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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第264話 懸川城の開城交渉、成る

 四月二十四日に武田信玄が駿河から撤退し、同月二十八日に甲府へ帰還した。この機を見計らっていたかのように、徳川・今川両氏の和睦交渉はとんとん拍子で進んだ。


 それでも十日近くの時を要し、明けて五月六日に双方納得のいく条件での和睦が調い、今川氏真は懸川城を開城し、これを徳川軍に引き渡すこととしたのである。


「御屋形様、ようやく徳川との戦も終わりとなりましたな」


「うむ、城主である備中守には多大なる迷惑をかけたが、よくぞこれまで忠勤に励んでくれた」


「はっ、それは譜代の重臣として当然の務めを全うしたまでにございまする。されど、御屋形様は戦を続けられるとのこと、某も同行する所存にございまする」


「頼りにしておるぞ、備中守」


 氏真と齢も近い懸川城主・朝比奈備中守泰朝は居城である懸川城を徳川方に引き渡した後も氏真に随行することを望んだのである。


「御屋形様、然らば某は和睦が成せたことを報せる書状を薩埵峠に在陣しておられる北条左京大夫殿のもとへ届けて参りまする!」


「おお、弥太郎か。武田の本隊が撤退したとは申せ、興津や久能には武田軍が駐屯しておる。決して油断するでないぞ!」


「ははっ!気を付けて行って参りまする!」


 氏真の側で奉公し続け、たゆまず奉公を続ける齢二十三の若武者・朝比奈弥太郎泰勝は徳川との和睦成立を報せる氏真直筆の書状を薩埵峠に布陣する北条左京大夫氏政へ届けるべく、良馬に跨り出発していく。


「おお、御屋形様。こちらにおられましたか」


「五郎兵衛か。そちも薩埵峠から撤退する折からよくぞ付き従ってくれた。改めて礼を申すぞ」


「はっ、恐悦至極に存じまする。されど、これも武士として当然のことにございますれば」


「ははは、だとすればこれまでに予を裏切った者らは武人ではないということになるか」


「いかにも。あのような形勢ばかりを伺って主君を捨てるような輩は武人の風上にも置けぬ卑怯者にござれば」


 そう言って憚らないあたりが実に岡部五郎兵衛元信らしいと氏真は思った。九年前の桶狭間合戦にて氏真の父・義元が織田信長に討たれた後も鳴海城で頑強に抵抗し、織田軍の猛攻をはじき返した忠義者は言うことが違うと思わされる氏真なのである。


「次郎左衛門殿は御屋形様には同行せず、武田へ降ると申しておりましたが、それはまことにございまするか」


 そんな古強者・岡部五郎兵衛は氏真に詰め寄る。その内容は朝比奈備中守とともに駿越交渉の取次役を務めるほどの重臣であった三浦次郎左衛門氏満が武田へ降伏するとの情報を見聞きしたからでもあった。


「うむ。そのようじゃ。同族で薩埵峠での決戦時に予を見限った三浦義鏡に誘われたらしく、三浦氏の所領のある地へ向かうと申しておった」


「ちっ、あの裏切り者めが」


「五郎兵衛、やめぬか。これまで共に籠城してきた戦友とも言うべき者であろう」


「されど、御屋形様を見捨てて武田の傘下に収まることに変わりございませぬ」


「じゃが、これは予も承知の上じゃ。武田には降るが、決して当家に刃は向けぬとも申しておった」


「そのようなこと、信用できませぬ。いっそこの場でお手討ちあそばされ、後日の憂いを断つのも手ではないかと」


 岡部五郎兵衛は忠誠心が高いがゆえに強情であった。だがしかし、氏真があまりにも庇うので、あきらめたらしかった。


「加えて、次郎左衛門の生母である長松院は伊勢宗瑞公の娘。北条家当主の左京大夫殿から見れば大叔母にあたり、先代当主で我が舅でもある相模守殿から見れば叔母でもある。そのため、どうか相模まで身柄を送り届けてもらえないかとも頼まれておる」


