第267話 新たな今川家当主・今川国王丸の誕生
大井川にて北条左衛門大夫綱成率いる北条軍に身柄を引き渡された氏真一行は道中、武田軍が籠城に徹していたこともあって接敵することなく、懸川城を開城した二日後の五月十七日、無事に蒲原城へ入城した。
「上総介殿、よくぞご無事で」
「これは左京大夫殿。此度は援軍をはじめ、何から何までお世話になりました」
「これしきのこと、感謝されるほどのことではござらぬ。明日にも書状をしたため、義弟殿が蒲原城へ入ったことは父上たちにも知らせておきましょうぞ」
薩埵峠の本陣を離れ、本陣から東へ行ったところにある蒲原城へ北条家当主・北条左京大夫氏政直々に訪ねて来ていたのである。
氏政の生母・瑞渓院は氏真にとって叔母にあたることから、氏真と氏政は従兄弟の間柄で共に天文七年の生まれである。そして、氏真は正室として氏政の妹・春姫を娶っていることから、二人は義兄弟でもあった。
そんな親戚関係にある今川家当主と北条家当主は無事に対面を果たし、再会を喜び合った。実に永禄六年に氏真が北条家の援軍として関東へ出陣した時以来、六年ぶりの再会である。
「兄上、此度の支援、まことにかたじけのうございます」
「おお、春か。壮健そうで何よりじゃ。駿府から懸川まで武田軍に追われて徒歩で向かったことは耳にしておる」
「はい。そのことで父上がお怒りになられ、武田との全面戦争を決意したと援軍に参られた大藤式部丞殿からも聞いております」
「そうなのじゃ。まったく、あの折の父上の怒りようは鬼神の如き様であった。評定の場で誰も物申せないほどであったわ」
久方ぶりに妹に会えたのが嬉しいのか、氏政は声が普段以上に弾んでいた。これまで舅である武田信玄と三ヵ月もの長き渡って対陣していたこともあり、その緊張の糸が緩んだかのようであった。
「義兄殿、それほどまでに舅殿はお怒りだったので?」
「うむ、目の前に信玄がおったならば八つ裂きにされておったでありましょうな。ははは……!」
「さ、左様で……!」
氏真も舅・相模守氏康に会ったことは数えるほどしかないが、到底そのように激怒するような人物には見えなかったが、それだけにあの刀創の残る強面の舅が怒ったらさぞかし怖かろうと内心ではひやりとしていた。
「それはそうと、義弟殿。此度遠江を領有なされた徳川三河守殿はいかなる人物であろうか。助五郎から聞く限り、才気煥発な傑物といった心証なのですが」
「ふむ、書物を好みますゆえ、確かに才気煥発とは申せましょう。こと戦においては城攻めよりも野戦を得意としておることは某も戦ってみて感じたところ。加えて、行動は慎重で石橋を叩いて渡るところがあるが、一度渡ると決めれば脱兎の如き勢いで渡ってしまう男にござる。何より、肝が据わっており、諦めも悪い」
「ほう、そのような人物であったか。して、三河と遠江の二ヶ国を治める器量はあろうか」
「私よりも政は上手であると存じます」
「そ、そうであるか。ならば、手を組んでも問題ない相手であるわけですな」
「いかにも。加えて譜代の家臣らの忠誠心たるや凄まじいものがあり、彼らが主君の至らぬところを絶えず助けておるとも見受けられる」
「いやはや、それだけ聞ければよろしゅうござる。あまりに同盟相手として頼りないのでは困ると思い、試みに問うてみたまで」
氏政は氏真から新たな同盟者である徳川家康がどのような人物であるかを聞いて満足したのか、それからは酒宴へと移った。
「義弟殿!駿河へ結集させた当家の主力に睨みつけられ、興津城や久能城の武田軍は鳴りを潜め、信玄も甲府から一歩も出てこられぬと言うではないか!駿河西部の義弟殿のご家来衆と協力致せば、あっという間に武田を駿河から駆逐できましょうぞ」
「い、いかにも……」
悪酔いしたのか、氏政は自慢話とも取れる話を氏真に披露し、大笑いしている。それを囲む北条の一門や重臣らも酔っ払い、武田など敵ではないと豪語してやまなかった。
そんな中で一人、酒に酔うことなく冷静に状況を理解しようとしていた氏真はある違和感を感じていた。あの怒涛の勢いで駿河侵攻を成した信玄が甲府から動かないのは恐れをなしたからではないのでは、ということである。
