第305話 盗人を見て縄を綯う
元亀元年七月五日に五千の兵を率いて京を出立した家康は十日以上の時を要し、三河国岡崎へと帰還。年が変わってから二度も上洛することは徳川家にとって初めての出来事であり、それは何より多大な出費を伴うものであった。
しかし、幕府を支える大名であることを天下に知らしめ、将軍・足利義昭を補佐する立場、実質的な管領ともいえる織田弾正忠信長をして、徳川なくして姉川での勝利はないと言わしめる戦をしてのけたことは、家康だけでなく従軍した家臣から一兵卒に至るまで誇らしいものがあった。
「おお、懐かしき岡崎城……」
先月下旬に出陣して近江へ向かって、およそ一ヵ月。それだけの時が経ったことに驚かされるが、家康や従軍した三河武士たちにとって岡崎城が見えたことは故郷まで生きて帰ってきたのだということを体感でもって理解させるに足るものであったのだ。
「殿」
「伯耆守か。そなたは戻りし後、すぐにも支度にかかるがよい」
「そういたしまする」
家康のすぐ傍まで駆け寄ったのは家老・石川伯耆守数正。彼には来月に控えた竹千代の元服の支度をするという何物にも代えがたい重大な責務があった。
「うむ。しかと頼むぞ、伯耆守」
「はっ!」
家康率いる軍勢が帰ってきたことを報せる鐘が岡崎城より鳴り響くと、城の内より少年が家臣一党を引き連れて城外へ進み出て、家康一行を出迎えたのである。
「父上!ご無事のお戻り、安堵いたしました!」
「おお、竹千代!わしが不在の間、領内は平穏であったか!」
「はいっ!」
「そうか」
家康を出迎えたのは齢十二の嫡男・竹千代。その後ろには後見役の平岩七之助親吉が控え、しかと彼が後見していたことをうかがわせる。
「姉川では朝倉を打ち破られたと耳にいたしましたが」
「うむ。存外越前衆も大した敵ではなかったわ」
「さすがは父上!」
息子のきらきらと光を帯びた眼を見ると、父として戦果をついつい盛って話をしてしまう家康。それを側で見ている石川伯耆守は笑いをこらえるのに必死であったが、そのことに竹千代は気づかず、父を純度の高い憧憬の視線で見つめ続けている。
そうして家康は父として竹千代に武勇伝を語り聞かせながら城の櫓を潜り抜け、岡崎城へと無事に入城を果たしたのである。
「父上、いよいよ某の元服をと!」
「うむ。ここにおる伯耆守へ仔細は伝えておるゆえ、そなたは五徳や於亀、母上とともに過ごしておるがよい。万事手抜かりなく伯耆守と七之助が支度しようほどに」
「はいっ!しかし、父上と離れ離れになるは寂しゅうございます」
「ははは、案ずるな。今生の別れとなるわけではない。わしはこの後も上洛することはあろう。その折には必ず岡崎には立ち寄るゆえ、その時は必ず会えよう」
父・家康の言葉がよほど響いたのか、竹千代は大きく首を縦に振った。そんな竹千代へ、土産話だとばかりに、織田家のことに将軍家のこと、実に様々なことを話していく。
「では父上は先のご上洛のみぎり、舅殿だけでなく、義兄殿たちにもお会いになられたと……!」
「うむ。奇妙丸殿も茶筅丸殿もさすがは織田弾正忠信長の子息であると思わされたものよ」
「それほどにございましたか」
「うむ。そなたよりも一ツ、二ツ上であるとはいえ、織田家の嫡流であるとの誇りを胸に生きておられる。竹千代、そなたも負けてはならぬぞ」
「はっ、はいっ!一層精進いたしまする!」
家康の脳裏に岐阜城にいた奇妙丸、二条御所で出会った茶筅丸。この両者それぞれに会って感じたことを嫡男・竹千代へ教えておくことで、一層武芸や学問の修練に励ませようというのであった。
自分と年の近い者が尊敬する父に絶賛されている。それを見て、「自分も精進せねば」と竹千代に思わせればしめたもの、というのが家康の目論見であった。
そして、その目論見通り、竹千代は一層剣術、弓術、馬術といった武術の鍛錬に学問の修養に励み、徳川家の嫡男として相応の成長を遂げていく。
