第302話 越前に真柄直隆あり
「徳川の木っ端武者どもに用はない!死にたくなくば道を開けよ!」
そう吼えながらたった一人になってなお第九陣の突破を図る真柄十郎左衛門直隆。自分が一人でも多くの敵を引き付けることで味方の撤退を助けようという覚悟を帯びた眼差しに、さすがの三河武士も怯む。
中安定安や土屋甚七郎重信の戦死を受けて誰も槍を向けて行方を遮るばかりで仕留めに行こうとはしない中、先の遠江侵攻で降ったばかりの遠江国衆・匂坂氏の三兄弟が取り巻くように真柄十郎左衛門に群がった。
長槍を引っ提げて真正面に立ったのは匂坂式部、真柄十郎左衛門の右手には十文字の槍を構える匂坂六郎五郎吉政、匂坂六郎二郎が反対の左手へ回り込み、三対一で挑みかかった。
「ふんっ、三名まとめて相手してくれるわ!突いて来いっ!」
「式部、参る!」
真っ先に槍で真柄十郎左衛門を突かんとするのは長兄・匂坂式部。それに呼応して弟の匂坂六郎五郎吉政、匂坂五郎二郎が兄を援護するべく、時間差で槍を繰り出す。
一手を始末しようとすれば、残る二方向から槍が突き出される。兄弟息の合った連携に、さしもの真柄十郎左衛門も手間取った。
匂坂三兄弟も太郎太刀の間合いに近寄らず、遠巻きに槍を突きだすのみに留め、真柄十郎左衛門を疲弊させるのを狙っていた。だが、その程度の思惑を真柄十郎左衛門が見抜けないはずはなかった。
「てやあっ!」
突き出される槍を太郎太刀で払いのけ、また槍が繰り出されてはそれを薙ぎ払う。そんな戦い方を続けていた真柄十郎左衛門は突如、馬を駆けさせて三兄弟の長兄・匂坂式部に肉薄したのである。
「しまった!」
兄・式部の危機に弟たちが繰り出した槍は真柄十郎左衛門を捉えきれず、辛くも彼の愛馬である黒鹿毛の馬の臀部を突いたに過ぎなかった。
臀部を槍で突かれて嘶く馬の手綱を放さず、匂坂式部へ近寄った真柄十郎左衛門は太陽の光を受けてきらりと光る太郎太刀を頭上から振り下ろし、匂坂式部の頭部を兜ごと砕き、見るも無惨な死体へ変貌させる。
「おのれっ!兄上の仇!」
そう叫んで末弟の匂坂五郎二郎が真柄十郎左衛門へ仇討ちの想いを乗せた渾身の突きを見舞うが、それは真柄十郎左衛門が馬から飛び降りたことで虚しく空振りに終わる。
「くっ!このっ!」
逃がすまいと再び突き出した匂坂五郎二郎の槍は、真柄十郎左衛門に届く寸前のところで動きを止めた。
槍で突くのを躊躇したからでは、決してない。その槍の穂先は真柄十郎左衛門の巨人のような手で握り止められ、突くことも手元に引き戻すことも許されなかったのである。
「ぬおおおっ!」
左手で思い切り振り上げた七尺三寸の太郎太刀を真柄十郎左衛門は叩きつけるように匂坂五郎二郎へ振り下ろしたのである。
豪刀を振り下ろされた匂坂五郎二郎は声もなく真っ二つに割れ、音を立てて血がしぶく。だが、必殺ともいえる真柄十郎左衛門の一撃であったが、それは致命的な隙ともなった。
朝から戦い続けて疲労困憊の真柄十郎左衛門にじわりと背部から熱が広がっていく。
最後の力を振り絞って振り返りながら、ぎろりと眼球を最大限後ろへ向けると、三兄弟唯一の生き残り・匂坂六郎五郎吉政の姿を辛うじて捉えられた。
「ふっ、天晴……!」
力なく太郎太刀を手元から滑り落とした真柄十郎左衛門は己の最期を悟った。彼の本能がこの傷では助からないと警鐘を鳴らしていたのだ。
「見事なりっ!この首獲って手柄とせよ……!」
そこまで言い終えると、全身から力の抜けた真柄十郎左衛門は膝をつき、前のめりに倒れ込んだ。
そんな兄と弟を殺めた仇の首を、匂坂六郎五郎は涙ながらに髻掴んで高々と差し上げる。
「越前の猛将、真柄十郎左衛門直隆!遠州の匂坂三兄弟が討ち取った!」
匂坂六郎五郎の天に向かって発した叫びに、周辺の徳川の将兵が喊声を上げた。ここに、徳川の行く手を遮る朝倉の猛者は全滅したのである。
もはや恐れる者など何もないとばかりに、徳川勢は圧倒的な攻勢に転じ、瞬く間に全軍が姉川を押し渡り、朝倉勢を追い散らしていく。
