第269話 躓く石も縁の端
永禄十二年五月二十八日未明、朝日が少し地上へ顔を覗かせた頃。懸川城にて戦後処理に邁進する家康を補佐する寝起きの家老・酒井左衛門尉忠次のもとへ、伊豆国三島へ移った北条家当主・北条左京大夫氏政からの書状が届けられた。
「酒井様、北条家より使いの者が参り、家老の酒井左衛門尉様へこの書状をと。加えて、使者が馬を進上すると申しておりましたゆえ、ひとまず馬屋へ繋いでございます」
「うむ、馬のことは後で確認するといたす。ひとまず北条家からの書状を見せてみよ」
酒井左衛門尉は家臣から北条家当主から自身へ宛てられた書状を受け取ると、寝起きも吹き飛ぶような心持ちで書状を開封する。
就氏真帰国、家康へ以誓句申届候処、御返答之誓詞速到来本望候、殊氏真当方へ無二可有御入魂由大慶候、就中懸河出城之刻、其方至于半途為証人入来之由、誠以手扱喜悦候、自今以後物、家康へ別可申合候条、可然様ニ馳入任入候、仍馬一疋進之候、猶弟候助五郎可申候、恐々謹言
五月廿四日 氏政(花押)
酒井左衛門尉殿
「ははは、殿が上総介殿や左京大夫殿と無二の入魂でありたいとの旨を記した起請文を送ったと申されておったが、このことであったか」
律儀に家康が送った起請文を、受け取った氏政が喜んでいる。そんな様子が書状からもありありと見て取れる。
そして、氏真の身柄を渡す際に東条松平甚太郎家忠を証人として送ったことも報告がなされたのか、これまた氏政が喜んでいるであろうことが書状に記された文章からも読み取れる。
「ははは、殿がお命じになられたことのすべてが北条家の当主殿を大層喜ばせておる。さすがは殿、実に抜かりない!それに北条家の当主殿もわざわざ書状にて感謝を述べられるとは、お高く留まって尊大であったどこぞの当主とは大違いじゃぞ、ははは……!」
表向き丁重に扱っているようでその実徳川を見下していることが感じ取れた武田家当主とは違い、北条家当主からの書状は徳川家を尊重してくれていることが読み取れる。それだけに、書状を読みながら酒井左衛門尉は笑いが堪えきれなかった。
「ふむ、ここからの内容は某だけでは何とも言えぬ。ひとまず、殿へご意見を伺うほかあるまい」
酒井左衛門尉は書状にあった進物の馬一疋を従者に手綱を引かせ、わずかな供廻りを率いて懸川城の主君のもとを訪れた。
「殿、左衛門尉にございます」
「おお、左衛門尉か。今日は出仕するとは聞いておらなんだが、いかがしたか」
「はっ、北条左京大夫氏政殿より某へ宛てて書状が送られて参り、殿へもご相談せねばならぬことがあり、罷り越した次第」
酒井左衛門尉は懐から書状を取り出すと家康へ手渡し、書状を受け取った家康もまたすぐに書状を開き、内容把握に努めた。
「ほう、わしが送った起請文や上総介殿引き渡しの際に人質を出したこと、たいそう左京大夫殿は喜んでおられるようじゃ」
「やはり殿の目から見てもそう映りますか。書状にもあります進物の馬一疋はひとまず城内の馬屋へ預けてございます」
「後ほど確認するとしよう。今はそれよりも北条家は我らと手を結ぶこととしたのでそなたに対応を依頼すると記してあるが、此度参ったのはそのことじゃな?」
にやり、と笑う家康に酒井左衛門尉はいかにもその通りだと頷いた。まさしく、その文を見て主君へ相談せねばならぬと思い、登城したのだから。
「さりとて、北条家との同盟は願ってもないこと。断る謂れが見つからぬ」
「では、北条家との同盟を受けるとのこと、某からも書状を北条助五郎氏規殿へ送っておきましょうぞ」
――北条助五郎氏規。家康にとっては駿府時代、ともに関口刑部少輔氏純の娘婿として屋敷も隣り合わせであったことから親しく交流していた人物である。
北条家が武田家との戦いを開始するまでは三崎城を拠点として房総半島への軍事行動を担っていたが、水軍衆を率いていることもあって武田家の備えとして韮山城に入って伊豆防衛を担っている北条左京大夫氏政の同母弟であり、北条相模守氏康の四男でもある。
そんな北条家の一門を取次に据えるあたりに北条氏政が徳川家と同盟を結ぶことに乗り気である様子が窺い知れる。
