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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第290話 流れを汲みて源を知る

 永禄十三年四月十一日。春日山城へ帰還する途次に立ち寄った上野国沼田にて、軍神と呼ばれ、畏怖される上杉弾正少弼輝虎。永禄四年に小田原城を包囲した折には三十二歳だった彼も、今では齢四十一となっていた。


 離反した佐野昌綱の籠もる下野国唐沢山城を攻め落とせずの撤退とはなったが、輝虎としては関東以上に越中のことが気がかりであり、すでにその目は越中へ向けられていた。


「御屋形様、小田原より北条三郎殿がお越しです」


「そうか、参ったか」


 輝虎は直前まで奏でていた琵琶を近侍へ託すと、衣服を正して威風堂々と北条三郎を出迎えた。


「お初にお目にかかります。北条三郎にございます」


「おお、そなたが相模守殿の六男、三郎であるか。うむ、噂に聞いてはおったが、その通りの眉目秀麗な出で立ちよ」


 数多の戦場を往来した六尺近い偉丈夫・輝虎から見れば、北条三郎などひ弱にしか見えない体格であったが、まるで女子のように整った顔立ちの美しさには目を見張るものがあった。


「弾正少弼様、此度は父からの無理難題をお聞き届けくださり、まことありがとう存じます」


「構わぬ。当家との盟約をより強固なものとしたいとのお考えからであること、この輝虎も理解しておる」


 長らく北条家と争ってきた輝虎であったが、今では北条への敵意というものはそこまでない様子であった。もちろん、そのことは北条三郎も直に会って確かめることができ、安心することができた。


「して、三郎よ。そなたは我が養子となるが、共に越後へ参る覚悟を聞こう」


「覚悟にございますか」


 ――よもや、養子として越後に向かうにあたり、覚悟のほどを問われようとは。


 想定だにしていない質問に北条三郎は焦るも、とにかく自分らしく正直に答えようと心に決め、輝虎からの問いに返答していく。


「某にはもはや帰る家はございませぬ」


「ほう、帰る家がないと?」


「はい。養子に出されるにあたり、妻とは離縁し、所領も別の者に与えられました。もはや某には帰るべき家族も、帰るべき所領も失いました。かくなるうえは身一つ、裸一貫で上杉家の御為、弾正少弼様の養子として恥じぬ働きをし、己の手で帰る場所を作る。それが某の覚悟にございます。お気に召したなら、このまま越後へお連れくださいませ。お気に召されませんでしたら、このまま捨て置いていただいて結構にございます」


 北条三郎の言葉に嘘偽りはなく、すべて本心から出た真の言葉であった。それを見切ったのか、北条三郎が言い終えるなり、輝虎は右の口角を上げて笑った。


「はっはっはっ、その意気やよし!三郎、そなたのことは気に入ったぞ!」


「ま、真ですか!?」


「うむ。初めは乱世で朽ち果てるだけの弱き者だと思っておった。しかし、そなたは違ったのだな。この争いに満ちた世界を生き延びんとする覇気を内に秘めておる。これならば我が養子として申し分なし!さあ、ともに春日山へ凱旋しようぞ!ついて参れ!」


「はっ、はい!養父上《ちちうえ》!」


 陣を払い、越後への帰路につく養父・上杉弾正少弼輝虎に後れてはならぬと後に続く北条三郎は、この養父に認められたことがなぜだかとても誇らしかった。


「そうじゃ、三郎。年はいくつになるか」


「はっ、今年で十七となりましてございます!」


「十七か。我が姪とも年も近く、話が合うやもしれぬな」


「養父上《ちちうえ》の姪君にございますか?」


「うむ。於清と申してな、我が姉の綾が長尾政景との間にもうけた長女じゃ」


「なるほど」


「その於清を三郎、そなたに娶わせる。帰ったらすぐにも祝言じゃ」


 さすがの北条三郎も驚かされた。上杉弾正少弼輝虎の養子となることは聞いていたが、よもや輝虎の姪を妻として迎えることになるとは。


「それとな、我には他にも養子がおる。長尾喜平次顕景と申してな、そなたに娶わせる於清の弟じゃ。今年で十六歳となったゆえ、そなたの義弟ともなる者。仲良くしてくれればよい」


「喜平次殿にございますか。どのような御方にございましょうか。今からお会いするのが楽しみになって参りました!」


 輝虎からの言葉に一喜一憂する可愛げのある北条三郎は輝虎から大いに気に入られることとなり、十四日後の二十五日には春日山城にて謙信の姪である於清との祝言が行われ、正式に謙信の養子となった。


