第310話 唇歯輔車
元亀元年九月十二日、遠江国浜松。三河・遠江の二ヶ国を領有する徳川三河守家康は新たな居城・浜松城へ入城するべく、岡崎から浜松へとやって来ていた。
岡崎城を出る折、以後の岡崎城主である嫡男・松平次郎三郎信康は正室の五徳、生母・築山殿、妹・亀姫をはじめとする一族や、後見役の石川伯耆守数正、平岩七之助親吉の両名を付き従え、父・家康の姿が遠く彼方に見えなくなるまで見送っていた。
家康は「今生の別れでもあるまいに」と軽くあしらって出発したものの、やはり我が子が見送りのために城外まで出向いてくれたことは、素直に嬉しかった。
そんな喜びを感じると同時に、以後は慣れ親しんだ三河国岡崎を離れ、隣国・遠江国浜松で暮らすのだと思うと、過ぎていく郷里のすべてが寂しくも思える。
そうして到着した遠州浜松。家康は完成した居城・浜松城の威容をその眼に焼き付けながら、城門をくぐり、入城する。
その日は一日中家臣一同からの入城を祝う挨拶を受けた家康は疲れ果て、側近の阿部善九郎正勝や旗本の本多平八郎忠勝、榊原小平太康政、鳥居彦右衛門尉元忠、渡辺半蔵守綱といった面々を引き連れて本丸屋敷内の寝所にて早々に体を休めていた。
「殿、さすがに本日はお疲れのご様子ですな」
「ははは、善九郎か。いかに慣れ親しんだ家臣が多いとは申せ、元は今川に従属していた土豪たちも大勢おるゆえな。あ奴らを従属させている大名として振る舞わねばならぬとあっては、さすがに緊張もするし、疲れようものぞ」
駿府に居住している頃からの側近である阿部善九郎だからこそ叩ける軽口を申す家康。決して、遠江の土豪や国衆相手には見せない素顔であった。
そうして家康が休息をとっていると、懸川城からわざわざ家康を訪ねてくるものがあった。
「殿、遅ればせながら参上いたしました。松平左近丞にございます」
「おお、左近丞か。遠慮せず、入ってきて構わぬ」
「では、失礼いたしまする」
家康よりも四歳年下の大給松平家当主・松平左近丞真乗は今年で齢二十五となり、当主らしい風格のようなものを会うたびに身に着けていた。
「そなたの父、和泉守には先日、弾正忠殿への使いを託したところぞ」
「はい。そのことは父からの書状で存じております。おそらく京へ入るのは今月十七日になるであろうとも書状に記してございました」
「そうであったか。であるならば、弾正忠殿からの返事を携えて戻るのは来月上旬ともなろうか」
「おそらくはそうなりましょう」
従伯父・松平和泉守親乗に託した織田弾正忠信長への使いという役目。上杉弾正少弼輝虎との同盟を締結させるにあたり、輝虎の方から信長の意見も重要であると申し送ってきたため、その信長の意見を伺うために急きょ派遣した使者なのである。
「そうです、ここへ参上したのは上杉家との同盟交渉のことにございますれば」
訪問した用件を思い出した松平左近丞は懐から一通の書状を取り出すと、うやうやしく主君・家康へと献上する。その差出人は上杉家重臣・河田豊前守長親と記されていた。
「ほう、越中に在国していたという河田豊前守殿からそなたに宛てての書状か」
「はい。どうやら越後へ帰国したらしく、先月三十日付となっておりますれば。ゆえに、つい数日前に届いたばかりにございます」
「どれどれ。ふむ、上杉と徳川、両家の同盟交渉にて入魂を得たいと記されておるな」
「はい。これにて両家の担当取次が明確となりましたゆえ、あとは父が織田様からの返答を持ち帰り次第、いつでも同盟交渉を進められまする」
松平左近丞が持ち込んだ河田豊前守の書状。それは家康にとっても、重要な意味を持つ書状であった。
これをもって徳川・上杉の同盟交渉は上杉方は河田豊前守長親、直江大和守景綱、徳川方は酒井左衛門尉忠次、松平左近丞真乗、石川日向守家成と使僧・叶坊光播によって実施される運びとなったことを意味するためである。
あとは松平左近丞も申した通り、彼の実父・和泉守が織田弾正忠信長からの返答を携えて戻るのを待つばかりであった。
