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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第299話 姉川の戦い、開戦!

 元亀元年六月二十八日、卯の刻。朝霧に包まれる姉川を鬨の声と銃声が静寂を破り、浅井・朝倉連合軍が対岸の織田・徳川連合軍へ戦を仕掛けたのである。


「皆の者!織田弾正忠信長を討つは今ぞ!突き進めっ!」


 初陣の野良田の戦いで六角軍を破ってより十年。北近江にて浅井家の全盛期と言える勢力を築いた齢二十六の浅井家当主・浅井備前守長政の号令一下、五千もの浅井勢は咆哮とともに我に倍する織田勢一万へと襲い掛かる。


「佐和山城主、磯野丹波守員昌!推して参る!」


 浅井勢の第一陣、磯野隊による猛攻を受け止めたのは織田軍の先鋒を担う坂井右近将監政尚であった。


「ええい!怯むなっ!鉄砲隊放てっ!」


 織田勢から硝煙の香りと轟音とともに放たれた鉛玉は突っ込んでくる浅井勢の先頭をばたばたと打ち倒すも、それを乗り越えてくる浅井勢の進軍を止めるには至らない。


 猛将・磯野丹波守の死をも恐れぬ突撃に感化された浅井勢を受け止めるべく、坂井右近将監は槍隊を前面に押し出して白兵戦へ切り替えるも、坂井右近将監の嫡男・久蔵尚恒が戦死したこともあり、一気に劣勢となり、織田軍の先鋒がにわかに崩れ出す。


「今ぞ!蹴散らせっ!」


「第二陣も磯野隊に続けっ!信長の首はすぐそこぞ!」


 馬上から槍を振るい、突破口を切り拓く磯野丹波守の咆哮に浅井兵は奮い立つ。それに続けと第二陣に控えていた浅井家の一門にして宿老でもある浅井玄蕃允政澄が突撃を命じ、崩れ立つ坂井隊の隙間に自軍をねじ込み、強行突破を図る。


「森三左衛門、見参!これ以上、浅井の者共を殿に近づけさせるなっ!」


「柴田権六も加勢いたす!者ども、怯むでないっ!」


 織田軍でも歴戦の強者である森三左衛門可成、柴田権六勝家の両名が崩された坂井隊を援護する形で浅井勢の第一陣と衝突し、一進一退の攻防が繰り広げられる。


 そんな織田軍劣勢を次々に告げる早馬は漏れなく本陣へと注進されていた。


「ええい!右近将監は何をしておるか!」


「ご嫡男久蔵さまが討たれ、ご自身も負傷して軍勢の采配にも支障をきたしておりまする!」


「ちっ!」


 開戦早々劣勢に立たされた信長は大きな舌打ちを漏らした。家康がいたならば「らしくない」と再びたしなめられるであろう信長の姿を見て、木下藤吉郎秀吉が御前へ進み出る。


「三左衛門殿が懸命に防ぎ止めておられまするが、柴田隊、池田隊も収拾がつかず、崩れ立っております。おいらも前線にて采配いたしまする」


「よし、いけっ!」


 強行突破を図ってくる磯野丹波守のような武将は木下藤吉郎との相性は決して良くなかったが、木下隊も前線に押し出さねばならぬほどに浅井勢の猛攻はすさまじく、すでに第二陣が突破され、第三陣とぶつかっていた。


 そんな思いがけない織田軍劣勢に、側で見ていた蒲生忠三郎賦秀が信長の前へ進み出る。


「ここは三河守殿へお預けになられた右京亮殿の隊を御戻しになられては」


「ならぬ。まだ早い」


「ま、まだ早いと!?」


「三州殿と朝倉は今しがた開戦したばかり。そんな折から稲葉右京亮の部隊を戻してみよ。我らが浅井に苦戦しておることが徳川、朝倉の将兵の士気にどのように作用すると思うか」


「朝倉は奮い立ち、徳川勢の士気は下がりましょう」


 察しの良い蒲生忠三郎の返答に信長は満足げに頷く。だがしかし、信長とて織田家内の家督争いから桶狭間合戦、美濃をめぐって美濃一色氏と死闘を繰り広げてきた歴戦の強者である。無策でいるはずもなかった。


「横山城を包囲しておる氏家ト全、安藤伊賀守の両名にはただちにこちらへ合流し、敵側面を衝くよう早馬を飛ばせ」


 ここには参陣させず、五千の兵で包囲させている横山城。その中でも精鋭と名高い氏家ト全、安藤伊賀守の西美濃衆を呼び戻し、浅井勢の側面を衝くよう早馬を飛ばしたのである。


 兵数は半分以下の浅井勢相手にこの手を使わされることになるとは信長としても考えたくはなかったが、己が妹を嫁がせてでも同盟を維持したいと思った若き浅井家当主の力量を敵として相まみえて再認識させられていた。


