第313話 松平源三郎康俊救出作戦
元亀元年十一月中旬。鐘冴ゆる時分となり、立冬であることを肌身に強制的に理解させる肌寒さとなった甲斐国下山。
三河・遠江の徳川三河守家康が十月に甲三同盟を破棄して越後の上杉弾正少弼輝虎との越三同盟を新たに締結したことは、永禄十一年より武田御一門衆・穴山左衛門大夫信君の本拠である下山にて人質生活を続ける一人の青年の運命を激変させようとしていた。
大雪の降る中、下山館の離れにて読書に勤しむのは家康の異父弟・松平源三郎康俊。人質として甲斐へ送られた際には十七歳の少年であった彼も、今では十九歳となり、随分と顔つきも大人びていた。
「おや、源三郎さま。今日も書を読んでおられるのですかな」
「おお、幸吉か。また握り飯を持ってきてくれたのか」
「へぇ、いつものことでやす。何の書物を読んでおられるので?」
「これか。国元にいた頃、兄上が読んでおられた『吾妻鏡』の写しを穴山殿からいただいたのです」
「あづま……?難しそうな本でやすな。おいらは字が読めんので、一生縁のない話でやす」
汚らしい身なりの幸吉は台所に残っていた残飯を松平源三郎へ運んできては話し相手になってくれる下男であった。
そんな幸吉は口減らしのために穴山家に奉公に出された経緯があり、家族と離れて暮らしていて年の近い松平源三郎に情が湧いたのか、他愛もない話をしながら日課となっている離れの清掃をしてくれている。
「おい、幸吉。無駄口を叩くな」
「へぇ、弥兵衛さま。しっかり仕事はしておりやす」
松平源三郎のいる離れに出入りする怪しいやつがいないか、長槍を片手に見張っているのは松平源三郎の兄・家康と同じくらいの年齢の弥兵衛であった。弥兵衛は幸吉の仕事ぶりを見届けると、短く頷き、周囲に異変がないかの見張りを継続する。
そんないつもの通り、平穏な日常が過ぎていく下山館。松平源三郎はかれこれ二年以上過ごしているため、すっかり穴山家に仕えている奉公人たちとも親しくなっていた。
人質に出された当初は脱走しないか十名近くが交代して離れに張り付いて厳しく見張られていたが、今では見張りと称して番をしているのは無口な弥兵衛と、ちょこまかとよく働く幸吉くらいなものである。
そうして夜も更け、弥兵衛がうたた寝し始め、幸吉が松平源三郎に持っていく夕食を調達すべく台所へ向かっている頃。
まるでその時を待っていたかのように黒い頭巾で顔の大半を覆い、衣装も黒装束で統一した一人の男が物陰から現れ、松平源三郎に接触してきたのである。
「むっ、そなたは……?」
「源三郎さま、殿の命を受けてお迎えに上がりました。甲賀衆の弥蔵と申します」
「おお、兄上に仕える甲賀衆の者らか」
燭台に灯された火にあえて照らすかのように中年男性は髭面を見せる。松平源三郎は素顔を見せた甲賀衆の弥蔵から異父兄・家康からの書状を受け取り、一読する。
「そうか。武田とは手切れとなったか」
「はい。それゆえ、人質のお役目は無用となりましたゆえ、秘かに下山館を脱して三河へ戻られるように、とのこと」
「うむ。そなたの手下は何人ほど屋敷に潜り込んでおる」
「拙者のほかには四名ほど。屋敷の各所に潜り込んでおりますれば。他にも内通者が三名ばかり」
「して、脱出はいつにいたすか。しばらく雪が降り続くと思うのだが」
「はい。ですので、明日の亥の刻にでも」
「よかろう。ならば、その心積もりをしておこうぞ」
「では、明日亥の刻にお迎えに上がります」
そう言い残すと弥蔵は気配を消し、離れには松平源三郎だけが残されることとなった。それからしばらくして幸吉が夕食の握り飯とほうとうを盆にのせて運んできたのである。
「源三郎さま、お待たせいたしやした」
「幸吉、毎晩すまぬな。この二年間、一日も欠かすことなく食事を届けてくれたこと、感謝しておる」
「なんのなんの。これしきのこと、感謝されることではありやせん。これがおいらの仕事にございます」
松平源三郎は冷たくなった握り飯を一口に頬張ると、まだ温かいほうとうに箸をつけ、暖を取る。
こうして夜が明け、脱出当日を迎える。松平源三郎は今日で下山館で過ごすのも最後かと思うと、どこか名残惜しい。
