第306話 松平次郎三郎信康
迎えた元亀元年八月。三河国岡崎城の本丸では松平竹千代元服の儀が粛々と執り行われていた。
竹千代は齢十二と元服には少々若い年頃であったが、家康が居城を岡崎城から浜松城へと移すにあたり、岡崎城を託す竹千代を元服させておきたいと考え、この元服は執り行われているのである。
夏も終わりに差しかかり、朝晩が冷え込むようになった時節。それでも昼間にでもなれば、暖かいというより暑いとの言葉が似あう温度ともなる。
そのような空気に包まれながら、徳川三河守家康の嫡男として竹千代は元服の時を迎えていた。
そんな竹千代の元服を見守る石川伯耆守数正、平岩七之助親吉の両名は後見役ということもあり、元服する竹千代当人以上に感慨無量であったかもしれない。
「伯耆守、七之助。どうじゃ、おかしなところはないか」
「はい。ご立派にございまする」
「今のお姿をご覧になれば、殿もさぞかし喜ばれましょう」
着替えを済ませた竹千代は側で着付けが終わるのを待っていた石川伯耆守と平岩七之助へと話しかけていく。その面持ちはまだ幼かったが、不思議と頼りないと感じさせない当主の器の片鱗のようなものが確かにあった。
竹千代は準備を整えると、後見役である石川伯耆守・平岩七之助の両名を伴い、父・家康や母・築山殿、妹・亀姫をはじめ、その他の一門や重臣が控える広間へと赴いた。
静けさをたたえる岡崎城本丸大広間にて、静粛に松平竹千代の元服が執り行われていく。理髪の役が髪をひとつに結っていく。これまでは服装から髪型まで子供らしさが残されていたが、それらが一つ一つ大人のものへと置き換えられていく。
十五年前には自分が元服する側であった家康も、烏帽子親を務めてくれた今川義元も今の自分のような気持ちであったろうかと想いを馳せながら、嫡男・竹千代を見守る。
だが、家康が元服する折の烏帽子親であった今川義元は十年前に桶狭間にて討ち死にし、理髪の役を務めた吉良上野介義安も昨年のうちに亡くなっており、元服した駿府館は武田家に占領されているのだから、年月の経過というものは実に恐ろしいものであった。
家康は十五年前に今川義元にしてもらったように、そっと竹千代へ真新しい黒の烏帽子をかぶせる。
「松平竹千代」
「はいっ!」
「この場に臨席することは叶わずであったが、舅である織田弾正忠信長殿より『信』の一字を、加えて我が名乗りから『康』の一字を与えよう。以後は松平次郎三郎信康と名乗るがよい」
「ありがとう存じます!松平次郎三郎信康、以後も徳川家繁栄のため、死力を尽くして参る所存!」
この瞬間、松平竹千代は松平次郎三郎信康となった。幼き日を駿府にて過ごし、人質交換をしてまで取り戻した我が子が、今こうして元服の時を迎えたというのは、父としてこの上ない喜びであったことは言うまでもない。
「うむ。たしかに我らは父子なれど、元服したからには主従の間柄であることも弁えねばならぬ。このこと、理解してくれような」
「はいっ!」
実に心強い、元気な返事であった。己よりも二年早く元服を迎えた我が子。しかし、十五年前の自分よりも遥かに頼もしいと、心から思える返答であった。
「ふふふ」
「父上……いいえ、殿!何ぞおかしなことでもありましたでしょうか?」
「いや、なに。わしが元服したのは十四の頃で、婚儀も初陣もまだであった。されど、そなたは齢十二とわしより二歳も若くで元服したのに、すでに婚礼を済ませておる。それがおかしなものじゃと思ったまで」
「左様にございましたか。されど、初陣はまだにございますれば、明日にも初陣いたしたく存じます!」
「ははは、それはならぬ。そなたに戦場はまだ早い。まずはこれまで通り、しかと修練に励め。さすれば初陣を飾る時は訪れよう」
家康が初陣を果たしたのは齢十七であり、少し遅かった。さすがに信康の初陣も十七になるまで引き延ばすつもりはなかったが、それでも齢十二は早すぎる。あと三年もすれば初陣を飾るのにちょうどよい、というのが家康の偽らざる本心であった。
「竹千代。いえ、次郎三郎殿。まこと立派になられましたな」
「母上、そう泣くほどのことではありますまい」