実際に信玄の軍略で大敗を喫した氏真だからこそ、信玄が何もしないなどということはない。何もしていないように見えて、裏では調略を仕掛けたり、何か謀略を練っているのだと。
ということは、甲府に戻った信玄は再度駿河へ攻め入る手立てを考えているはずであり、近日中に何か動きがあるというのが氏真の考えであった。しかし、北条家の庇護を受けている身の上では偉そうに進言することもできず、氏真は沈黙するほかなかった。
それから六日が経過した同月二十三日、氏政から氏真へ、今川家の命運を大きく変える申し出がなされることとなる。
「義弟殿、よろしいか」
「何でございましょうか、義兄殿」
武田軍の動向を窺うべく一度薩埵峠の本陣へ戻っていた氏政は再び蒲原城へやってくると、すぐにも義弟・氏真を呼び寄せた。
「我が長子、国王丸を養子にしてはいただけますまいか」
「はっ、それはいかなることに……?」
「言葉通りのことじゃ」
「されど、国王丸殿は義兄殿とご正室との間に生まれた嫡男にござれば、それを我が養子にとは……」
氏政からの思いがけない提案に氏真も戸惑った。氏政が養子に出すと言っているのは正室である武田信玄の長女・梅姫との間にもうけた長男・国王丸。永禄五年の生まれであり、今年で齢八ツとまだ幼かった。
そんな国王丸を養子にしてはくれないか、という氏政の本心を氏真も掴むことができなかった。
「たしかに私から見れば叔母の孫、すなわち従甥であり、我が妻にとっては甥でもあります。されど、今川家の血が濃いとは言えず、当家の家臣も納得せぬ者が現れようかと」
「いかにも。されど、義弟殿が我が妹との間にもうけられた四歳になる娘がおられたであろう。国王丸と娘御を娶わせたうえで婿養子とするならば皆も納得するのではござるまいか」
「そ、それは……」
実質的には今川家は北条家の属国となるも同然となってしまう。それゆえに、氏真としては心理的に抵抗感を拭えない提案であった。
「これより先、武田軍と戦うのは某となる。そうなれば、駿河支配と今川家臣の動員が伴うことはご理解くだされよう」
「それは理解できまするが……」
「一つの船に船頭が二人もおったのでは進む方向も惑う。それゆえに、駿河支配権を一時的に某へ委任したうえで、今川家臣も某の軍事指揮下に置かせていただきたい。無論、駿河を武田から奪還するまでの一時のこと。無事に奪還が成せた暁には、すべて元の通り義弟殿へお返しいたそう」
氏真としてもそのくらいのことをしなければ、武田方との抗争に北条軍が柔軟に対応できないことは想像できる。
何より、この申し出を断り、北条家が駿河から撤兵すると言い出したならば、生涯駿河の土を踏むことはできず、駿河は武田のものとなってしまうことは想像に難くない。
「じゃが、当主である某が駿河の支配権を委任され、今川家臣団を指揮下においたのでは今川家を乗っ取ったと思われても致し方ない。それゆえに、今川家の名跡を国王丸へ譲っていただき、そのうえで某が後見するという形を取らせていただきたいのです」
名跡を譲ると言えば聞こえは良いが、要するに今川家の家督を国王丸へ譲れと氏真に要請しているのである。それが理解できない氏真ではなく、北条家を頼りにするしかない以上は返答など初めから決まっていた。
「承知いたしました。然らば、家督を国王丸殿へ譲り、私は隠居いたしまする」
「義弟殿、まことかたじけない。されど、国王丸は未だ八ツと幼く国政を担えませぬゆえ、引き続き小田原へ居住させていただくことでよろしゅうござるか」
「それは北条家のこと、義兄殿の差配にお任せいたします」
「うむ。以後は、軍事や領国支配のことは国王丸の父として某が後見いたしますが、駿河での御料所などへの支配は義弟殿に引き続き行っていただきたい」
「はっ、承知いたしました」
かくして軍事に関することは今川氏真の婿養子となる国王丸の実父である氏政が担当し、御料所などの支配は隠居後も氏真が行うことで話はまとまった。この養子縁組を取り決めた後、氏政は駿河を離れて伊豆国三島へと退陣していったのである。