かくして居城を岡崎城から浜松城へ移した家康は上杉家との同盟交渉を進める傍ら、武田信玄との全面戦争を意識して領国内の政務や軍備増強に力を入れていくこととなるのだが、九日後の九月二十三日に上方より思いがけない報せが届けられるのである。
「殿」
「おう、平八郎ではないか。いかがした?」
「こちら、将軍よりの御内書にございます」
「なにっ!御内書と!?すぐに見せよ!」
将軍・足利義昭からの御内書であると聞かされ、家康は平静を保っていられなかった。本多平八郎から御内書を取り上げるようにして、家康は御内書を開く。そこには、あまり情報の届かない上方のことが記されていた。
記されている事柄としては足利義昭自らも大坂中島表に幕府奉公衆とともに在陣していること、近く三好は信長に討ち果たされるであろうこと、信長は家康の参陣を必要なしとしたが、畿内その外から諸卒が馳せ集まっているので外聞を考えて家康にも参陣すべきこと、といった三カ条であった。
「たしか将軍だけでなく、公家衆も陣中に加わっているのでしたな」
「うむ。そして、弾正忠殿だけでなく、河内からは三好左京大夫義継殿と畠山左衛門督秋高殿、大和からは松永弾正久秀殿が参陣していることはわしも存じておる。おそらく、それに追従して三河と遠江の徳川も参陣したとすることで、幕府の勢威を示したいのであろうよ」
「まったく迷惑な将軍にございますな。当家は武田との戦支度に忙しくしているというのに」
「まあ、そう言ってやるな。この将軍との直の繋がりがあるからこそ、徳川の家格は上がるというもの」
将軍・足利義昭からの命令で参陣することで幕府を支える大名であることを示せるため、家康にとっても悪い話ではない。そして、足利義昭としても徳川が遠国からも参陣したという事実でもって幕府の勢威を日ノ本中に示せるのだから、お互いにとって悪い話ではないのだ。
「されど、宛名が未だに松平蔵人のままであることについては納得がいきませぬ!」
「それはわしとて同じことよ。されど、あの公方様のことじゃ、何があってもわしの徳川改姓と三河守叙任を認めることはないであろう」
「まったく、これほどまでに幕府のために殿は働いておられるのに、何故このような扱いを受けねばならぬのですか!到底許せませぬ!」
「平八郎の怒りはもっともじゃ。じゃが、怒ったところで何が変わるわけでもない。弾正忠殿が担ぎ上げた神輿である限り、奉戴せねばならぬ神輿であることに変わりはない。そう、弾正忠殿が担ぎ上げた神輿である限り……な」
家康としても『徳川三河守家康』でも『徳川左京大夫家康』でもなく、『松平蔵人佐家康』として扱われることに一切不満がないわけではない。だが、盟友である織田弾正忠信長が将軍として担ぎ出した以上、それを支持する立場を変えるわけにはいかないのだ。
「ひとまず、明日にも懸川城の日向守と藤井松平家の勘四郎殿を先発させ、明後日にはわしも出陣することとしようぞ」
「そ、それではさほど兵数は集まらぬかと。良く集まって五千が良いところでは?」
「構わぬ。三千もおれば外聞を果たすには十分であろう。あまり大軍を連れて行っては、武田が何を仕掛けてくるか知れたものではない」
「なるほど。然らばその旨、各所へ早馬を飛ばしまする!」
「うむ、頼んだぞ」
家康の命を受け、本多平八郎は懸川城の石川日向守家成と一度上洛戦に参加したことのある藤井松平家の松平勘四郎信一への早馬を最優先とし、他にも東三河衆の旗頭である酒井左衛門尉忠次、西三河衆の旗頭である石川伯耆守数正へ、軍勢の招集を依頼する旨の早馬を飛ばしていく。
家康の号令を受けた酒井、石川の両氏が参集したこともあり、領国各地から軍勢が集まり、先発隊も含めて総勢五千ほどの軍勢が上方へ向けて出陣したのである。
かくして足利義昭が九月十四日に御内書を発給してから半月ほどが経過した十月二日には家康は京都東福寺・清水・粟田口あたりに着陣することができ、徳川軍の迅速さを天下に知らしめることとなった。
そうして京へと参陣した家康は十月二日に着陣して早々、筆を取り、何事かをしたためていた。それを見た家老・石川日向守は不思議そうに問いかける。
「殿、その書状は?」
「これか。七之助に宛てた書状じゃ」
「おお、岡崎の七之助殿宛にございましたか。して、何をお申しつけに?」
