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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第284話 時は得難くして失い易し

 信玄が駿河支配を着々と進めている頃、家康の周囲も依然として大忙しであった。


 武田信玄が駿河の山西地域を制圧したことで武田と直に所領が接することとなり、武田の脅威は日に日に増している。そんな中で、未だに居城の移転計画は候補地選びの段階から進展しておらず、家康は心の内では戦々恐々としていた。


 そんな中で訪れた二月五日は家康がまだ松平蔵人佐元康であった頃に果たした初陣・寺部城の戦いからちょうど十二年が経過した日にあたり、重臣・本多作左衛門重次は戦死した弟・九蔵重玄の、能見松平家では同じく戦死した松平般若助重茂の十三回忌法要が執り行われていた。


「瀬名、わしが初陣してより十二年が経ったそうじゃ」


「まこと早いものでございます。道理で妾も年を取るわけです」


「ははは、歳を取ったと申しても三十二であろうが」


「殿には分かりますまい。三十路を迎えた女子の気持ちなど」


 政務に忙殺されそうな中、現実逃避をかねて久方ぶりに築山の屋敷を訪れた家康は正室・築山殿と対面し、夫婦団らんのひと時を送っていた。


「殿も遠江へと所領を広げられ、随分と忙しくしておられると伯耆守より耳にしましたが、やはりそうなのですか」


「うむ。三河一国だけでも大変であったが、これに遠江までもとなると政務ばかりとなる。今川家はこれに駿河も加えておったのだが、よくもまあ、それだけ広大な領土を統治していたものだと改めて感心させられておるところよ」


「では、統治の手法は今川家を真似られてはいかがです?」


「それは伯耆守からも同じことを言われたわ。じゃが、最も理にかなった提案であることは言うまでもない。それゆえ、取り入れられる所から取り入れていくこととしたいのじゃ」


 夫・家康の言葉に築山殿は首肯する。今川家を離反した夫が領国統治の手法に今川家のやり方を取り入れていくというのは、関口伊豆守氏純の娘として喜ばしいことであった。


「して、殿は居城を移されるとのことですが、岡崎城はいかがなされるおつもりで」


「うむ、それは嫡男である竹千代に委ねようと考えておる。伯耆守や七之助といった者らを後見役として残したうえでならば差し支えなかろう。そなたにも嫡男の生母として岡崎に残り、竹千代を支えてやってはくれまいか」


「それは妾がお嫌いだからでしょうか」


 からかうような築山殿の言いように家康は笑ってその疑念を払しょくする。


「ははは、そのようなことは断じてあり得ぬ。岡崎城主となる竹千代じゃが、未だ十二歳の童じゃ。そんな竹千代のもとから父だけでなく、母までも離れていっては寂しかろう。せめて、母親だけでも岡崎に留めようというのがわしの考えじゃ」


「なるほど。殿のお考えがよう分かりました。では、於亀はいかがいたしますか」


 築山殿の言う於亀とは長女・亀姫のことである。桶狭間合戦の翌月に生まれた彼女も齢十一の少女となり、教養を身に付けようと学問に励みだしてもいるという。


「あくまでも本拠地は三河じゃ。つい一昨年まで敵地であった遠江へ伴っていくのは危険であろう。何より、長らく共に生活して参った母や兄と引き離され、あまり一緒に居なかった父とともに見知らぬ地へ移り住むのは本意ではなかろう。瀬名には竹千代と於亀を見守り、育ててやってほしいのじゃ。子にとって最も大切なのは父親ではなく、母親の愛ゆえな」


「承知しました」


 築山殿がそう言って一礼して頭を上げると、物陰からこっそりとこちらを覗き見ている一人の少女の姿があった。


「於亀、こっちへ来やれ」


 絶対の信頼を寄せる母・築山殿に差し招かれた亀姫は可愛らしく母親のもとへ駆け寄る。父親など眼中にないかの如く走り去って。


「於亀、あちらにおられるのが父上ですよ。挨拶なさいな」


「亀にございまする。ちちうえ、ご機嫌麗しく」


「うむ、よく挨拶できたのぅ。亀、長らく会いに来れずで済まなんだ。さっ、こっちへおいで」


 父・家康に呼ばれた亀姫は一度母・築山殿へ「行ってもいい?」と視線で訴えかけ、頷いてもらうとようやく父のもとへと走り寄った。


「ちちうえ」


「おお、亀や。また一段と背も伸びたのぅ」


「はい。兄上ともさほど背丈は変わりませぬ」


「おお、言われてみればそうじゃな。このまま大きくなれば竹千代を見下ろせるやもしれぬぞ」


 そう言って長女・亀姫の頭を撫でる家康。自分が見ない間に、これほどまでに背丈をはじめ、言葉遣いなども大人へ近づいていることが寂しくもあり、嬉しくもあった。


 そうして家康が亀姫との一時を過ごしていると、屋敷の玄関から随行させている本多平八郎忠勝や榊原小平太康政の声に混じって愛する我が子とその後見役たちの声が耳に届いた。


