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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第276話 三増合戦を終えて

 時は戻って神無月。小春日和の中、躑躅ヶ崎館へと帰還した武田信玄は三増峠での北条軍との激戦での被害状況の把握に努めていた。


「御屋形様、やはり箕輪城代の浅利信種殿の討ち死は真にございました」


 館の奥で胡坐をかく信玄へ片膝ついて報告するのは金丸平八郎昌続。奥近習衆の一人として信玄からもその才覚を寵愛される齢二十五の若武者は、武田重臣で唯一の戦死者ともいえる浅利信種の戦死を報告したのである。


 そんな寵臣からの報告を苦々しい面持ちで受け止めた信玄のもとへ、信濃国深志城代を務める譜代家老・内藤修理亮昌秀が鎧甲冑を身に着けたままやってきたのである。


「おお、修理亮か。小荷駄隊の指揮、まこと大儀であった。殿軍を務めた四郎のことも補佐してくれたそうじゃな」


「はっ、若様にとっても貴重な経験になろうかと思い、出過ぎた事とは思いましたが、戦の進退についてのあれやこれやをお伝えさせていただきました」


「いや、先ほど帰陣した四郎がまた一段と成長した様子であったが、それはそなたのおかげであろう。礼を申すぞ」


「そのような、御屋形様から礼を申されるほどのことではございませぬ」


 謙遜する内藤修理亮昌秀は信玄の一つ年下の四十八歳であり、老境に差し掛かっていた。しかし、その老練さが戦において発揮されたからこそ、武田軍は被害を最小限に留めることができたといっても過言ではなかった。


「して、信種が討ち死にしたことはそなたも存じておろう」


「はい。まこと無念にございまする……」


「いかにも。西上野支配の要である箕輪城代の座が空いてしもうたゆえ、誰ぞ代わりに城代を務めてもらわねばならぬ」


「なるほど。たしか浅利殿が入られる前は春日弾正虎綱殿、真田幸綱殿が在番しておりましたゆえ、この両氏にお役を与えてはいかがかと存じまするが」


 内藤修理亮の申すことはもっともであった。かつて在番していた者を城代とする方が円滑に回るのは信玄にも分かっていたが、首を縦に振ることはなかった。


「修理亮の申すことは一理ある。されど、長尾とは和睦したに過ぎぬゆえ、春日弾正を海津城より動かすわけには参らぬし、幸綱はすでに家督を左衛門尉に譲って隠居の身じゃ。今さら城代の役を与えることはできぬ」


「なれば、誰ぞ代わりの者を入れねばなりませぬな。箕輪城代が務まりそうな者となりますと、随分限られるかと思われますが……」


「うむ。そこでじゃが、儂は修理亮、そなたが箕輪城代に相応しいと考えておる」


「な、なんと!」


 まさか自分が名指しされるとは思っていなかったのか、驚いた表情を見せる内藤修理亮を信玄は笑った。戦場では何事にも動じない男が動じたのだから、可笑しいに決まっていた。


「そなたの深志城代は美濃守に任せ、そなたには箕輪城代として西上野支配にあたってもらいたいのじゃ」


「そ、それならば美濃守殿が箕輪城代でも良かったのではございますまいか」


「否、これより先は上野各地にて北条方との戦となろう。加えて、長尾との和睦が終われば長尾勢とも戦わねばならぬ。そのように北条と長尾を同時に相手取れるのはそなたじゃと儂は思っておる」


「お、御屋形様にそこまで仰られては、引き受けないわけには参りませぬな」


「そうか、引き受けてくれるか。城代としての務めを美濃守へも引き継がねばならぬであろうから、城代として赴任するのは来年からでよい。それまで北条が西上野など顧みれぬよう、儂が動くゆえな」


 頼もしい主君の言葉に内藤修理亮は深く感謝した。箕輪城代の任を内々に承諾した内藤修理亮は早速にも深志城代の後任となる馬場美濃守信春へそのことを引き継ぐべく、内々に動き始めたのである。