それから五日が経過した二十八日未明。駿河支配権が氏真から氏政に委任されることが正式に決定され、今川家家臣は氏政の軍事指揮下に置かれることとなったのである。さらに、この日のうちに氏真は今川家の家督を国王丸へ譲り、隠居の身となったのである。
「よもや齢三十二で隠居の身となろうとは思いもせなんだ……」
「あなた様……」
弘治三年に父・今川義元に家督を譲られて以来、足かけ十三年間を今川家当主として歩んできた氏真にとって、今川家当主という肩書を失ったことは大きな喪失感を伴うものであった。そんな夫・氏真の悲しみに正室・春姫は寄り添い、夫が何か話し出すのをただ静かに待っていた。
「私はどこで道を誤ったのであろうな」
「春はあなた様が道を誤ったなどと思ったことは一度たりともございません。どうか、ご自分を責めないでくださいまし」
駿河を奪還するためとはいえ、家督を婿養子となった国王丸へ譲ることになったのは氏真としても納得のいくことではなかった。だが、北条家に支援なしに駿河を回復できない以上、言われたことに従うほかない、つらい立場であったのである。
そんな氏真が苦しい想いを抱きながら今川国王丸へと家督を譲ったことは数日後の閏五月三日には朝比奈備中守泰朝や岡部五郎兵衛元信といった今川家重臣へも伝達された。
「なにっ!弥太郎!今一度申してみよ!」
朝比奈弥太郎泰勝から氏真が北条左京大夫氏政の長子・国王丸を婿養子としたうえで今川家の家督を譲ったことを聞かされるなり、岡部五郎兵衛は憤怒の面持ちで朝比奈弥太郎の胸ぐらをつかんだ。
「五郎兵衛殿!やめぬかっ!」
「ちっ!」
側で同じ報告を聞いていた朝比奈備中守に制止され、岡部五郎兵衛は朝比奈弥太郎を放した。されど、到底納得できたものではないと顔に書いてあるかのような表情のままである。
「然らば、戦の折には我らは御屋形様ではなく、左京大夫殿の指揮下に入らねばならぬのだな」
「はい。国王丸様はまだ八ツにございますゆえ、引き続き小田原へ居住するとのこと。軍事については父として国王丸様を後見する左京大夫殿へ従うようにと御屋形様……御隠居様は仰せにございました」
長年言いなれてきた『御屋形様』が『御隠居様』となってしまった。そのことを言い間違えて改めて口惜し気にする朝比奈弥太郎を見て、朝比奈備中守は目を閉じ、どう言葉をかければよいのか分からずにいた。
そんな中、岡部五郎兵衛は右脇に置いていた刀を左脇に置き換えると、その刀を手にして部屋を出ていこうとする。
「待たれよ、五郎兵衛殿!何処へ行かれる!」
「ふん、決まっておろうが。甲斐へ向かうのよ」
「なにっ!お主、当家を裏切り、武田につくつもりか!」
「裏切るとは心外な!主家を乗っ取った北条と戦うため、武田に降るのよ!」
「血迷ったか!北条は当家の駿河支配を回復するべく、力添えしてくれておる!此度のこともその一環であろう!」
「ははは、臆しておるのであろう。あの朝比奈備中守ともあろう豪傑が情けない限りじゃ。所詮武田も北条も駿河が欲しくてたまらないのじゃ。御屋形様が他に頼れるところがないという足元を見て、我が子へ家督を譲らせる卑劣な北条なんぞに駿河をくれてやるくらいならば、武田の方がまだ幾分かましであろう!」
「くっ!どうしても行くというのか……!」
岡部五郎兵衛の申すことにも一理ある。そう思ってしまっただけに、朝比奈備中守は手が震え、刀を抜くことなどできなかった。
「某を斬ると申されるならば、それも結構!斬れるものなら斬ってみよ!」
「くっ、くそっ!」
ついに朝比奈備中守は岡部五郎兵衛を斬れなかった。長らく戦場を共に生き抜き、今日までやってきた戦友を斬る刀は持ち得なかったのである。
朝比奈備中守が刀を床に取り落としたのを見届けると、岡部五郎兵衛はわずかな手勢を連れて蒲原城を出て、甲斐へと向かったのである。
武田に与しようが、北条に与しようが、これまでの今川家ではいられない。今川のためだと言われて北条にこき使われるくらいならばと、無二の忠臣は武田へ仕官するべく駿河を去ってしまったのである――