 その声は足音とともに今いる部屋へと近づいてくると、ゆっくりと障子が開かれた。


「父上、お久しゅうございます」


「ははは、やはり竹千代であったか。それに、七之助と伯耆守もおるか」


 十二歳となった竹千代は亀姫と同じく久しぶりの再会ともなるため、少々堅苦しい挨拶となってしまう。


 そんな竹千代の背後には予想通り、後見役として附属させている平岩七之助親吉、石川伯耆守数正の両名が居並んでいた。


「父上、某と七之助、伯耆守だけではございませぬ。もう一人おりますれば」


「なんと、それは誰じゃ」


 家康がもう一人誰を連れてきたのかと問えば、ひょっこりと竹千代の正室・五徳が顔を覗かせたのである。


「おお、これは姫であったか。夫婦揃って築山へ参るとは実に仲睦まじい限りじゃ。駿府におった頃の己と瀬名を見ているようじゃ」


 舅から優しい言葉をかけられたことに安堵したのか、織田弾正忠信長の次女・五徳は片手で収まるほどしか会ったことのない舅へと礼儀正しく一礼してから入室する。


 会っていない間にも亀姫だけでなく、竹千代と五徳の夫妻も成長していた。背丈も伸びたが、身に纏う空気のようなものが確実に大人へ近づいているのが、家康も見ただけで分かるほどに。


「竹千代、何やら体つきが武士らしくなってきたではないか」


「はい。父上のお申しつけ通り、剣術や槍術、弓術、馬術といった武芸の鍛錬は欠かさず行っておりますれば」


「それは素晴らしいことじゃ。近ごろは鷹狩りを好むようになったと伯耆守から聞いたのじゃが、どうじゃ?鷹狩りは楽しいか」


「はいっ!武芸の鍛錬と鷹狩りは楽しゅうございます!某も早く元服して、初陣を飾りとうございます!」


 純真無垢な竹千代の一言に、築山殿は面白く無さげにそっぽを向く。母として、我が子が戦場へ行きたがるというのは決して喜ばしくないに違いなかった。


 だが、そんなことでは国を守ることは叶わず、亡国の主と化すことは家康は身をもって遠江の戦で感じた事である。


 家康も父としては我が子が戦場に出て、万が一にも討ち死にでもしようものならと考えれば考えるほどに恐ろしかった。しかし、戦に出ることのなかった兄貴分・今川氏真は駿河を追われる身となってしまっている。竹千代をそうさせないためにも戦場へ出すことは欠かせない必須教養であると家康は理解していた。


「ははは、されど竹千代。そなたの初陣の願いは叶えてやれぬが、元服は今年中に執り行うつもりでおる」


「なんと!それはまことにございますか!」


「武士に二言はないぞ、竹千代。元服後の諱についてはわしも考えるところがあるゆえ、今月上洛した折に、そなたの舅、すなわち姫の実父である織田弾正忠信長殿へ相談してみるつもりじゃ」


「何故某の諱を決めるのに舅殿と相談する必要があるのでしょうか」


「さあ、なぜであろうな。まあ、今年のうちに答えが分かるであろうから、そなたの頭で考えてみるがよい」


 どうして自分の諱を決めるのに舅と相談するのか、その時の竹千代には皆目見当もつかなかった。その答えは家康のみぞ知る、といったところであろう。


「あの、お父上様」


「おお、姫。いかがなされたかな」


「上洛とは京の都へ参られるのでしょうか」


「そうじゃ。姫の御父上ともお会いすることとなろう」


 懐かしい父・信長の話題が出たこともあり、五徳は目を輝かせる。輿入れして以来三年が経とうとしているが、それ以来一度も会っていない父親に舅が会いに行くというのだから、さぞかし羨ましいに違いなかった。