「平八郎」


「ははっ!」


「そなたには此度戦死した信種の同心衆七十騎と駿河先方衆三十騎を附属させることとする」


「なんと!某を百騎も附属させていただけると……!?」


「二十代のうちにそれだけ附属させるのは異例なのじゃが、そなたならばやり遂げられよう。加えて、甲斐名門の土屋家の名跡を継ぐがよい」


「某に土屋家を継げと……!」


「うむ。いつまでも金丸平八郎では箔が付かぬであろう。以後は土屋右衛門尉昌続を名乗るがよい。加えて黒地に白鳥居の旗印も遣わそう」


「ありがとう存じまする!以後は土屋右衛門尉昌続、御屋形様の御為、粉骨砕身で励んで参る所存!」


 金丸平八郎昌続より土屋右衛門尉昌続と名を改めた信玄の若き寵臣は以後も信玄のもとで活躍していくこととなる。


「そうじゃ、右衛門尉。駿河情勢はどうなっておるか」


「はっ、聞くところによりますれば、蒲原城には北条一門の北条新三郎氏信とその弟の北条長順をはじめ、重臣の清水新七郎などが在城しておる由」


「ほう、北条新三郎氏信と申せば、北条幻庵の次男ではないか」


「はい。北条家の御隠居である北条相模守にとっては従弟にあたる者。これを攻め落とせば、北条の威信低下は免れぬであろうかと」


 北条一門や重臣が入城する蒲原城を落城させる。その意義は大きく、落とすための布石として富士郡の大宮城を確保済みである。その蒲原城を落とし、薩埵峠の北条軍を蹴散らせば、穴山左衛門大夫信君が守る興津城までの道が開かれ、救援も成せる。


「駿府には今川方の岡部次郎右衛門尉正綱が籠城しておりますが、大した兵数ではございませぬ。そして山西地域では花沢城と徳一色城が未だ抵抗を続けており、花沢城には大原肥前守資良が、徳一色城には長谷川紀伊守正長が在城しておりまする」


「ふむ。蒲原城と薩埵峠、駿府館、花沢城に徳一色城を攻略すれば駿東郡を除く駿河支配が敵うか。ここまで長かったが、ようやく駿河での戦も勝ち筋が見えたわ」


 信玄はようやく放てる三度目の矢。第二次駿河侵攻、小田原侵攻という敵の裏を二度もかいたうえで行う第三次駿河侵攻。


 信玄は駿河だけでなく、北条領国である上野や武蔵、相模、伊豆のいずれから次を攻めてくるのかと、北条家の目を駿河から関東へと移させたうえで、三度目の裏をかこうと水面下で支度を始めていたのであった。


 一方その頃、信玄の小田原侵攻を受けた北条家内では次なる一手をいかにするべきか、協議の日々が続いていた。


「左衛門大夫、此度も見事な活躍であったそうではないか。なんでも、配下の鉄砲衆が箕輪城代の浅利信種を討ち取ったとか」


「ええ、隙だらけにございましたゆえ、討ち取ったまで。されど、信玄は無事に甲府へ帰還したとのことで、でき得るならば信玄めの首を小田原へ持ち帰りとうございました」


 小田原城へ帰城した北条左衛門大夫綱成は当主・氏政に謁見し、三増合戦についての報告を行っていた。氏政が北条左衛門大夫を労っていると、そこへ不平不満を露わにした様子の大石源三氏照、藤田新太郎氏邦が大きな足音とともに到着した。


「兄上!」


「兄者!」


「おお、源三も藤太郎も武田軍と見事な戦をしたそうじゃな。今しがた、そのことを左衛門大夫から聞いて――」


「兄者!何故、背後を衝いてくださらなかったのです!よもや、義姉上の実家であるからと手心を加えられたのではありますまいな!」


 開口一番に藤田新太郎が発したのは、三増合戦に間に合わなかった異母兄への不満であった。戦場では仕方なく北条左衛門大夫の意見に従って戦い抜いたものの、『あの時、兄が率いる本隊二万が背後を衝いていれば信玄を討ち取れていたのに』という想いは拭えなかった。


 同じ気持ちなのか、大石源三も憤懣やるかたない様子で藤田新太郎とともに抗議の眼差しを向ける。


「わしが手心を加えたとは心外な!我らは追撃を行いながら厚木まで進んでおったこと、そなたらも存じておろうに!」


「存じておりますとも!あと一刻でも早くお越しくだされば、ここには信玄の首がございましたぞ!」


 そう、氏政率いる本隊二万は三増峠から四里半南の厚木まで進軍していたが、そこで北条軍敗退の知らせを聞き、小田原城へ撤退してしまったのであった。それだけに、大石源三と藤田新太郎は悔しかったのである。


