第289話 早川郷のひと時と越相同盟のこと
永禄十三年も弥生から卯月へと月が替わっても、信長と家康は京で各々が成すべきことをしていた。その頃、関東でも情勢に変化が見られつつあった。
相模国早川郷。ここは小田原近郊であり、北条一門の長老で北条相模守氏康の叔父にして北条左京大夫氏政の大叔父にあたる北条幻庵の所領であった。
桜の花びらが風に吹かれて舞い散る中、駕籠から色白の一人の女性が降り立つ。その女性を屋敷の門前にて老人と女子と見紛うばかりの美少年が出迎える。
「春姫様。いえ、今は今川家の大方殿にございましたな。韮山城からここまでさぞかし遠かったことでしょう」
「いえ、これしきのこと、駿府から懸川への逃避行に比べれば可愛いものです。それに、駕籠に乗っておりましたゆえ、疲れてはおりませぬ」
降り立った女性は今年で齢二十四となった今川氏真正室・春姫。そして、それを出迎えた老人こそ、齢六十を超えてなお、北条家の頭脳として隠居と当主から頼りにされる軍師・北条幻庵であった。
武田信玄の侵攻に際して、安全のために夫とともに大平城から韮山城へ身柄を移されていた彼女は、とある事情から伊豆国から相模国へと身柄を移されることとなったのである。
その事情とは、春姫の着物の上からでもよく分かる大きく膨らんだお腹にあった。そう、めでたく懐妊しており、出産のために生まれ故郷であり、伊豆よりも安全な相模国へと移住することとなったのである。
「姉上、まことにご懐妊おめでとうございまする!」
「西堂丸……いいえ、今は北条三郎でしたか。私が今川家へ嫁いだ頃はまだ生まれたばかりの赤子でしたのに、今では私よりも背丈も大きゅうなって……」
「某も今年で齢十七。これで姉上よりも小さい背丈でありましたら、武士として情けない限りに」
「ええ、そうですわね。さっ、温かくなりましたけれど、まだまだ風は冷とうございます。積もる話は中でいたしましょう」
春姫はこのままでは門前での立ち話が長くなってしまうことを見越して、北条幻庵と北条三郎へ屋敷の中で話の続きをしようと促し、門を潜って自分のために築かれた小さな屋敷の敷地内へ足を踏み入れていく。
春光が差し込む、風情のある客間に三人は落ち着くと、春姫から二人へ積極的に話しかけていく。
「大叔父上様。此度はわたくしの出産のためとはいえ、所領の中にこのような屋敷から手配をしてくださり、ありがとうございます」
「ほほほ、構いませぬぞ。わたしは北条一門の庶流にあたる者たちの庇護と後見するよう御隠居から命じられておりますからな」
「そうでしたか。父から面倒な役目を押し付けられていたのですね」
「面倒などと思ったことはありませんよ。こうして年を取ると、庇護や後見を名目にその者たちを訪ねて話をすることも生きがいの一つとなって来ております」
「それは素晴らしきこと。わたくしも産前は時間を持て余しておりますゆえ、ぜひとも大叔父上に話し相手となっていただきたく存じます」
春姫は噂で聞いていた通り、以前よりも北条幻庵が年相応の老人となってしまったことに驚きつつも、それには気づかない様子で会話を続けていくが、心の底から楽しむことは難しかった。
「春姫様、上総介殿はまだ大平城に残られると仰せでしたか」
「はい。夫は今川家の家督を譲り、御父上から継承なされた如律令の朱印も使うのをおやめになられましたが、その体に流れる今川の血筋が疼くのでございましょう。駿河から武田を追い出すまでは駿河からは離れぬとの一点張りで、わたくしがこちらへ参るのと同日、大平城へと戻ってしまわれました」
「やはりそうでしたか。おそらく、上総介殿の中では駿東郡以外が武田の手に落ちたことを聞き、焦っておられるのでしょう。だからこそ、誰よりも最後まで駿河に残ろうとなさっておるのです」
「焦りですか。大叔父上の仰る通りやもしれませぬ。昨年で蒲原城、駿府、花沢城、徳一色城が瞬く間に落とされ、残すは駿東郡の深沢城と興国寺城のみ。それを聞けば、夫が焦らないはずありませんもの」
そこまで言って春姫ははっとして口元を押さえた。蒲原城の名を聞いた大叔父・北条幻庵の表情が死人のように曇ったからである。
