第277話 信長、南伊勢平定す
永禄十二年八月二十日に南伊勢の平定を目指して出陣した織田信長。
北伊勢を支配する長野工藤氏の婿養子とした齢二十七の信長の同母弟・織田三十郎信包、進むも退くも滝川と称される齢四十五の重臣・滝川左近将監一益、米五郎左の異名をとる齢三十五の重臣・丹羽五郎左衛門尉長秀、退き佐久間と謳われる齢四十二の宿老・佐久間右衛門尉信盛、かかれ柴田の異名をとる齢四十八の宿老・柴田権六勝家、近ごろめきめき頭角を現してきている木綿藤吉とも称される齢三十三の木下藤吉郎秀吉といった錚々たる顔ぶれであった。
そんな信長の軍勢であったが、正三位・中納言に叙位任官された北畠具教とその嫡男で現当主・北畠具房の父子の立て籠もる要害・大河内城を落城させるのに時を要し、将軍・足利義昭の仲介で十月に入ってようやく講和を結ぶことに成功していた――
「殿、ようやく北畠との戦も決着いたしましたな」
「藤吉郎か。時を要したが、ようやく落とせたわ」
「されど、殿。講和条件が次男の茶筅様を北畠具房の養嗣子とすることと大河内城の明け渡しだけでよろしかったので?おいらにお命じいただければ、目障りな北畠父子へ刺客を放ちまするが」
「たわけめ、朝廷より正三位中納言に任じられた北畠の隠居を暗殺したなどと知れては当家の威信に傷がつくわ」
まるで主君・信長のやり方が手緩いと言わんばかりの木下藤吉郎へ信長は舌打ちする。しかし、信長としてもここで北畠父子を暗殺して禍根を断つ木下藤吉郎の意見は間違っていないことも理解はしていた。
ただ、北畠家が南北朝以来の名門で朝廷からの覚えもめでたいことなどもあり、迂闊に手を出すことなどできなかった。それゆえに、北畠家の次期当主の座に次男である茶筅を据えての講和としたのである。
「それと、先ほど使者が参り、大河内城は滝川左近将監殿と津田一安殿が無事に受け取られ、北畠父子は笠木と坂内へ移ったとの由」
「で、あるか。ならば、田丸城をはじめとする城の破却を命じておこうぞ。また叛乱など起こされた日には畿内統治に差し障るであろうからな」
「それは名案かと」
「加えて関所は往還の商人たちにとっても悩みの種となっておろうゆえ、関所を撤廃し、関銭徴収も命じることとする」
信長は平定した南伊勢での戦後処理を粛々と進めていくと、十月六日には伊勢山田に入り、翌七日には内宮・外宮、朝熊神社に参詣した。
さらに八日には上野にて南伊勢の部将配置について定めるべく、次男・茶筅と津田一安、滝川左近将監、織田三十郎を招集していた。
「父上、此度は南伊勢平定祝着至極に存じます」
「おう、よく挨拶できたではないか」
「はい!今年で齢十二ともなりますゆえ、挨拶くらいはできなければと思いまして」
「で、あるか。何よりそなたはいずれ、北畠家を継ぐことともなる。しかと励めよ」
「はいっ!」
「加えてそなたの正室には北畠具教の娘、雪姫を迎えることで話はついておる。そのことも踏まえ、北畠家の当主になる者に相応しい立ち居振る舞いを身に付けよ」
「はっ!励みまする!」
純真無垢な信長の次男・茶筅は礼儀正しく一礼すると、父が部将配置を定める言葉を発するのを待つかのように口を一文字に結び、その瞬間を待った。
「然らば、南伊勢の配備について申し付ける。茶筅!」
「はっ!」
「そなたは大河内城主として大河内城へ入れ。津田一安も附属させるゆえ、政については案ずることはないぞ」
「はっ!かたじけのう存じます!」
茶筅が相変わらず礼儀正しく一礼し、それに合わせて補佐役の津田一安も拝命したことを表して一礼する。この津田一安は武田信玄との交渉のため、五月下旬に甲府へ入っていた者でもある。
「続いて左近将監!」
「ははっ!」
袴を床に擦りながら信長の御前へ進み出る滝川左近将監。そんな忠義に厚い重臣へ、信長は南伊勢の配備を告げていく。
「左近将監には安濃津、渋見、木造の支配を委ねる。いずれも南伊勢の要衝ともいえる地ゆえ、抜かるでないぞ」
「はっ!お任せくださいませ!必ずや、殿のご期待に沿う働きをしてご覧にいれまする!」
「うむ」