家康の側に付き従う高力与左衛門清長や成瀬藤蔵正義・吉右衛門正一兄弟、鳥居彦右衛門尉元忠と三宅惣右衛門康貞の叔父甥、植村庄右衛門正勝に酒井重忠、榊原隼之助忠政、佐橋甚兵衛吉久、安藤彦兵衛直次、本多彦次郎康重、大久保新十郎忠泰、大久保喜六郎忠豊・助左衛門忠益兄弟、森川金右衛門氏俊、大河内善兵衛正綱といった者たちが譜代から新参に至るまで悉く手柄を上げていく。
徳川勢にとっては今こそ武功を挙げる好機であるのに対し、朝倉勢にとっては悲惨な退却戦となった。
「左様か。十郎左衛門殿まで討ち取られたか」
「はっ!もはやこれまでであるかと!」
「それもそうじゃ。元よりこれは浅井と織田の戦、ここで貴重な兵を失うわけには参らぬ。全軍速やかに越前へ帰還せよ!」
総大将・朝倉孫三郎景健は続々と届けられる味方の討ち死にの報せに肩を落とし、総崩れしつつある味方を眺め、撤退を決めた。
ここまで劣勢となっては、もはや彼の力量では如何ともしがたかった。否、当主である朝倉左衛門督義景がたとえ参陣していようとも、収拾がつかないほどの負け戦であった。
総大将を任された朝倉孫三郎は真っ先に戦線を離脱すると、それを伝え聞いた朝倉兵も思い思いに逃げ始め、集団で抵抗することすら諦める有様であった。
「うぬっ!何をするかっ!」
珍しく手向かってきた朝倉兵が決死に繰り出した槍を掴んだ大久保常源の子・権十郎忠直。齢十九となり、ようやく迎えた初陣と意気込む彼は力任せに朝倉兵と揉み合っていた。
「はあっ!」
そうして掴んだ朝倉兵の槍を奪い取ると、その槍でもって朝倉兵を素早く突き伏せたのである。このことを伝え聞いた家康より、大久保権十郎は荒之助の名乗りと金の団扇を与えられることとなる。
一方、別の地点では阿部四郎兵衛忠政が逃げる朝倉兵を得意の弓で狩りでもするかのように一人、また一人と仕留めていた。
「さすがは四郎兵衛殿。相変わらずの腕前ですな」
「おお、誰かと思えばそなたであったか。なに、そなたの父、甚一郎に比べればまだまだよ」
阿部四郎兵衛を呼び止めたのは内藤甚一郎正成の子で齢十八となる若武者・内藤正貞であった。彼の父・内藤甚一郎もまた弓の名手として知られ、三河一向一揆では一揆方に与した舅・石川知綱の両膝を射抜き、渡辺半蔵守綱の父・渡辺高綱を射抜く大功を立てている。
そんな弓の名手の長男である内藤正貞は姉川での合戦序盤、味方が後退する中、命令を無視して落とした槍を拾うために敵中にとって返して収拾してから帰陣したことから、家康にその蛮勇を咎められて蟄居を命じられたほどに血の気の多い無鉄砲な若武者であった。
「殿から蟄居を命じられたと聞いたが」
「ははは、それは戦後の話。まだここは敵地にございますれば、三河へ戻った暁にはお許しいただけるまで蟄居するつもりでおります」
「左様か。ならば、共に参るか。そなたほどの剛の者がおれば拙者も心強い」
「四郎兵衛殿からのお誘いとあらば、断る謂れが見つかりませぬ!ぜひ!」
親子ほど年の離れた阿部四郎兵衛と内藤正貞はそれぞれ愛用の弓と槍を手にして朝倉勢を猛追していく。
そのさらに前の方では真柄十郎左衛門に蹂躙を許したことを恥とする幡豆小笠原家の小笠原左衛門佐広重が汚名返上すべく、自ら槍を手に取り、戦場を駆けまわっていた。
「むっ、そこの者!その鎧兜を見るに、名うての強者とお見受けいたす!」
小笠原左衛門佐に呼びかけられた二名の武士は足を止めて振り返ると、それぞれ谷熊助、谷鹿助と名乗った。
「ははは、熊と鹿か!いっそ馬と鹿であったならばからかいようがあったものを!まあ良い、大人しく某にその首渡されよ!」
小笠原左衛門佐は谷熊助・鹿助と名乗った朝倉方の武士に名乗りかけると、馬上から槍を突きだす。小笠原左衛門佐も腕に覚えがあったが、息の合った連携を見せる谷熊助・鹿助を前に、苦戦を強いられる。
「ちっ、面倒な!」
敵を侮っていた小笠原左衛門佐であったが、それを主君の危機と見て取った幡豆小笠原の家臣たちが乱入し、谷熊助と谷鹿助を取り巻き、手傷を負わせて弱らせる。
「さあ、殿!いざ、とどめを!」
「でかした!」
小笠原左衛門佐はこれ以上手間取るわけにもいかないと、家臣たちの助太刀で弱らせた谷熊助・鹿助の両名を仕留め、武功としたのであった。