昨年十二月の蒲原城の戦いで城を守っていた北条幻庵の次男・北条新三郎氏信、三男・北条少将長順が討ち死にしたことで男子の後継ぎを失い、沈みがちとなっていた。
高齢ということもあり、このままではいつ死んでしまうとも限らないと聞きつけた春姫の父・氏康が慌てて六男の三郎と北条幻庵の末娘を結婚させ、婿養子として北条幻庵のもとへ送ったほどであった。
だから春姫の異母弟である北条三郎は今、こうして北条幻庵とともにこの場に同席しているのである。
「ふっ、春姫様。蒲原城で我が息子たちが討ち死にしたことをお聞きになられたのか」
「は、はい。韮山城にて耳にいたしました。男子の後継ぎがおられぬゆえ、我が弟の三郎を婿養子として所領を継がせたと……」
春姫の言葉に大きく頷く北条幻庵であったが、今度は北条幻庵の所領である武蔵国小机領を継いだ北条三郎の表情が曇る。
「三郎、いかがしたのですか」
「実は某が所領を継いだ数日後、蒲原城で討ち死になされた新三郎殿の奥方が出産なされ、嫡男が産まれたのです」
「な、なんと……!」
なんとも皮肉なことである。男系の子孫が絶えたために婿養子を取った少し後になって、男系の孫が誕生。菊千代と名付けられ、北条幻庵の嫡孫として大切に育てられている。
「無事に嫡孫が誕生したのですから、婿養子の某は不要でしょうと父上に訴えたのですが、そのまま所領を継承せよ。家督だけ菊千代に継がせればよいと仰せでした」
実はこの美少年・北条三郎も肩身の狭い想いをしていたのである。そのことを聞き、春姫が心を痛めていると、北条幻庵が北条三郎の背中を優しくさすりながら言葉をかける。
「そなたは私の婿養子。ですが、嫡孫が生まれたからと言って、必要ないと突き放すつもりはありませんよ。もはや三郎は我が子同然。離れてもらっては困ります」
「げ、幻庵様……!」
この二人は血縁関係も薄いものであるが、春姫は見ていて真の父子を見ているかのような心地がしていた。
そんな形で一時は暗く沈んだ空気が明るさを取り戻し、春の香りをかぎ取れるようになったところで、屋敷を訪ねてきた麗しい少年の姿があった。
「おや、そなたは……」
「はっ、北条右衛門佐氏光にございます!此度は御隠居様の命を受けて参上いたしました!」
北条幻庵の姿を目にして、片膝ついて礼儀正しく振る舞う少年は氏康の甥で養子となっている北条右衛門佐氏光であった。
「幻庵様!そして三郎殿!御隠居様が火急の要件があるゆえ、速やかに小田原城へ登城いただきたいとの仰せ!」
「うむ。火急の要件とあらば、急がずばなるまい。三郎、急ぎ支度せよ」
「はいっ!」
「右衛門佐殿はすぐにも城へ戻り、我らもすぐに早川を発つと申しておったと伝えてもらいたい」
「承知いたしました!」
北条幻庵からの指示を受け、北条三郎は支度するべく客間を飛び出し、北条右衛門佐は北条幻庵からの返事を受けて小田原城へとんぼ返りしていく。突如として慌ただしくなった早川の屋敷。そのことに戸惑う春姫を振り返り、北条幻庵はにこりと微笑んだ。
「到着して早々、このように慌ただしくなってしまい、申し訳ありませんな」
「いえ、構いませぬ。それよりも小田原城の父へよろしくお伝えくださいませ」
「うむ、任されましたぞ。では、これにて」
北条幻庵もまた客間を出て北条三郎と合流すると、一足先に小田原城へ戻った北条右衛門佐の後を追うように早川郷を出立。北条家の居城・小田原城へと急行するのであった。
相州小田原城。永禄四年には当時の長尾景虎率いる十万を超える大軍で包囲され、永禄十二年には武田信玄率いる二万もの軍勢に包囲されるも、それを耐えきった難攻不落の堅城である。
その堅城の大広間へ足早に北条幻庵と北条三郎が入室すると、先に戻っていた北条右衛門佐はもちろん、隠居の氏康、そして当主の氏政が揃い踏みしていたのである。
そんな当主・氏政は昼食の最中であったのか、いつものように飯に汁をかけて食しているところであった。それを父・氏康は呆れ顔で見やった後、入室してきた北条幻庵と北条三郎へと視線を移した。