「いいえ、いいえ。齢三十二ともなり、腹を痛めて産んだ我が子が元服したのです。これを涙を流さずにおれましょうか……」
駿府にて信康を産んだ折、生母・築山殿は齢二十一であった。それから十一年もの年月が過ぎ、早くも息子が元服を迎えたということは、母として大変喜ばしく、己の腹を痛めたという点では父親以上に感慨深いものがあったに違いない。
そんな母の隣では信康の妹・亀姫が不思議そうな顔で母と兄の顔を交互に見やっている。自分より一つ年下で、齢十一となった亀姫の頭を優しく撫で、信康は口元をほころばせる。
そこへ、信康の正室である五徳が静かにやってくると、両手を床について一礼し、その祝いを礼から表していた。
「次郎三郎さま。ご元服、祝着至極に存じまする」
「かたじけない。我が父と姫の父君から一字ずつ拝領し、信康となった。二人の名に恥じぬ武士であらねばならぬゆえ、姫も力添えのほど、よろしく頼む」
松平次郎三郎信康と五徳、十二歳同士の幼き夫婦は視線を交わすと、同時ににこりと微笑み、このめでたい日を二人だけの世界で祝っているかのようであった。
そうして松平次郎三郎信康の元服の儀が執り行われた後、宴へ移る前に家康は先んじて岡崎城へ誰を残すつもりであるのか、その人事を発表することとした。
「さっ、父上――いえ、殿。こちらへ」
「おお、すまぬな」
それまで主役であった信康が他の一門と同じく下座へ移り、上座を父であり主君である家康へ譲ったのである。この抜け目ない立ち回りに、家康は信康に乱世を生き延びるたくましさを感じながら、徳川家当主として上座へ。
胸を張り、当主らしい威厳を漂わせながら一門重臣を見下ろす様は圧巻であり、信康もそうでありたいと思えるほどであった。
「めでたく我が嫡男次郎三郎元服の儀を執り行うことができた。これに協力した者たちへ、この場を借りて礼を申す。さて、このまま宴と参りたいところじゃが、その前に浜松城へわしが移った後、岡崎にて誰が次郎三郎を補佐するのかを皆に伝えておきたい」
そう言い切ると、家康は懐に忍ばせていた一枚の和紙を広げ、その内容を読み上げていく。
「まずは後見役じゃが、これはこれまで通り、西三河衆の旗頭で家老でもある石川伯耆守数正、そして平岩七之助親吉の両名に申しつけることといたす」
名を呼ばれた石川伯耆守と平岩七之助は静かに一礼する。このことについて、今まで通りの人事であるため、誰一人として不満を申し立てる者はいなかった。
「続いて附家老じゃが、これにはまず、石川修理亮春重」
「ははっ、お任せくださいませ」
碧海郡小川城主を務める石川修理亮は石川伯耆守数正の曽祖父であり、石川日向守家成の祖父にあたる石川忠輔の従兄弟にあたる齢六十二の老臣。領内のことを差配するのにはうってつけの人材であった。
「続いて中根正照」
「はっ!」
中根正照は曽祖父・中根正行の代より松平清康・広忠に仕え、重用されてきた中根一族の出身であり、家康からの信任も厚い重臣であった。石川修理亮よりも若いこともあり、威勢よく返事をしてみせる。
「最後に鳥居九兵衛、以上三名とする」
最後に一人静かに一礼した鳥居九兵衛は鳥居伊賀守忠吉と同族であり、三河一向一揆の折には一揆方に与した小谷甚左衛門尉と山田八蔵の主君にあたる者。
この三名が岡崎城主となる松平次郎三郎信康附きの家老に任じられた。この役職に譜代家臣ではない者が付いたならば、たちまち重臣たちから反対する者が出ただろうが、三名とも譜代の家柄であったため、不服を申し立てる者は誰一人いなかった。
無論、このあたりの人材配置については家康も上洛している頃から構想していたものであり、岡崎を任せるのに足り、他の重臣から反対されないか、考え抜いた結果なのである。
「加えて奉行衆については次郎三郎の家臣から三名出すこととする。次郎三郎、申してみよ」
「はいっ!」
信康の元服後の初仕事ともなる奉行衆の発表。これも附家老と同じく三名とし、信康は胸を張り、これを発表したのである。
「まずは大岡弥四郎」
「はっ!」