そうして逃げる朝倉兵を徳川兵が仕留めるという構図で戦いは続き、家康の家臣となっている水野一族の二人もしっかり手柄を立てていた。
「太郎作、どうじゃ!」
「おお、惣兵衛殿!ご覧くだされ!すでに兜首を二ツも獲りましたぞ!」
「それは上々!某も同じく二ツ兜首を挙げた!殿からの感状が楽しみじゃ!」
齢三十となる家康の叔父・水野惣兵衛忠重は腰に兜首をぶら下げ、先を行く四歳年下の同族・水野太郎作正重のもとへ駆け寄る。
二人とも己の手柄を見せ合うと、まだまだ手柄を立てられそうな情勢であったことから、協力して手柄をあげるべく追い討ちしていく。
大勢が決したことを最後尾に控える家康は味方がそのまま北近江を通り過ぎて越前まで追い討ちしていきそうなのを視認すると、すぐに前線へ早馬を飛ばし、『陣形をこれ以上南北に伸ばして刃ならぬ。追い討ちはこれまでとし、浅井勢の側面を衝くべし』と指示を出していた。
「殿、見事な勝ち戦にございます」
「うむ。新八郎も首級二つを得たか」
「はいっ!真柄十郎左衛門とともに突撃してきた敵兵のうち二名を討ちましてございます!」
齢二十二ともなる大久保新八郎康忠は誇らしげにするのを家康は優しさを帯びた眼を向けるが、それをすぐ傍で鼻で笑った者があった。
「なんじゃ、藤蔵!新参者の癖に!」
「いえ、たかが首級二つを得た程度で誇らしげにしておるのがおかしく」
「ほざいたなっ!」
「某はすでに六つの首級を得ておりますれば」
二歳年下の菅沼藤蔵定政の挑発めいた言葉の数々に大久保新八郎は刀に手をかけるが、雷のような怒号が睨み合う両者の喧嘩を中断させた。そう、彼らの主君・家康の一声である。
「このたわけがっ!わしの面前で喧嘩などもってのほかじゃ!」
「「も、申し訳ございませぬ!」」
先ほどまでいがみ合っていた大久保新八郎と菅沼藤蔵であったが、謝罪する声は息がぴたりと合っていた。しばらく家康は彼らを睨みつけていたが、まことに反省している様子であると見抜くと、それ以上叱りつけることはしなかった。
しかし、そんな家康の視界の内に見慣れない将兵が一人紛れていることに気づいた。
そして、次の瞬間には大久保新八郎と同い年で二年前に徳川家へ仕官したばかりの加藤喜助正次が話しかけていく。
「暑いでかんわ」
「おお、こうも暑くとかなわんのぉ」
加藤喜助が話しかけられ、それに話しかけられた将兵が返答するや、すぐ近くにいた天野三郎兵衛康景が背後から斬りつけ、一拍遅れて加藤喜助がその将兵に前から一太刀浴びせたのである。
その場にいた誰もがひやりとしたやり取りであったが、斬られた将兵だけは何が起こったのか、理解できない様子であったが、理解する時も与えられず、そのまま斬り捨てられる。
「両名とも見事であった」
「はっ!越前訛りにございましたゆえ、成敗いたしました」
「ははは、喜助。そなたも尾張訛りゆえ、織田と戦をしておる頃であれば、斬られておったのはそなたであったぞ」
「ご、ご冗談を……」
元々織田家に仕官していた新参者・加藤喜助は挙動不審な将兵に対し、尾張の訛りで話しかけた。
これに、三河の訛りで応えていたならば、天野三郎兵衛が斬りつけることもなかったのだが、よりにもよって越前の訛りで応じてしまったため、このような事態となったのである。
「殿の命を狙う朝倉の手の者でしょうか」
「そうではなかろう。まことに刺客であれば、このようなぼろは出さぬ」
「仰る通りにございますな。されば、朝倉の者が他にも混じっておるやもしれませぬ。くれぐれもお気を付けくださいませ」
「そういたそう」
おそらくは逃げ惑う中で徳川勢に紛れた方が殺されずに済むと思いついたのであろうが、そのように考える者は他にも多くいるであろうから、家康としても用心する必要があった。
「ともあれ、朝倉との勝敗は決した!これより、浅井勢の退路を断ち、弾正忠殿を援護する!」
朝倉勢に勝利を収めた徳川勢は陣形を組みなおすとともに、ただちに盟友・織田家を援護するべく、浅井勢との戦に向けて動き出すのであった――