「とは申せ、あの助五郎が当家との外交担当となる日が来ようとは思わなんだ」
「某も駿府におる頃、幾度もお見かけした御仁にござれば。たしか殿より齢は三ツ下にございますから、今は二十五歳となっておりましょうか」
「そうであろう。されど、北条家へ戻る折に関口家の姫とは離縁したゆえ、駿府におった頃のように相婿の間柄ではなくなってしまったが、あの折のことはよく覚えておろう」
「はい。おそらく、左京大夫殿もそのことを思って、当家の取次としたのでございましょう」
「そうであろうな。そなたからは挨拶代わりに助五郎殿へ書状を送っておくがよい。わしからは左京大夫殿へ同盟締結の件謹んでお受けいたす、と記した書状を送っておくとしようぞ」
かくして、今川氏真と和睦する過程で和睦することとなった徳川家と北条家は北条家からの申し入れもあり、関係を和睦から同盟へと進展させることとなった。言うまでもなく、このことは北条家と戦争状態にある武田信玄を激怒させることになるのだが、それはまた別の話――
こうして怒涛の永禄十二年五月も瞬く間に過ぎ去った。
そんな中、閏五月三日、家康が同盟を締結した北条家でも一つの動きがあった。
北条氏政の長男・国王丸へ今川家の家督を譲り、隠居の身となった今川氏真は正室・春姫や娘といった親族とともに蒲原城から駿東郡南部に位置し、北条家の領国である伊豆にも近い沼津へ移されていた。
「あなた様、わたくしが嫡男を産めなかったばかりにこのような仕打ちを受けることになったこと、謝らせてくださいまし」
「何を申すか。子宝は神仏からの授かり物じゃ。そなた一人が悪いのではない」
「されど……」
「単に男子が欲しいのなら、わたしが側室を持てばよいだけのこと。されど、そうしなかったわけが分かるか」
未だ氏真は側室を持たず、正室・春姫だけを妻として傍に置いていた。それは政略結婚であったとはいえ、春姫のことを大切に思っているからに他ならない。
「今すぐになどとは言わぬ。いつか必ず、男子を産んでくれれば良いのじゃ。まあ、わたしは娘とこうしてのんびりと日常を送り、和歌や蹴鞠に打ち込む日々の方が楽しいと思えておるが、それもそなたと出会えたがゆえのこと。感謝しておる」
「はい、あなた様……!」
たしかに氏真に嫡男がいれば今川家の家督を国王丸へということにはならなかったかもしれない。しかし、それでも義兄・氏政は国王丸を養子としてねじ込んできた可能性は十分あり得るのだ。
そう考えれば、別に男子がいようといまいと、北条家を頼った時点でこうなる運命だったのかもしれないと氏真は考えるようになっていた。
「春よ、沼津という地にわたしは駿河国主でありながら、こうして心を穏やかにして滞在することなどなかった。まったく情けない限り。領主たるものが領土をくまなく見て回ったことがなかったとは、良い笑い種となろう」
「されど、あなた様はそれを感じ取れる豊かな感性をお持ちなのです。わたくしは懸川城をお出になられてからの方が生き生きしておられるようにお見受けします」
「そなたの目にそう映るのであれば、そうなのであろう。たしかに家督を譲ることは屈辱ではあったが、隠居して以来、肩の荷が下りたような心地がする」
「駿河国主として駿河国を回復することを目指されるのも良いですが、何よりもあなた様が幸せにしておられる。亡き御父上も今のお姿を見れば嘆かれるやもしれませぬが、同時に我が子が生き延びて生き生きとしていることを喜んでおられるのではと思いまする」
春姫の言うことに氏真は驚きつつも、彼女の言わんとすることが何であるのか、その一端を父親となった今ならば理解できるような気がした。我が子の幸せをひたむきに願う親の心、というものを。
「ふっ、そうやもしれぬ。父上は厳しいお方であったが、いつも愛情を持って接してくだされた」
「はい。人のことを思える、慈悲深いお方でした」
「父上の一周忌、三回忌、七回忌の法要は駿河で執り行うことができた。されど、このままでは三年後の十三回忌を駿河で安心して執り行うことができなくなってしまう。ここは何としても武田を駿河から駆逐し、盛大に駿河で法要を執り行いたいものよ」