滝川左近将監の言葉が満足いく返答だったのか、信長は上機嫌に頷き、残る同母弟・三十郎信包を見やった。
「三十郎、そなたにはここ上野城に入ってもらう。ここに一門を入れることで睨みを利かせる狙いもあるゆえ、信頼のおけるそなたに託すがよいな?」
「はっ!かような重要なお役を任せていただいた以上、それを全うするまでにございます!」
「うむ、それでよい。いずれ茶筅が北畠家当主となれば南伊勢の支配を任せるつもりでおる。そのための基盤づくりを任せるのじゃ、しかと頼むぞ」
「ははっ!」
信長からの「頼む」という言葉に織田三十郎だけでなく、津田一安や滝川左近将監も一礼し、南伊勢を託されたことの責任重大さを感じさせられていた。
「殿、一つご報告いたしたき儀がございます」
「左近将監か、いかがした」
「はっ!包囲の柵を巡回警固する尺限廻番衆を務め、殿の勘気を被りました加藤弥三郎、佐脇藤八郎良之、長谷川右近橋介、山口飛騨守の四名が出奔したとの由」
「で、あるか」
信長は滝川左近将監の言葉を聞いても動揺する様子を見せなかった。今名前の挙がった四名は桶狭間合戦で信長が清洲城を飛び出した際に付き従った最初の五名のうちの四名である。
「して、四名は何処へ向かったか」
「尾張方面へ馬を飛ばしていったことは掴めておりますが、それ以上のことはまったく。ご命令とあらば、追手を差し向けまするが……」
「構わぬ。我が覇道について来れぬ者は捨て置け。それよりも案ずるべきは公方様がことよ」
信長は今回の北畠氏との講和にも尽力した将軍・足利義昭からの書状を一同へ披露した。信長が講和条件として次男・茶筅の北畠氏への養子入りを強要したことへの不快感を露わにしたものであった。
「父上、某のことで公方様の不快を買っておったのですか」
「うむ。元より公方様は此度の南伊勢攻めには反対の立場。おそらく、将軍家に敵対しているわけではない北畠氏を攻める必要はないとのお考えであったのだろう」
「されど、父上はそれを強行したうえ、某を養子入りさせたために公方様に不快感を与えてしまったと……」
「で、ある。それに、おれが進める分国の拡大もよく思っていないようじゃ。公方様は敵対する大名を討伐し、従う大名や国衆が幕府のために馳走することを望まれておるようじゃが、おれは違う。近接する大名で攻め潰せるところがあれば、それを順次征伐して分国を拡大する。公方様へ敵対しているか否かはどうでもよい」
上洛の折には協力した信長と義昭であったが、幕府についての考え方が根本的に違っていた。天下静謐を実現させようという点では一致している両者であったが、そのための手段が大きく異なっていた。
義昭は幕府に全国の大名・国衆が従い、幕府のために働いてくれることを天下静謐と認識していたが、信長は天下静謐を大義名分に天下、すなわち大和国、山城国、摂津国、河内国、和泉国の五畿内を独占することを望んでいた。
上洛して幕府を再興してわずか一年で、これほどまでに幕府に対する考え方の違いが露呈しつつあったのである。
そんな信長は十一日にわずかな供廻りを連れて京に戻って義昭へ南伊勢平定の報告をすると、十七日にはさっさと美濃へ帰ってしまった。この信長と義昭の対立は朝廷でも騒動になり、正親町天皇が事態を憂慮して女房奉書を出すほどであったという――
そうして信長が将軍・足利義昭との不協和音を発している頃、岡崎城の家康のもとへ四名の来訪者の姿があった。
そう、大河内城の戦いにて信長より勘気を蒙り出奔した加藤弥三郎、佐脇藤八郎、長谷川右近、山口飛騨守の四名である。
織田家を出奔してきた者たちが城へやってきたと聞き、家康は本多平八郎忠勝や榊原小平太康政といった近侍たちを伴い、広間へ入って彼らと対面を果たしたのである。
「これは三河守様。お久しゅうございます。某のこと、お覚えでございましょうか」
そう言って四人の中から進み出たのは加藤弥三郎であった。家康と年の変わらぬ四名のなかで、家康が唯一面識があったのはこの加藤弥三郎だけであったのだ。