「うむ。わしがおらぬ間、しかと留守を守るよう次郎三郎へ伝えよと書いておるだけの事」
そう、当主である家康不在の間、留守を守るのは嫡男である信康の務めであった。そのことを後見役である平岩七之助親吉から申し伝えておくように指示する書状であったのだ。
それを聞いた石川日向守は主君の念入りな姿勢に感心しつつ、たしかに武田という油断禁物な大敵がいる以上、それぐらいしておかねばならぬかと思い知らされていた。
そんな武田の動向に警戒を強める家康が領国を離れて京に着陣したとの報せを受け、誰よりも喜んだのは将軍・足利義昭ではなく盟友・織田弾正忠信長その人であった。
信長は盟友・家康の着陣を知ると、新たな本陣とした近江国宇佐山城へ家康を呼び寄せたのである。
「三州殿、よくぞ上方まで赴いてくださった。信長、心底より感謝申し上げる」
「弾正忠殿、顔を上げてくだされ。我らはともに幕府を支える身ではありませぬか。織田家の窮地は当家の窮地。駆けつけないはずがありませぬ」
「これまた嬉しいことを申してくれる……!」
家康に対し、涙声でかつてないほどの感謝を表す信長であったが、それにはわけがあった。
足利義昭が御内書をしたためる二日前の九月十二日、そう、家康が浜松城に入城したのと同じ日の夜半、石山本願寺が離反・蜂起し、法主・顕如が諸国の門徒に檄を飛ばしたのである。
これにより三好三人衆を相手に善戦していた信長と義昭を取り巻く戦況は大きく変わった。それゆえに、足利義昭は秘かに家康に御内書を発したのである。
すなわち、家康に出陣を促したのは外聞を考えてのことではなく、単純に劣勢となったから援軍を求めたに過ぎなかったのである。
だが、それだけのことで信長は家康に涙声で感謝を述べるような小者ではない。何より、摂津国野田・福島へ出陣していたはずの信長が近江国宇佐山城に入っていることが大きく関与している。
石山本願寺が蜂起した八日後の九月二十日。まるで本願寺の挙兵に呼応するかのように浅井・朝倉の連合軍三万ばかりが南近江の坂本口へ進軍してきたのである。
信長の摂津出陣中を狙って京へ攻め上ろうとした浅井・朝倉連合軍を前に、宇佐山城主を務めた森三左衛門可成が出陣して合戦を挑んだが多勢に無勢であったために敗死。連合軍はそのままの勢いで大津に放火し、翌二十一日に逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払い、京に迫ったのである。
それを一足先に京へ戻した織田家重臣・柴田権六勝家、幕臣・明智十兵衛光秀から知らせを受けた信長は二十三日に全軍を率いて強行軍で京に舞い戻り、翌日には逢坂を越えて近江に進出。
この瞬間移動のような信長の動きに驚いた下坂本の朝倉軍は慌てふためいて比叡山へ逃げ上り、それを追いかけて信長は宇佐山城に入ったのであった。
「弾正忠殿。聞くところによれば、三好三人衆が讃岐や阿波から二万もの軍勢を渡海させたとのこと。いかに対処なされるおつもりにございますか」
「うむ。おれとともに摂津へ出陣した河内の三好と畠山、大和の松永が睨みを利かせておるゆえ、早々に京へ進軍してくるとは思えぬ。されど、何よりも厄介なのは比叡山に籠もった朝倉のことよ」
「すでに比叡山の僧侶を呼び寄せて交渉なされたとか」
「じゃが、引き渡しには応じぬとの返答が入ったゆえ、こうして睨みを利かせておるのよ。しかし、南近江にて六角承禎父子も挙兵したとのことゆえ、ただちに比叡山を焼き払って浅井、朝倉、六角、三好を悉く討滅したいところではあるが、そうもいかぬ」
明らかに苛立つ信長だが、そうなるのも無理はないと家康は見て取った。
「三州殿、ひとまずは上方情勢が鎮まるまで在陣してはいただけぬか」
「それは無論の事。上方への出陣は将軍からの命令にございますれば、元よりそのつもりにございます」
南近江の情勢も怪しいとあっては帰路も危うく、家康としても協力せざるを得ない。
こうして後世で第一次包囲網と呼ばれることとなる反信長勢力の蠢動に、家康は信長の無二の盟友として巻き込まれることとなる――