 そんな一触即発の兄弟のもとへ、隠居の身である北条相模守氏康が刀創の残る厳めしい顔で広間へ姿を現した。


「朝から何をしているかと思えば、兄弟喧嘩か!」


 朝一番、氏康に一喝された氏政、氏照、氏邦の兄弟は血相を変えて正座し、父へと向き直った。


「次はいかにして武田へ対処するか、それを協議しておるのであれば儂も黙って聞いておった。じゃが、今のやり取りは何か!答えよ、藤太郎!」


「はっ、それは三増合戦に兄上が間に合わなかったことについて意見を述べておったのでございます……」


「言い訳するでないわ!第一、そなたも源三も信玄を取り逃がした責任を氏政に擦り付けるとは何事か!氏政はそなたらにとって兄であるが、仕えるべき主君じゃ!臣下が敗戦の咎を主君に擦り付けるなど最もしてはならぬこと!そのこと、しかと心得よ!」


 父・氏康の発した言葉は正論であり、氏照・氏邦兄弟は一言も反論できず、黙りこくってしまう。むしろ、その気まずい空気を放置せず、取り成したのは当主であり、彼らの兄である氏政であった。


「まあ、父上。良いではありませぬか。たしかに合戦に間に合わなかったことで当家の軍は敗退し、みすみす信玄を取り逃がしたのは事実」


「それもその通りじゃ。されど、二万もの大軍をあの短期間に厚木まで進めた事だけは褒めてやらねばならぬ」


「はっ、ありがとう存じまする」


「だが、次に同じことをいたしたら、儂も怒るぞ」


「はっ、気を付けまする……」


 ある種、自分が責められることで父・氏康が向ける怒りを自らへ向け、氏照・氏邦の兄弟へ助け舟を出したのである。それを氏康に気づかれぬよう、自然にやってのけたのは氏政の持てる技であった。


「そうじゃ、先ほど越後へ使いの者を送ったこと、皆にも伝えておかねばならぬ」


「なんと、父上が越後へ使者を?」


「うむ。信玄が当家の領国の何処を狙ってきてもおかしくないことが判明した以上、上杉にも越相同盟に則り、西上野の武田方を攻めてもらわねばならぬ」


「そうですな。さすがに上杉が動いたとあっては、武田も北信濃や西上野を手薄にもできませぬゆえ、此度のような大掛かりな戦は控えましょう」


 氏政の言うことは氏康と心を同じくするものだった。武田信玄が強敵で単独では今川家の駿河を守りながら戦うことが難しい以上、頼りになるのは新たな同盟相手・上杉弾正少弼輝虎であった。


 これまで関東管領として関東支配を目論む北条家の前に立ちはだかった軍神を頼る日が来ようとは、氏康も氏政も思わなかった。だが、今回のようなことが二度も三度もあってはならないため、背に腹は代えられぬと越後へ使者を送ったのであった。


 それほどまでに信玄の小田原攻めは北条氏に大きな衝撃と動揺を与えたのである。さらに、今回の小田原侵攻を受け、氏政はあることを父・氏康へ提案しようとしていた。


「父上、私から一つ提案したき儀がございます」


「ほう、そなたから提案とは珍しいこともあるものじゃ。申してみよ」


「はい。此度の侵攻を受けて感じた事なのですが、城の守りをより堅固なものとするべきではなかろうかと」


「ほう、具体的にはどうするのが良いと考えるか」


「然らば、新たに外周に三の丸外郭をもうけるのはいかがかと。優先すべきは三の丸でも低地の部分にございましょう。その後、山岳部の外郭を築造すべきであるかと。とにかく土塁と堀を築き、守りを固めるべきというのが私の考えにございます」


 珍しく意見を父に伝えた氏政。その言葉を受けて、氏康は熟考するように顎に手を当てる。息子ながら、良いところに気がついた、とでも言わんばかりに。


「ふむ、氏政の申す通りか。信玄の侵攻が再びあることを想定し、小田原城の拡幅をするとしようぞ」


「然らば、人夫や資材の調達は私の方で進めておきまする」


「うむ。源三と藤太郎もそれぞれ滝山城と鉢形城の守りを万全とするべく、折を見て城の改修を進めよ」


「はっ!承知いたしました!」


「はっ、お任せくだされ!」


 氏康からの言葉に氏照、氏邦は頷き、すぐにも思考を己の居城をどう改修するかに向けられたようであった。


 かくして北条家の目は完全にとまではいかずとも、攻められる前よりも自分の領国を守ることへ意識を向けつつあった。それが信玄の狙い通りだとは知らずに。


 後世、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を土塁と空堀で取り囲み、後に羽柴秀吉の大坂城の惣構を凌ぐ規模にまで小田原城の規模は拡大していくことになる。

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