「叔父上。それに三郎。早川郷におったとのことだが、呼びたててしまい、相済まぬ。於春は壮健であったか」
「はい。お腹の子も順調であるとのこと。当人も相模に帰って来られたことで落ち着かれている様子にございました」
「それならばよい」
氏康は父として出産のために帰郷した娘のことを気にかけていたのか、そのことを叔父・北条幻庵へ確認すると、間髪入れず本題に入った。
「此度、叔父上と三郎を呼びたてたのは越後とのことで頼みがあるからじゃ」
「ほう、越後のことと我らに何の関係が……?」
さすがの軍師・北条幻庵も自分たちを呼びたてたことと越後のことがどう関係するのか、理解に苦しんでいる様子であったが、氏康は言葉が足らなかったと反省し、すぐにも説明を補足する。
「当家は目下、越後の上杉弾正少弼輝虎と同盟を結んでおる。されど、昨年の武田信玄による三度目の駿河侵攻の折、上杉軍は関東へ出陣していたにもかかわらず、西上野の武田ではなく、下野国佐野へ向かってしまったことは存じておりましょう」
「ええ、そうでしたな。されど、そのことと我らを本日お呼びになられたことがどう関係しまするのか」
「儂は上杉との同盟をより強固なものとするため、一門の者を養子に出すことを上杉からの了承を得た」
「まさか……」
北条幻庵はすべてを察したのか、隣で礼儀正しく正座し、事態を飲み込もうと必死の婿養子・三郎を見やる。事態はその、まさかであった。
「叔父上のもとへ婿養子に出しております、我が六男の三郎を上杉弾正少弼が養子とすることで話がまとまった」
「やはり……」
「父上!それはあまりにも理不尽にございます!某を越後へ送るなどと……!第一、我が妻はいかがするのですか!」
氏康の提案に北条幻庵は沈黙し、北条三郎は理不尽だと喚く。しかし、北条三郎が言うことにも一理あった。彼は今、北条幻庵の末娘と結婚している。上杉へ養子に出されるのであらば、この妻はどうなるのか、ということを聞きたいのであった。
「離縁とするほかなかろう」
「り、離縁にございますか……!?」
「そのうえで、そなたと齢もさほど変わらぬ右衛門佐へ再び嫁がせることとする」
父・氏康の発言を聞き、北条三郎は自分たちを呼びに来た北条右衛門佐へと目を向ける。
自分の妻が結婚させられるのは目の前にいる美少年である。妻が受け入れるかどうかはともかく、遠く越後へ伴っていくよりはましであろうと捉え、これを了承した。
「三郎が継承しておる叔父上の武蔵国小机領については右衛門佐が継承し、叔父上の久野北条家の家督はまだ幼いが新三郎の遺児である菊千代に継承させることとする」
「某はそれでようございます」
「うむ。叔父上もそれでよろしいですか」
「わたしも異論ありませんよ。して、三郎を送り出すのはいつになりましょうか」
「ただちに上野国沼田へ向かってもらう。今月中頃には上杉軍も越後へ引き揚げるとのことゆえ、それに間に合うようにしたい」
北条幻庵も複雑な表情ではあったが、北条三郎を上杉へ養子に出すことについては了承した。しかし、一番辛いのは北条三郎であった。
半年もない夫婦生活であったが、愛していた妻とは離縁させられ、その妻は別の男と新たな縁を結ぶ。さらには婿養子として継承した武蔵国小机の所領も、自分の妻と再婚する北条右衛門佐のものとなり、養父・幻庵の久野北条家の家督は菊千代が継承する。
この一瞬で妻も所領もすべてを失い、裸一貫で数年前までは敵同士であった上杉家へ養子に出され、まだ見ぬ越後国で生活していくことになるのだから。
「父上、これでは三郎があまりにも不憫では?三郎を人質としたとて、上杉が武田の背後を衝くとは到底思えませぬ」
「何を申すか。これまで戦ってきた敵からの申し出を信じてもらうにはこれくらいのことをせねばならぬ」
「されど、某は上杉は信用できませぬ。こちらに要求するばかりで、己は一向に動かぬ男を信用などできぬと何度申し上げれば父上はご理解くださるのですか!」
かくして北条三郎の上杉弾正少弼輝虎への養子入りが決まった。しかし、越相同盟のあり方について、氏康・氏政の父子では大きな対立が生じつつあったのである――