 そんな織田軍苦戦の報せは一千もの兵とともに徳川の援軍に派遣されている稲葉右京亮良通へも届けられた。


「なにっ!お味方苦戦とな!」


「はっ!すでに第二陣が突破され、第三陣もまもなく突破されるかに思われます!」


「左様か。して、殿はなんと?」


「徳川勢から離れるな。本陣より狼煙が上がったならば、矛先を転じて浅井勢の側面を衝けと」


「承知いたした!されど、徳川勢が朝倉勢に敗れたならば、それどころではないが……?」


 伝令兵に聞こえるか聞こえないかの声量でぽつりとつぶやく稲葉右京亮。齢五十六となった千軍万馬の古強者の瞳は、槍衾を作って川を静かに押し渡ってくる朝倉勢を前に微動だにしない徳川勢へと向けられていた。


 そんな稲葉右京亮の視線の先で越前朝倉勢八千と対峙する徳川勢五千は敵が川の半ばを過ぎてなお、前進に気づいていないかの如く、静寂を維持していた。


「殿」


「左衛門尉か」


 朝の河原で敵の前進を疼く血潮を押し留めながら見守る家康のもとへ、家老・酒井左衛門尉忠次が歩み寄る。


「敵先鋒は黒鹿毛の馬に七尺はある身の丈に黒糸縅の鎧、そして七尺三寸の太郎太刀。越前にその人ありと謳われた真柄十郎左衛門直隆に間違いございませぬ」


「あれが真柄十郎左衛門か。なるほど、噂に違わぬ武者ぶりじゃ」


「敵は数を頼みに押し切るつもりにございましょう。それに我らを国衆上がりの軍勢、なおかつ少数であると侮っておりましょうゆえ、その油断を衝くべきであるかと」


「わしも左衛門尉と同意見じゃ。おそらく、朝倉家中随一の猛将真柄を先陣に押し出してそれに続けば、いとも容易く打ち破れると高を括っておろう」


 家康の見たところ、朝倉軍は油断している。所詮は三河の国衆上がり、軍勢も三河・遠江の寄せ集め集団である、と。


「左衛門尉、第一陣は任せた。真柄を自由にさせてはならぬ。それを心に留めておけ」


「承知!」


 家康が最も信頼厚い家老にして叔父の酒井左衛門尉に第一陣を委ね、その信頼に応えるべく、酒井左衛門尉は胸を張って前線へ舞い戻っていく。


 この第一陣には長沢松平家当主であり酒井左衛門尉を継父とする松平源七郎康忠、松平玄蕃允清宗率いる竹谷松平勢、豊川三人衆の一人にして酒井左衛門尉の妹婿・西郷孫九郎清員、同じく豊川三人衆の一人・設楽越中守貞通、山家三方衆の一角である作手の奥平美作守定能、伊奈城主・本多隼人佑忠次といった東三河衆。


 第二陣には高天神城主の小笠原与八郎氏助。そこから鵜殿新七郎氏長率いる二俣衆、近藤登助秀用率いる井伊谷衆といった遠州勢。それを督戦する家老・石川日向守家成率いる懸川在番衆と、臨時で石川日向守の指揮下に入った松平源次郎真乗率いる大給松平勢。


 その後ろには三河一向一揆では家康に反旗を翻し帰参を許された小笠原左衛門佐広重、懸川開城後に父・小笠原摂津守安元から家督を譲られた小笠原新九郎安次がそれぞれ率いる西三河の幡豆小笠原勢が続く。


 さらには松平与一郎忠正率いる桜井松平勢、松平甚太郎家忠率いる東条松平勢、松平主殿助伊忠率いる深溝松平勢、松平弥九郎景忠率いる五井松平勢といった松平庶家の軍勢が陣を押し並べ、西三河衆の旗頭である家老・石川伯耆守数正が陣取っていた。


 そうして布陣した最後尾に家康が旗本衆とともに布陣し、戦況を見守っていた。


 家康がじっと戦況を見守る中、ついに朝倉勢が先に仕掛けてきたことで、徳川勢と朝倉勢の合戦も火ぶたが切られた。


「この戦、徳川の名を天下に知らしめる戦であるぞ!怯むなっ、かかれっ!」


 金溜塗具足で身を固めた家康の督戦のもと、酒井左衛門尉率いる東三河衆が朝倉勢の第一陣・真柄十郎左衛門とぶつかった。


「敵に真柄十郎左衛門がおろうとも、恐れるに足らず!」


 そう意気込んで陣頭指揮を執る酒井左衛門尉であったが、真柄十郎左衛門は無人の草原を疾駆するが如く、徳川兵を自慢の大太刀で斬り伏せ、彼の周囲だけ血の池地獄のような様相を呈していた。