「なるほど、そのようにお考えでしたか。それならば、上手く父や兄をお使いください」
「なっ、舅殿と義兄殿を……!?」
尊敬する父・今川義元の十三回忌法要を駿河で盛大に執り行いたい。そのためにも、氏真は駿河を武田から奪い返したいと思っていたのだ。
そんな氏真の想いをしっかりと受け止めた春姫からの衝撃的な発言に、氏真は素っ頓狂な声を出してしまう。
「あなた様、この世は乱世にございます。此度の今川家の家督のことは兄に上手く使われてしまいましたが、今度はあなた様が兄を上手く使うことにございます」
「そなたの方がよほどわたしよりも大名に向いておるわ。されど、申すことはまことその通りじゃ。ならば、このように沼津で大人しくしている道理はない。義兄殿からは御料所のことを任されておるのじゃ。それを利用して御料所を守るためと称して拠点を一つ築かせていただこう」
春姫と話すうちに成すべきことを見極めた氏真は、すぐにも氏政へ新たな拠点の構築を打診。十二日後の十五日には駿河の南東端で伊豆にも隣接している今川家御料所の一つ、大平郷に入り、同地に大平城を築いて新たな拠点としたのである。
「あなた様、無事に一城の主となられましたね」
「そなたの助言のおかげじゃ。隠居として国王丸を後見するにあたり、拠点が欲しいと申し入れ、わたしが御料所のことを任されている立場から御料所に城を築いても良いかと申し入れたところ、二つ返事で承認していただけた」
「兄も悪人ではございませぬ。おそらく、あなた様の想いを受けて、それに応えようという気になったのでございましょう」
氏真もそうなのだろうと思った。おそらくは義兄・氏政も義弟の覚悟のほどが確認できたのが嬉しかったのかもしれない。
「この城の北と東に流れる狩野川があることから、攻め口を西と南に絞り込める要害じゃ。さりとて、武田軍を防ぐには事足りぬであろうが」
「ですが、この狩野川を挟んで通る下田街道の東に位置する韮山城には兄の助五郎も控えて伊豆の防衛を担っておりますれば、すぐにも後詰めが受けられる地にございます」
「その通りじゃ」
春姫の観察眼に驚きながら、氏真は新たに築いた大平城から南西の駿河湾を望む。丘陵上に築かれた城からは周辺を遠望することができ、敵の接近にいち早く築くことのできる好立地。
されど、急ごしらえの城であることから、武田軍相手では守り切れる城でないことは氏真も承知のうえである。
「されど、兄上はわたくしたちを蒲原城から伊豆に近い地へと移されましたが、一体何をお考えなのでしょうか」
「おそらく、蒲原城にいてはせっかく庇護した我らの身が危ういとの考えであろう」
近ごろ、武田信玄が帰国した甲府では米の値が急騰し、軍備の増強を進めているとの報せが隣国駿河にまで届いていた。
「薩埵峠に本陣を置いていた義兄殿も伊豆の三島へ退かれたのも、武田軍に背後を衝かれるのを恐れたからであろう」
「なるほど、薩埵峠も蒲原城も富士信忠殿が抵抗しておられる大宮城に近接している駿州往還を通れば背後を衝かれてしまいまする……!」
「そうじゃ。信玄を興津城に縫い付けるうえでは最適の布陣地であったが、信玄が甲斐に戻ったとあっては危うい。今度は義兄殿が退路を断たれることとなるゆえ、我らともども伊豆方面へ逃がしたのであろう」
これまでまともな勝ち戦の経験がない氏真ではあったが、数多の敗戦を経て確実に戦術眼を肥やしつつあった。
「されど、腑に落ちぬのが、信玄めがこれ見よがしに戦支度をしておることじゃ」
「戦を始めるとなれば、そういうものなのでは?」
「いや、昨年十二月に侵攻してきた折のことを思い出してみよ。駿府に報せがあったのはすでに侵攻を開始したとの報せであった」
「思い出してみればそうでございます」
「やろうと思えば、秘かに戦支度を整えられるにもかかわらず、今から攻めると言わんばかりに支度しておるのが引っ掛かってならぬ」
大平城を拠点とした氏真は不安な眼差しで遥か北の甲斐を睨む。甲斐の虎に何か思惑があるに違いないと察知しながら――