だが、いつもと違う素振りをしては屋敷の者に勘付かれるかもしれないと、松平源三郎は平静を装い、いつも通りの日常を過ごしていく。
しかし、いつものようにやってくる幸吉がどういうわけか、朝食を持ってこなかった。そのことに松平源三郎が不安に思っていると、侍女のお篠、お咲、お光が並んで歩いて来ると、番人の弥兵衛と何やら言葉を交わし、離れへ入ってきたのである。
「源三郎さま、朝食をお持ちしました」
「お篠か。今日は幸吉ではないのか」
「ええ、幸吉は拾い食いでもしたのでしょう。腹を下して熱を出しております」
「そ、それは大丈夫なのか」
「ご案じなさいますな。今晩脱出なされる源三郎さまには関わりなきこと」
会話の中で顔色一つ変えずに松平源三郎が今晩脱出するとの話を出した侍女のお篠に、松平源三郎は焦りの色を滲ませる。
「源三郎さま、このことは私も口留めされております」
「なに、口留めと?」
「ええ、弥蔵殿から礼金をいただいておりますれば」
「そうか。内通者とはお篠のことであったか」
「はい。ここに連れて参ったお咲もお光もそうでございます。お咲は私の妹同然ですし、お光は番人の弥兵衛と恋仲にございますから、きっと二人ともお役に立ちましょう」
「なんと、そうであったか」
松平源三郎とやり取りするお篠は遠江国城東郡出身者で、駿府に奉公に出されていたところで一度目の駿河侵攻に遭遇し、武田軍に捕まり、強引に連れてこられた経緯があった。
そんなお篠を姉のように慕うお咲は武田家臣・日向大和守時昌の娘で、噂好きの明るい女子。松平源三郎とは年も近いこともあり、軽口を叩く仲であった。だが、さすがの松平源三郎もお光と弥兵衛が恋仲であったとはまったく知らなかった。
「たしかお光は武田家臣の浅原昌時殿のご息女であったか」
「ええ。弥兵衛殿は足軽上がりですから、身分違いの恋にございます」
「そうか。して、お篠は何故内通することに決めたのじゃ」
「簡単なこと。遠江国城東郡には私の家族がおりますれば、そこへ一緒に連れ戻してくれることを条件としました」
「では、そなたも共に来ると申すか」
「はい。しかし、遠江まで戻りましたら別れることともなりますゆえ、もう会うこともございませぬ」
お篠が思いがけず遠江出身であったことを知り、驚愕する松平源三郎であったが、脱出するまでは油断することはできない。内通者が裏切ることも十二分にあり得るからだ。
そんななんとも緊張感漂う一日を過ごした松平源三郎はついに亥の刻、脱出の時を迎えた。灯りを消して寝たふりをしていた松平源三郎は甲賀衆の弥蔵に起こされ、着の身着のままで下山館の離れを脱することとなった。
いつものように番をしている弥兵衛の方を見やれば、逢引の真っ最中なのであろう。浅原昌時の娘であるお光と密会していた。
「弥蔵、お光と弥兵衛が恋仲であると知って内通の依頼をしたな」
「無論にございます。武士の娘と言えど金は欲しいでしょうから、礼金は弾ませております。それに、成すことは逢引ですから、応じないはずありませぬ」
松平源三郎はこの二年間、ほぼ毎日のように会っていた弥兵衛とお光に心の中で静かに別れを告げると、降りしきる雪の中、使い古して所々に穴の開いた草履で走り抜ける。
「この先の門番はお篠が持ち出した酒をくらって眠っておりますれば、あと一息で屋敷を抜け出せましょう」
「さすがは甲賀衆。抜かりないな」
そうして松平源三郎が台所の脇を通過しようとすると、内通者である日向大和守時昌の娘・お咲がまだ温かい握り飯と水の入った竹筒を用意して待ち受けていた。
「源三郎さま、これをお持ちくださいませ」
「水と握り飯か。ありがたくいただくとしよう。そなたにも世話になった」
「わたくしは何も。どうか、道中ご無事で」
松平源三郎は頷き、お咲から握り飯と竹筒を受け取ると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「おや、源三郎さまにお咲?それにその隣の黒装束の旦那は……」
声の主は腹を下していると今朝お篠が言っていた幸吉であった。離れを出られないはずの松平源三郎がどうしてこんなところにいるのか、不思議に思っている様子の幸吉。