 それだけでなく、輝虎からは彼の初名でもあった思い出深い「景虎」の名を与えられ、北条三郎は以後、上杉景虎を名乗ることとなる。さらに、この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。


 このあまりな気に入られようが影響したのか、三ヵ月後の七月に輝虎は将軍・足利義昭と織田信長を介して成立した武田信玄との甲越和与を破棄し、再び武田家との戦いに身を投じていくこととなるのである。


 これは北条氏康が望んでいた通りの結果であったが、そこには北条三郎改め、上杉景虎が輝虎からの信頼を勝ち取ったからこその外交成果なのであった。


 そうして北条家から上杉家へ養子に出されたとの一連の動きは四月中旬には甲府の武田信玄のもとへ伝わっていた。


「ほう、相模守の六男が長尾弾正少弼の養子とされたか」


「はっ、上野に潜入している歩き巫女たちが集めた情報にございますれば」


「にしても、北条もいよいよ必死のようじゃな」


「いかにも。父上に駿東郡を除く駿河国の大半を奪われ、焦っておるのでございましょう。そこまでして上杉を参戦させねばならぬほど、今の北条は弱っておると自ら申しているようなもの」


「その通りじゃ、四郎。よくぞそこまで見破った」


 上野の歩き巫女たちからもたらされた情報から北条相模守氏康の六男・三郎が上杉弾正少弼輝虎へ養子に出されたことを知った諏訪四郎勝頼は父・信玄にその情報を報告していたのである。


 そして、勝頼が看破したように、上杉にすり寄るかのような態度を取る北条の外交姿勢は到底単独では武田に抗えないと自白したといっても良かった。そのことは父・信玄としても同じ感想であり、もはや北条など敵に非ずと言わんばかりの余裕を見せていた。


「父上、この分ならば駿河に留まらず、伊豆や相模へ侵攻する時ではございませぬか?今の我が軍ならば、北条など敵に非ず!」


「それはならぬ」


「何故にございますか!」


「我らが狙うはあくまでも駿河。そのことを忘れてはならぬ」


 どうして駿河を奪った勢いで伊豆や相模を狙わないのか。父・信玄の狙いがいまいち読み切れない勝頼は、実に歯がゆい思いであった。


「父上、何故伊豆や相模を狙われぬのですか」


「下手に伊豆や相模の地を奪っては、北条との戦は果てしなく続くであろう」


「今とて終わる気配は見えませぬが……」


「見方が甘いな、四郎。この戦は北条が駿河を取るか、当家が駿河を取るかの戦いなのじゃ。すなわち、このまま我らが駿河を取れば、北条との戦は終わる」


「そ、それは何故に?」


「大義がないからじゃ。北条は今川氏真を駿河に戻すため、戦を続けておる。されど、駿河全土が当家領となればその大義は潰え、当家と戦う必要はなくなる」


 信玄の言うことは分かるような分からぬような、少し難しい戦場での駆け引きのようなものがたしかにあった。そのことが完全に掴み切れていない勝頼はきょとんとした顔のままである。


「小田原侵攻の折を思い返してどうであったか」


「主力が駿河にいることもあり、存外容易く小田原までたどり着けたとは思いましたが」


「それもある。じゃが、今ではその主力が配備されており、同じことは二度とできぬ。されど、儂が申したいことは他にもある」


 父が言いたいことの一部は言い当てられたものの、他にもあるという父の申したいことを勝頼は必死で考えるも、その答えには辿り着けそうもなかった。


「将兵の目じゃ」


「将兵の目……にございまするか」


「うむ。駿河に配備されている北条軍と、先の小田原侵攻で戦った武蔵や相模に配備された北条軍とでは目が違ったであろう」


「言われてみれば、目が血走っておりました。ここは何が何でも死守すると言わんばかりに。三ヵ月前に攻めた花沢城を守る兵士らも同じく血走った眼をしておりましたな」


「その通りじゃ。駿河は北条の兵士らにとって死に物狂いで戦ってまで守りたい地ではない。だが、相模や伊豆となれば話は別じゃ。命に代えても守って見せると決死の抵抗をしてくるに違いない。仮にその地を奪えたとしても被害は甚大であろうし、北条軍も奪還するべく何度も攻め込んでくるであろう」


