の灯は今にも消えんとした。
ティエルシアは片時も離れられず、騎士の職を辞したのも、この幼子のためなり。
先に生まれた兄たちは、気に入らぬ食を口に入れられれば、泣き叫んで暴れ、吐き出すこと常なりき。
これに異なり、ルクレオンは食細く、わずかな臭みにも顔をしかめながら、まずは一度のみ飲み込みたり。
されど、その後は瞳を潤ませて二度と口を開かず、無理を重ねたるゆゑか、後には熱を発し、吐き戻すことすらありたり。
ルクレオンのために取り寄せた食材、研究させた調理法は数知れず。
然れども、日々うま味を求め工夫を重ねし厨の者らは、いつしか面ふくよかに膨れゆきたり。
されど、肝心のルクレオンはなお小さきままにて、ひと匙の重さすら負担となるほど弱々しき体、いささかも増えざりき。
ようやく食す甘き菓子は皇后の茶会を名物とし、社交界におけるティエルシアの覇権を確固たるものとした。
しかし――どれほどの権勢を得ようとも、ルクレオンは小さいままなりき。
魔力は最強、霊核はあまねく精霊から祝福され、医師も神殿も異常なしと断ず。身体強化も剣技も巧みとなれど――それでも、小さい。
十五を過ぎてもドレスの似合ふ細躯。
前世の記憶を持つと告白した折でさへ、その小さき理由はなお不明なり。
そして――ルクレオンは小さきまま偉業を成し遂げ、ティエルシアの知らぬところでこの世を去れり。
いとし子の亡骸を抱き奉ることも、その功を褒め讃へ給ふことも叶はず。
その折、ティエルシアもまた死の縁に臨み給へり。
聖光樹と光花の香が起こした奇蹟、腕輪の解毒作用がなければ、彼女はサルヴァリオンと共に逝きたり。
正気に戻ったは、ルクレオン死後半年のこと。
後を追ふは容易なり。
香を拒めばよし、腕輪を外せばよし。
されど、皇太后の死は帝国の均衡を揺るがす。
ヴェルサディスには未だ金緑の瞳の子なく、皇統の未来は定まらず。
ゆゑにティエルシアはほぼ死者同然の身を引きずり、北方離宮に隠棲した。そこは家族五人で訪れし最後の地なり。
余生は思ひのほか長く、夫の没年を越えたり。
されど皇統の光は未だ現れず、ヴェルサディスの治世に長き影を落とし続けたり。
その折に現れし小さき幼子。
熱に魘され、瞳が金緑に揺らぐたび、ティエルシアの胸は締め付けられたり。
英雄皇子ルクレオンの功績は、表向き『悪しき精霊を討った』とされる。
されど、帝位に就いたヴェルサディスが聖光樹の記憶に触れし時、真実は明らかとなれり。
――ルクレオン、世界理を改め、魔力循環を永劫のものとす。
誰も思ひ至らず、誰も為し得ぬ偉業を、あの者は小さき身体で成し遂げたり。
幼き頃より聡明にして、数の理に通じ、人の情を読むことに秀でたり。
されど言葉は幼く、身体は小さく、そのため能力を見縊られがちであった。
強固にして巨大なる城壁を瞬時に築き上ぐるなど、常人はおろか歴代の皇族とて到底成し得ぬ離れ業なり。
それほどの業なれども――、
『あーっ! 色がマーブルになってる! 失敗!! ここ、土に白いのと黒いのが混じってたのかぁ。ぜんぶよーく混ぜなきゃいけなかったのに、オレってウカツ! ごめんね。作り直そうか?』
ルクレオンは軽やかに笑い、平民に容易く頭を下げたり。
皇族の矜持など意にも留めず、真の強さをその胸底に宿せし子なりき。
争ひを厭ひ、心優しく穏和にて、その清らかなる心根を、ただ護りたく願ひしのみ。
されど、現には護らるるばかりにてありき。――ルクレオンにも、また亡き夫にも……。
ゆゑに、此度こそはと無理を重ね、忠臣らに誓約を求め、灰ネズの出自を確信し給ひて――寿命はすでに尽きなんとせり。
広域の調査、食材の取り寄せ、今後の備へ。
幼子に寄り添ひながら、寝る間をも惜しみ、ティエルシアは寝台にて指図を飛ばし続けたり。
さればとて、未だ死するわけには参らず。
護りたい思ひに勝りて、ただその温もりを、もう少し抱きしめてゐたかりし。
(妾の小さき、いとしき吾子よ――)
かくして、その事は遂に起こりたり。
奇蹟にあらず。
これぞまさしくルクレオンの真髄にて、天の理すら書き換へる、彼ひとりの魔法なり。
永らふことを願はざりし命なれど、なお続くとあらば――今度こそは必ず護り抜かむと心に誓ひたり。
最愛の者を守らむがため、ティエルシアの命脈はなお細くとも絶えず続きたり。