普段ならば良い話し相手が来たと喜ぶところであったが、今この時は出会いたくなかった。今ここで幸吉に脱走しようとしていると声を上げられたが最後、この場にいる者は全員穴山家の家人らに殺されてしまうことであろう。
「幸吉か。なに、どうしても寝つけず、お咲に握り飯を用意してもらっておったのよ」
「そうでごぜえやしたか」
幸吉は短く言葉を切ると、松平源三郎の側に居る黒装束の男が懐に手を入れているのを見て、これ以上深入りするのは危ういと察知し、にこりと笑ってその場を離れようとする。
「さしづめ、源三郎さまは三河へ帰られるのでしょう。おいらは何も言いませぬゆえ、命だけは取らねえでくだせえ」
幸吉は松平源三郎が三河へ帰るのだということにも気づいた。それを言いふらすのではと勘繰る甲賀衆の弥蔵は明確な殺意を向け、今にも放とうとしているのを、松平源三郎が制止する。
「幸吉、今日まで世話になった。腹を下したと聞いたが、以後は控える方がよかろう」
「へぇ、そういたしやす。では、源三郎さまも道中ご無事で」
幸吉が素知らぬ顔で侍女のお咲とともに台所へ引っ込むと、松平源三郎は弥蔵とともに屋敷の門へと駆けた。すると、他の甲賀衆四名とともに侍女のお篠が二人の到着を待ちかねていたのである。
「お篠。ではともに参ろうぞ」
「ええ、そういたしましょう。弥蔵殿、よろしくお願いいたします」
「うむ。では皆の衆、参るぞ」
かくして松平源三郎は親兄弟の待つ三河へ帰るべく、甲斐国下山を脱した。深夜、ましてや大雪の日を選んだこともあり、下山館を脱走するのには難儀しなかった。
しかし、そこからの道のりは指先の感覚がなくなるほどの極寒の中、雪道を幾度となく山越えしていく過酷なものであった。そうして十一月末には遠江へ入ることに成功したのである。
「お篠とはここで別れねばならぬか」
遠江国城東郡に入った松平源三郎一行は、甲斐国下山から同行していた穴山家の元侍女・お篠と別れる時期を迎えていた。
「はい。私はこれにて。源三郎さまもどうか達者で」
お篠は松平源三郎の腫れあがった足の指が気にかかるのか、心配そうな眼差しを向ける。しかし、それをどうということはないと笑って済ませ、松平源三郎は甲賀衆の弥蔵に肩を借りながら遠江を西へ進み、東海道を使って三河入りを果たしたのである。
そうして家康が畿内から引き揚げてくるよりも早く岡崎へ入った松平源三郎が越後国から戻っていた使僧・叶坊光播とともに家康と対面したのは十二月下旬となった。
家康は叶坊光播の口から上杉弾正少弼輝虎が申していた忠告の内容を聞き届けると、いよいよ異父弟・松平源三郎康俊と対面した。
「源三郎!」
「あ、兄上……!」
家康も松平源三郎も互いの姿を見るなり涙を流し、抱き合って再会を喜び合った。しかし、足が不自由な身となった松平源三郎は家康の胸元へ倒れ込むように飛び込んだ。
「源三郎、その足はいかがした!?」
「はっ、大雪の中で山越えいたしましたゆえ、足の指は一本も動かぬのです」
そう、松平源三郎は両足の指を凍傷で失ってしまっていたのである。あまりに痛々しい異父弟の姿を見て、未だ具足を解いていない家康は涙した。
「済まぬな、わしの身勝手がそなたから両足の指を奪ってしもうた……」
「兄上、気に病まないでくださいませ。足の指を失いましたゆえ、初陣することも叶いませぬが、後方で城を守ることくらいはできまする。以後も兄上の家来として働いて参りとうございまする!」
どこまでも健気な弟に感銘を受けた家康は姉川の戦いでの恩賞として織田弾正忠信長から直に授けられた大般若長光を床に置くと、佩いていた当麻の脇差と岡崎城に残していた一文字の刀を松平源三郎の両手にしっかりと握らせた。
「兄上、このような代物、いただけませぬ……!これは戦働きを期待できる者にお与えください!」
「何を申すか。そなたの幼少の頃からの忠勤を称しての恩賞じゃ。ここは兄の顔を立てて受け取れ」
松平源三郎は一文字の刀と当麻の脇差の拝受を辞退しようとするが、家康の真剣なまなざしを前に二の句を継げず、これを受け取り、泣き伏すのであった――