「うむ、覚えておりますとも。わしが熱田にて織田家の人質となっていた頃、寝食を共にした中でござろう」
家康はそう言って笑いかけると、そのことに安心したのか、加藤弥三郎の表情が和らぐ。
今より二十二年も前の事となる天文十六年から二年もの間、家康が留め置かれた加藤図書屋敷。その屋敷の主である加藤図書順盛の次男こそ、今目の前にいる青年・加藤弥三郎なのであった。
「わしはあの熱田にて多くのことを学び、それを活かして今日がある。加えて、弥三郎殿の父、図書殿には懸川城包囲中に書状をいただいてもおり、今なお入魂にしていただいておる」
「ええ、父からも三河守様へ書状を送ったことは聞いております。そして、某もそんな三河守様と過ごした日々があるからこそ、織田家で奉公して来られたのでございます」
「そうであったか。されど、その織田家を出奔して参られたとのことじゃが、なんぞ仕官先に当てでもあるのですかな」
「はい。三河守様へ仕官するべく、こうして我らは参っておるのです」
思いがけない加藤弥三郎の返答に家康は驚き、目を見開いた。
同盟先である織田家を出奔してきた者を召し抱えることは、さすがの家康も気が引けることではあった。しかし、加藤弥三郎以外の三人の活躍は家康も耳にしたことがあり、召し抱えないのは勿体ない逸材。それだけに、家康も逡巡した。
「三河守様、我らの仕官はならぬと?」
「ならぬとは申しておらぬ。されど、同盟先の織田家を出奔してきた者を召し抱えるのは弾正忠殿の機嫌を損ねる恐れがある」
「左様にございましたか。されば、我らはこのあたりでお暇させていただき、新たな仕官先を探しに参りたく存じます」
「弥三郎殿、左様に急くでない。何も召し抱えぬとは言っておらぬであろう」
徳川家に仕官することはできないのかと早々に見切りをつけ、立ち去ろうとする加藤弥三郎らであったが、家康に呼び止められて足を止める。
「では、いかがなされるご所存で?」
「うむ、まずはほとぼりが冷めるまで遠州へ身を隠されるがよろしかろう。その後でよければ、召し抱えることとしたいがいかがであろうか」
家康からの申し出に加藤弥三郎、佐脇藤八郎、長谷川右近、山口飛騨守の四名は顔を寄せ合って協議する。
具体的にいつ召し抱えてもらえるのか、それが明示されていないまでも召し抱えるつもりがあるならば、家康の申し出通り遠州でほとぼりが冷めるのを待つのでも良いのではないか、ということで話がまとまり、四人は顔を上げて家康へ臣下の礼をとった。
「然らば、我ら一同、ありがたく三河守様よりの申し出を受けたく存じます!」
「そうであるか。ひとまず遠州ならば織田家の手も届かぬであろうから、ほとぼりが冷めるまでは大人しくしておられるがよい」
かくして加藤弥三郎、佐脇藤八郎、長谷川右近、山口飛騨守の四名は家康の申し出通り遠江国へ身を隠し、ほとぼりが冷めるのを待つこととした。
そして家康は加藤弥三郎を介して他の三名の身の上話を聞きだしていく。召し抱えることを決めた以上、その人となりを把握しておく必要もあるためだ。
「ほう、佐脇殿は尾張国海東郡荒子の前田利春殿が五男であられるか」
「いかにも。前田家は兄の前田又左衛門利家が継いでおりますれば」
「ほう、笄斬りのことはわしも耳にしておるが、今は前田家の当主となっておるのか」
家康も前田又左衛門利家の活躍は耳にしたことがあったため、佐脇藤八郎がその弟であると知り、興味深そうに話を聞いていた。
また、長谷川右近が甥の藤五郎を尾張へ残してきたことや、山口飛騨守の故郷の話など、思い思い身の上話に花を咲かせ、四人を遠州へと旅立たせたのであった。
「殿、このことは織田家へ伝えるのでございますか」
「いや、こればかりは一々伝えずとも良かろう。すぐに召し抱えては弾正忠殿の機嫌を損ねようが、来年あたりに召し抱える分には差し支えなかろう」
家康は加藤弥三郎らと別れた後は、近侍する本多平八郎と榊原小平太へ加藤弥三郎とともに熱田にて剣術や学問に打ち込んだことなど、これまで誰にも話すことのなかったことを上機嫌で話し、存分に二十年前の思い出に耽ることができたのであった――