 それを見た徳川兵はへっぴり腰で槍を向けて威嚇するだけで仕掛けようとせず、真柄十郎左衛門に蹂躙されていく。


「左衛門尉殿!これはいかなることにござるか!」


「四郎左衛門か!」


 酒井左衛門尉のもとへ切歯扼腕して駆け寄ったのは軍監として第一陣に派遣されている鳥居彦右衛門尉元忠の弟・四郎左衛門忠広であった。彼もまた豪勇で名の知れた猛者であるだけに、不甲斐ない味方の合戦ぶりに腹を立てているらしかった。


「まったく不甲斐ない味方ばかりじゃ!越前の朝倉相手にこのザマでは武田になど、歯が立つまい!」


「ちっ、それを申すな!今、策を考えておるところじゃ」


「策じゃと!ははは、小賢しい策では真柄の足止めにもなるまい!ここは某が一騎打ちにて仕留めてくれるわ!」


「たわけたことを!そなたは軍監の立場であろう!その任を放棄して前線にて敵将と一騎打ちをしてよい立場ではない!」


 戦場ということもあり、頭に血が上っている酒井左衛門尉と鳥居四郎左衛門はたちまち喧嘩腰となる。それを周囲の者たちが仲裁している間にも真柄十郎左衛門は自慢の大太刀を振るって味方を蹴散らしていくのである。


「我こそは真柄十郎左衛門直隆!徳川には木っ端武者しかおらぬと見受けたり!徳川三河守家康殿に見参!」


 黒鹿毛の馬上から名乗りかけ、徳川兵を追い立てて暴れ回る真柄十郎左衛門は脆すぎる徳川勢を鼻で笑い、家康のいる本陣を睨みつける。一瞬、バチッと真柄十郎左衛門と目が合った気がした家康はゾッとして傍らに近侍する本多平八郎忠勝へと話しかけようとする。


「のう、平八郎。そなたならば真柄の腕前をどう見るぞ――」


 しかし、家康が本多平八郎のいる方へ声をかけたところに、どういうわけか、本多平八郎はいなかった。そこへ、近侍する菅沼藤蔵定政が事情を説明すべく、開口する。


「殿」


「おお、藤蔵か。平八郎は何処へ向かったか」


「はっ、お味方苦戦と見るや、自慢の長槍を片手に本陣を飛び出していきました」


 戦場など似合わぬ弱冠二十歳の美青年・菅沼藤蔵の言葉に家康は「さては」と思い、背伸びして前線へと視線を移す。そして、そこには案の定とでも言うべき光景が広がっていた。


「本多平八郎忠勝、真柄十郎左衛門直隆殿に見参!槍合わせ願おう!」


「おう!三河の小僧!そこらのへっぴり腰の奴らと比べて随分威勢が良いではないか!だが、貴様のような小僧なぞ、拙者の太郎太刀で両断されてしまいじゃ!どけっ!」


「どかぬっ!殿のもとへ行きたくば、この本多平八郎を倒してから行け!この老いぼれめっ!」


 齢二十三の本多平八郎に老いぼれ呼ばわりされた齢三十五の真柄十郎左衛門は憤怒した。その憤怒とともに槍合わせを受けると、真柄十郎左衛門は自慢の七尺三寸の太郎太刀を構え、本多平八郎もぴたりと槍を付け、眦をあげて真柄十郎左衛門を睨みつける。


「くたばれっ!」


 一瞬の静寂の後、水飛沫を挙げて馬を寄せ、振りかぶった太郎太刀を豪快に振り下ろす真柄十郎左衛門の一撃。


 これをすんでのところで本多平八郎は回避するも、川の水を切り裂き地面へ叩きつけられるかというところで寸止めされた一撃であったが、その一撃が切り裂いた空気が本多平八郎の体を撫でる。


 ――今のは危うかった!


 本多平八郎をして今の一撃は受けられぬと悟って回避したのだが、まともに受けていたならば今頃本多平八郎は頭頂部から股下まで真っ二つに切り裂かれていたことは間違いなかった。


「やあっ!」


 やられてばかりではならぬ、と本多平八郎が渾身の突きを見舞うも、真柄十郎左衛門は器用に馬上で上半身を捻って避けて見せる。


 そして、馬上で姿勢を崩したままとは思えぬ破壊力を秘めた一撃が川の水を切り裂きながら本多平八郎を強襲する。


「ちっ!」


「ほう、これをかわすか!やるではないか三河の小僧!」


「なんのこれしき!」


 本多平八郎は大いに昂っていた。紛れもなく目の前の男は越前でも名の知れた豪傑。それも三河や遠江では未だかつて出会ったことがないほどの。


 久方ぶりに全力でぶつかっていける相手と戦場で巡り合った幸運に感謝しながら本多平八郎は持てる技のすべてを放出して真柄十郎左衛門へ挑戦していく。


 だが、初めは若者の挑戦を受ける強者の立場であった真柄十郎左衛門であったが、戦いの中で巧みに技を吸収して成長していく本多平八郎の攻撃を受け、次第に防戦一方となり、攻守が逆転し、いつしか手傷を負わされていた。


 そんな折、本陣の家康が号令する。


 ――平八郎を討たせるな、と。

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