譜代の家柄である大岡家の出身である大岡弥四郎を真っ先に指名したのは、彼が民政や算術に長けていることを信康が高く評価しているからでもあった。そして、附家老の一人・中根正照の娘を妻としている縁もあり、筆頭に据えられたのである。
「次に松平新右衛門」
「お任せくださいませ!」
「最後に江戸右衛門七直定!」
「しかと拝命いたしました」
「岡崎町奉行は以上の三名といたしまする」
しかと人事について頭を悩ませたことを平岩七之助から伝え聞いていた家康は、その人事に口出しすることはせず、大きく首を縦に振るのみであった。
「また、家老ら以外にも次郎三郎には我が家臣を附属させることとする。石川豊前守、長沢松平の一族である松平清蔵親宅、本多孫左衛門重富、榊原七郎右衛門清政、鳥居又右衛門尉重正、安藤次右衛門定次、最後に小姓として石川成綱、本多九蔵秀玄を附けることとした」
石川豊前守は附家老とされた石川修理亮春重の子。父子ともども信康の補佐にあたるよう家康に命じられたのである。
松平清蔵は七年前の永禄六年の頃から家康に仕えている者で齢三十七と若く、岡崎のことを差配する老臣たちとも円滑に話し合いができ、かつ信康にも年が近い松平一族ということで選出されたものであった。
本多孫左衛門は今年で齢五十二となる老臣で、家康の重臣・本多作左衛門重次の実兄にあたる。弟のように主君を諫言する人物ではないが、実直に政務をこなす仕事人であるところを買われ、附属することとなったのである。
榊原七郎右衛門は家康に近侍する榊原小平太康政の実兄である。しかし、病弱で戦場には出られないが、政務をこなすには十分な力量を持っていることから、信康に附属させることを家康は決断したのであった。
鳥居又右衛門尉は言うまでもなく鳥居一族であり、三河一向一揆の折には佐々木上宮寺へ立て籠もり、家康に帰参を許されたことに大きな恩義を感じている忠臣であった。年は信康より九ツ上の二十一歳であり、良き相談相手となることも期待されての人選であったのだ。
安藤次右衛門も鳥居又右衛門尉と同じく、三河一向一揆の折には一気に加わっていたが、戦後にその罪を許された者で、その恩義に報いるべく忠勤に励んでいるのを家康に高く評価され、信康へ附属されたのである。
石川成綱は信康の後見役である石川伯耆守の子。石川伯耆守の我が子を信康の側で近侍させたいとの願いを受けて、家康が小姓として選抜した者であった。
本多九蔵は家康の初陣となる三河寺部城攻めにおいて戦死した本多重玄の遺児であり、当時まだ幼かったため、伯父の本多作左衛門に扶育されていたのであった。附属された家臣の中では最も信康に年が近く、まさに小姓としてうってつけの人材。
かくして家康による追加の人事が発表され、そのことを受け止める一門重臣一同は何よりも居城が岡崎城ではなくなるのだということを、この人事によって突きつけられているようであった。
「次郎三郎」
「はいっ!」
「父は浜松城へ移ることとなるが、そなたには頼れる家臣が数多おる」
「しかと心得ております」
家康が考え抜いた人選に誤りなどない。そのことを信康は十二分に理解している。だが、声音には付きまとう不安を払拭できていないのがにじみ出てしまうが、こればかりは如何ともしがたかった。
「岡崎城にはそなたの祖母もおるし、血の繋がりこそないがそなたにとっては祖父母同然の久松佐渡守や田原御前もおる。何かあれば、遠慮なく相談すればよい。必ずや力となってくれようほどに」
家康は上座を降りて信康のもとへ歩み寄ると、そっと肩に手を置く。
『父は岡崎を離れるが、決して一人になるわけではないのだぞ』と懇ろに言い聞かせる家康は紛れもなく一人の父であった。
「父上、お気遣いいただきありがとうございます。されど、次郎三郎信康は元服いたしました。岡崎のこと、城主としてしかと守り抜きまするゆえ、父上は浜松城にあって某の活躍を見守ってくださいませ」
「うむ、そういたそう」
『過干渉になってはいけない』と察知した家康はそれ以上何も言わなかった。しかし、心配という形で現れた父の愛情を前に、信康は新たな岡崎城主として一層気を引き締めるのであった――