「なるほど、それゆえに父上は果てしなく続くと……!」


「北条にとっての伊豆や相模は、儂にとっての甲斐に同じ。儂とて甲斐が北条に侵されれば、叩きだすまで何度でも合戦を仕掛ける。そうなれば戦は終わらぬ」


 勝頼は己の読みの浅さに嫌気がさした。父の言うことはまさしく真理。


 別に父は北条を滅ぼしたくて戦っているわけではないのだ。駿河を手に入れるべく今川へ戦を仕掛けたら、援軍として北条が参戦してしまい、それを駿河から叩き出すために今も戦い続けているのだ。


 すなわち、北条軍を駿河から全軍撤退させられればそれでよい、という考えなのであり、駿河を領有したいという想いは開戦当初から微塵も揺らいでいないのである。


「ならば、父上のお考えとして、駿河全土を領有した暁には北条と和することも視野に入れておられると?」


 勝頼からの問いかけに信玄は大きく頷いた。そう、すべては駿河を領有するための戦。ここで伊豆や相模を攻め取ってしまっては、それが揺らいでしまい、軍事作戦に狂いが生じてしまうからならぬと申していたのである。


 勝頼が父の深謀遠慮に感嘆し、改めて父の偉大さに間近で触れていると、奥近習六人衆の中でも最も信玄から寵愛される土屋右衛門尉昌続が二通の書状を手に信玄・勝頼父子のいる広間へ入室してきたのである。


「御屋形様、四郎殿。失礼いたしまする」


「右衛門尉、何かあったか」


「はっ!上洛中の徳川三河守家康から御屋形様宛に書状が届いておりまする」


「なにっ!松平から書状と!して、そのもう一通はなんじゃ」


「こちらは某宛で、三河守が家臣、榊原小平太と申す者から送られた書状にございますれば」


「ほう、まずは松平から儂に宛てた書状を見せよ」


 土屋右衛門尉はうやうやしく、家康からの主君・信玄へ宛てた書状を差し出す。その差し出された書状を鬱陶しげに開いた信玄は、その文言に驚愕することとなる。


 貴国駿府陥落之捷、賀状已奉達候、然自爾以後、久違不通音問、誠以恐懼至極候、幸而於京畿、内外静謐、群臣各帰職、士庶無事、公方御政道益隆、天下稍々安堵之様候、仍而謹告此趣、伏惟貴候、益々御武運長久、国家弥固、可賀之至候、恐々謹言

 三月吉日 家康(花押)

 信玄殿


「ふん、今さら音沙汰なしであったことを詫びてくるとはのぅ。じゃが、京内外が静謐であることをわざわざ書き送ってくるとは何を考えておるのか」


 信玄は蓄えた顎鬚をいじりながら、家康からの書状を嫡男と定めた諏訪四郎勝頼へ横流しする。それを見ていた土屋右衛門尉は自身宛の榊原小平太の書状を読むように促し、手に取らせた。


 信玄公御威光赫々、駿河経略悉皆成功、天下之聞、感服無極候、就中徳川三河守、信玄公へ御賀状奉達之由、我等欣然之至候、仍而両家隣境相接、交誼之厚薄、国家安危之所繋、某微躯乍申、常望両家和好不替、永為堅固之盟誼、此旨特申入候、伏乞貴殿曲躬伝達於信玄公、以固隣好之情、倍加御尽力可被下候、恐々謹言

 三月吉日 榊原小平太

 土屋右衛門尉殿


「ほう、これまた達筆な……」


「はい。この榊原小平太なる者の書状を開いた途端、某も驚き入りました。よもやこれほど達筆に書状を書ける者が徳川にいようとは思いませなんだ」


「いや、儂とて同じことよ。されど、友好関係の維持を望む旨の書状を送ってこようとは何を考えておるのか……」


 これまで取ってきた行動と今回の書状に大きな差があることに戸惑う信玄にも、家康の手のひら返しともいえる内容の真意は掴めなかった。


「父上、単純やもしれませぬが、当家が山西地域までを支配下に置きましたゆえ、遠江へ攻め込まないでほしいと嘆願しておるのやもしれませぬ」


「それは有り得る。されど、この松平からの友好的な書状が上洛した頃合いで送られてきたことを考えるに、上洛した際、織田弾正忠殿が松平へ当家と仲良くするよう命じたのやもしれぬか」


「なるほど。そうであれば、辻褄も合いましょう」


 この徳川の態度の急変は不可思議であったが、裏で織田弾正忠信長が上洛した家康に直接働きかけたのだとしたら、合点がいく。そう考え、ほくそ笑む信玄なのであった。

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