わざわざ家康が竹千代へ信長の息子たちのことを伝えるのは、それによって竹千代が立派な徳川家当主となり、織田家からはもちろん、将軍家からも決して侮られないためであった。それこそが、家康が我が子に望む、ただ一つの願いであったのだ。
「竹千代が当主となれば織田家との結びつきはより強固なものとなろう。加えて、五徳姫との間に嫡男が生まれさえすれば、それは弾正忠殿とわしの孫ともなる。その子の代ともなれば、織田と徳川の同盟は揺るぎないものとなろう。その日まで、わしだけでなく竹千代にも踏ん張って貰わねばならぬのだ……!」
父・家康が何を願っているか、何を見据えているのか。そこまでは理解できないまでも、竹千代は父の望みに応えるべく、精進していくこととなる。
そうして家康が京から岡崎へ戻って数日後。岐阜城にて領国内の政務にあたりながら近江の浅井や六角、越前の朝倉の動きを神経を尖らせているところへ、甲尾同盟を締結している甲斐、信濃、西上野、駿河の四ヶ国にまたがる所領を有する武田信玄からの書状が届けられていた。
去比、以両使申候之処、預御芳情候不和攸謝候、就中越・甲令鉾楯者、無二可有御合力之旨候、頼存候、乗此御入魂、重而愚存之赴、以条目申候、御同心所希候、恐々謹言
七月十四日 信玄(花押)
謹上 弾正忠殿
信玄から届けられた書状を読み、使者から受け取った条目を読んだ信長はため息とともに書状を畳の上へ置いた。
この書状はすでに信長が信玄に宛てて出した書状に対しての返答であり、信玄へ送った書状の中で武田と上杉が戦となったならば間違いなく信玄へ味方すると記していたことに、信玄は素直に喜んでいるのが文面から伝わってくる書状であった。
だが、信玄が信長との連携を密にするべく使者へ託した条目の内容が厄介極まりなく、どちらかといえば、信長のため息はその条目のせいとも言える。
「あなた様、そのようにため息などつかれていかがなさいましたか」
「お濃か。信玄殿からの条目を読み、頭を抱えていたところよ」
意見を求めるに足る重臣がすぐ傍に控えていたならば、信長もその重臣に意見を求めたであろう。しかし、そうしたことのできる重臣は浅井や六角に対処すべく、近江の要所に配備しており、不可能であった。
そこで、信長は父親譲りの智謀を持つ正室・濃姫へ試みに意見を求めてみることとした。
一、越後の上杉弾正少弼輝虎が甲越和与を破棄したならば、上杉との同盟を破棄し、違背なく武田へ与することを示す起請文を交換すること
一、徳川三河守家康に北条左京大夫氏政との交わりを断つよう指導すること
一、もし徳川三河守家康が北条との交わりを断たなかった場合には、速やかに弾正忠殿には徳川との交わりを断つべきこと
一、両家の誼をより強固なものとするべく弾正忠殿の嫡男と信玄六女の縁組を行うが、両者ともに幼少のため、姫が輿入れするまでは起請文を交換し、それをもって婚約の成立とすること
おおよそ、以上の四カ条が記された信玄からの条目。これに目を通した濃姫は夫と同じく嘆息する。
「ここは最後の四カ条だけ前向きに検討するべきでありましょう。あとはもっともらしい理由をつけてのらりくらりと追及を避けるのがよろしいのではと」
「やはりそう思うか」
「はい。あなた様は将軍を補佐するお立場。それを武田に求められたからとて、将軍をお支えする意志のある徳川と上杉の両家と敵対することなどできますまい」
まさしく信長の言いたいことを濃姫はずばり言い当てていた。朝倉や浅井のように、上杉や徳川が将軍のために馳走することを拒んだならば、信長はこれ幸いとばかりに同盟を破棄することもあっただろうが、周囲の情勢を鑑みてもそれはあり得ない選択肢であった。
「されど、朝倉や浅井、六角が歯向かってくるうちは、我らは東国へ目を向けられぬ。そこで武田が動くようなことがあっては敵わぬ」
「それゆえ、畿内を平定なされるまで、武田と事を荒立てまいとするあなた様の方針でよろしいのではないかと思いまする」
「で、あるか。であるならば、武田へは上記三カ条については順次対応していくつもりであるとだけ伝え、四カ条目の奇妙丸と信玄殿の末娘である松姫との縁組には快諾する旨を記し、返書を出すとしようぞ」