「そこでじゃ、竹千代と亀、そして姫にも何か京で土産を調達して参ろうと思っておる。要望があれば今のうちに申してみるがよい」


 家康からの突然の申し出に竹千代も亀姫も五徳も迷っている様子であったが、三名ともそもそもどういったものがあるのかを知らないため、一向に要望が出てくる気配はなかった。


「ははは、よいよい。ならば、京でわしが探し求めてみるとしようぞ」


 家康は京へ上洛する際にどういったものを土産にするがよいか、それを考えながら久方ぶりの家族団らんを楽しみ、築山の屋敷を出た。


 そうして岡崎城までの道のりを本多平八郎や榊原小平太とともに戻るかと思われた家康であったが、突如として進路を変更し、岡崎城下の久松家の屋敷を訪れたのである。


 突然の家康来訪に久松家の家人たちは慌てたが、問題なく家康は屋敷内へ入ることが叶った。そうして玄関にて家康を出迎えたのは生母・於大の方であった。齢四十三となった母であるが、未だに若々しく、一回り下の年齢に間違えられてもおかしくない。


「殿、遠江平定が成せましたこと、心よりお祝い申し上げます」


「母上、面を上げてくだされ」


 たしかに於大の方は家康の母であるが、夫である久松佐渡守俊勝は徳川家臣。すなわち、家康は徳川家の当主であり、夫の主君でもあるため、母としてその場で接することはしなかった。まさしく良妻賢母の鏡のような人である。


「随分と急な訪問となってしまいましたこと、まこと申し訳ございませぬ。今月中に上洛することを母上にお伝えしておらぬと思い、急いで馬首をめぐらせてこちらへ参ったのでございます」


「それにしても上洛とは妾が嫁いで参った頃からは想像もつきませぬ……」


 於大の方が水野家から松平家へ嫁いだ頃の松平家は三河の一国衆に過ぎなかった。それが今や三河・遠江を領するれっきとした大名として京へ上洛する立場となったのだから、感慨深いものがあった。


「されど、上洛するとは申しましても、夫からは駿河が武田の手に落ち、一触即発の空気が漂っているとも耳にしておりますが、それは大事ないのですか。万が一、殿が不在の隙を突いて武田軍が侵攻してくるようなことにでもなれば……」


「母上。それはないと踏んだからこそ、上洛するのでございます。武田は駿河の駿東郡を攻め取るべく北条軍と対峙しておる真っただ中。こちらへ兵力を割く余力はございませぬ」


「そうでしたか」


 頼もしい息子がそう断言するならば、武田軍の侵攻はないのだろうと考え、安堵の表情を見せる於大の方へ、家康は説明を付け加えていく。


「加えて、此度の上洛は将軍であらせられる足利義昭様へ挨拶しに参るためのもの。油断ならぬ武田信玄といえども、公方様の要請で上洛している当家の所領に手出しすることが何を意味するか、重々承知しておりましょう」


「なるほど、幕府への反逆を意味することとなり、己の立場を危うくしてしまうから、その意味でも手出しすることはないと」


「さすがは母上。まさしくその通りにございまする」


 家康は、さすがは我が母と心の内で感嘆していた。女性でありながら、ここまでのことを瞬時に理解できる人はそうはいまいと思ったからである。


「そうです、殿。一つお伺いしたきことがございます」


「何なりと」


「いつになったら源三郎は甲斐より帰って参るのでしょうか」


「昨年の内に同じく甲斐へ送られていた左衛門尉殿のご息女は帰ってきたというのに、源三郎は未だ甲斐へ留められたまま。そのことばかり案じる日々にございますれば、一刻も早く武田から取り戻してくださいますようお願い申し上げます」


 母に懇願されては家康も否とは申せなかった。昨年、酒井左衛門尉忠次の娘・おふうは無事に武田方から身柄を返されているが、未だ家康の異父弟・松平源三郎康俊は甲斐へ人質として留められたままなのである。


 甲三同盟が険悪なものとなり、破棄されるのも時間の問題となった以上、家康としても人質としてある松平源三郎の身柄を取り返す必要がある。


 それが何よりの母親への親孝行ともなる。何せ、母にとっては己が腹を痛めて産んだかけがえのない我が子なのだから。


 家康は上洛の支度を始めるとともに、武田家との手切れを見据えて異父弟の救出に向けても動き出すことを改めて決意させられた瞬間でもあった――

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