濃姫と言葉を交わす中で、信長の中でも考えに整理がついたのか、信玄から送られてきた条目に眼を通した時に寄っていた眉間の皺が消え去り、すっかり平素の信長に戻っていた。
かくして、信玄からの書状を七月下旬に受け取った信長からの返書はただちに甲斐へ送られたのであったが、そこへ来て信長へさらなる困難が訪れる。
「申し上げます!」
濃姫の助言を受けて信玄への返書をしたため、これを使者に託したところで、黒母衣衆筆頭の佐々内蔵助成政が血相変えて飛び込んできたのである。
「内蔵助、いかがした!」
「はっ!京よりの報せにて、昨日二十一日、阿波の三好三人衆が摂津へ入ったとのこと!その数、およそ八千!」
「ちっ、おれが岐阜へ戻ったのを好機と見たか」
「おそらくそうではなかろうかと!三好三人衆は野田と福島に砦を構え、籠城の支度を始めたとのこと!」
七月七日に信長が岐阜城へ帰ったことが阿波にまで伝わったのであろう。それを受けて動いたのだとすれば整合性がある。
とはいえ、岐阜へ帰って半月ほどで畿内へ取って返さなければならないほど、畿内情勢が手が離せないものであった。
「すぐにも軍勢を編成して征伐したいところではあるが、一度軍勢を解散してしまってもおる。再び軍勢を編成し、兵糧や武器弾薬を整えるのに一月はかかろう」
「では、来月下旬に出陣をと!」
「うむ。岐阜を出陣するは来月二十日とし、まずは京へ。三好三人衆を成敗するにあたり、公方様にも動いていただくよう、細川与一郎殿に働きかけてもらうこととする」
「では、すぐにも使者を細川様へ立てまする!徳川様へは援軍の要請はなさらぬのでしょうか!」
「せぬ!三州殿もまだ岡崎へ帰り、数日と発っておらぬ。そこで再び出陣を命じては不憫というもの。何より、嫡男の元服を来月に控えてもおるゆえ、それを取りやめにもなりかねない畿内出陣を命じるわけにはいかぬ」
信長は家康をこれ以上畿内へ引っ張り出してこき使うような真似は避けたかった。ただでさえ、今年の春から二度にわたって上洛させ、二度目に至っては五千の軍勢を率いて戦までしているのである。
そこへ来て、再び摂津に出陣するよう要請などしたら、徳川の財政は火の車となる。さすれば、それは武田が遠州へ攻め入る好機ともなりかねない。それが分かっていて家康に要請ができるほど、信長は自己中心的ではなかった。
「六角や浅井、朝倉への備えを手薄にもできぬ。ここは大軍でもって一挙に三好三人衆を平らげる必要もある」
「では、いかがなされますか」
「うむ。河内国の畠山左衛門督秋高と三好左京大夫義継、大和国の松永弾正久秀を動員することとしよう。そこへ当家の軍勢を主軸とすれば二万を超える軍勢は集められよう」
信長の思考はよく回った。畿内でまったく味方がいないとあれば、徳川へ援軍要請するしかないのだが、摂津に隣接する河内国全土が味方であり、その東の大和国も将軍・足利義昭と信長に味方する勢力なのである。
将軍・足利義昭の命令であるとして河内・大和から軍勢を出させれば、徳川に動員をかける以上の人員は集結させられる。
二万も集められれば三好三人衆の軍勢の倍以上の数は集められる。ともすれば、いかに三好三人衆が野田・福島に砦を築いて籠城しようとも、瞬く間に砦を陥落させることもできる。
長期化させることなく、短期決戦で野田・福島の三好三人衆を駆逐すれば、越前の朝倉や近江の浅井や六角が蠢動する隙も与えずに済む。
「よしっ、まずは河内の畠山と三好、大和の松永へ早馬を出せっ!来月二十日に岐阜城を出陣するゆえ、軍勢を集めておくようにと!そして、公方様にも御自ら御出馬いただけるよう、要請するのだ!」
実に迅速な対応であった。すぐにも岐阜城から京や河内、大和へと早馬が出され、幕府軍として臨戦態勢が開始される。
だがしかし、この三好三人衆が摂津にて蜂起したことが合図であったかのように、各地で反信長を掲げる勢力の蜂起が相次ぎ、第一次となる信長包囲網が形成されていく事態にまで発展しようとは、この当時、誰が予想できたであろうか――