「よもや、お引き受けになられたので?」


「当たり前であろう。左京大夫殿にとって大叔母にあたるならば、我が正室春姫から見ても大叔母にあたるゆえな。丁重に北条領国まで送り届けるが筋であると思っておる」


「な、なるほど。されど、なおのこと武田へ降る理由が見つかりませぬ。北条領国へ入れば、北条家当主は母方の縁者にもあたり、同族として遇されるであろうに――」


 岡部五郎兵衛はそこまで口にしてはたと口の動きを止めた。同席している朝比奈備中守も何か気づくことがあったのか、押し黙る様子を見せる。


「よもや、次郎左衛門殿は北条家の一族として遇されれば御屋形様の家来ではいられなくなるから、武田へ降ると申したのでは?」


「ふっ、その通りじゃ。わしと同じく北条家の縁者ともなれば、今川家臣としては分不相応な立場を与えられることとなる。そうなれば主従関係があいまいとなることも有り得る。それならば、自分は最後まで駿河三浦氏の者として駿河に生きたいと直談判して参ったのじゃ。されど、老いた母だけは北条へ送り届け、静かに余生を過ごさせてやりたいという親孝行なのじゃ。分かってくれたか、五郎兵衛」


 岡部五郎兵衛はそう聞かされては返す言葉もなかった。齢二十二と若いながら何と見上げた忠誠心と孝心溢れる武士であろうかと、岡部五郎兵衛は強く胸を打たれるものがあった。形こそ違えど、それは立派な忠義を全うする武士としての在り方であった。


 そうして真実を知った朝比奈備中守と岡部五郎兵衛の両名が押し黙っていると、氏真の正室・春姫と、四歳になった娘が氏真の妹で武田太郎義信の正室であった貞春尼に手を引かれてやって来たのである。


「あなた様、ついに籠城しての戦は終わりなのですね」


「うむ、そのような運びとなった。厳しい戦いが続く中、よくぞ耐え抜き、娘の面倒も見てくれた」


「それが母としての務めにございましょう。貞春尼さまも常に側に居てくださいましたし、不安がなかったとまでは申しませぬが、随分と不安は軽かったように思います」


「そうであったか。先ほど、弥太郎に予の書状を持たせ、そなたの兄上のもとへ向かわせたところじゃ」


「まあ、そうでしたか。兄は薩埵峠に布陣しておるのでしたか」


「敵に見つからぬように向かわねばならぬゆえ、二日三日かかるのではなかろうか」


「さようにございますか……」


 見知った者が命を落とすことなど珍しくもない戦国時代。春姫にとっては夫によく仕えてくれている忠臣が無事に帰ってこれるのか、それが心配でならない様子であった。そんな春姫の衣の袖を引く幼い娘の顔を見て、心配させてはならぬと春姫はあやし始める。


 そんな春姫の様子を横目に、氏真の妹・貞春尼が膝を進める。


「兄上、武田との戦はまだ終わらぬのですか」


「当り前じゃ。徳川家と北条家の力を借り、せめて駿河一国は取り戻さねば父祖に顔向けできぬ」


「されど……」


「これは戦のことじゃ。女子が口を挟むことではない。して、他の女房衆はいかがしておる」


 ぴしゃり、と妹・貞春尼が過ぎた口をきくのを制すると、氏真は話題を他の女性陣へと変更していく。


「大叔母上は変わりございませぬが、伯母上は随分お気を落とされているご様子」


「そうか、やはり先月夫である中御門宣綱公を亡くされたのが響いておるのであろう」


 氏真と貞春尼の言う大叔母上とは、祖母・寿桂尼の妹で山科言綱後室にあたる御黒木殿のことである。そして、夫を亡くして気落ちしているのが叔母である中御門宣綱の妻である。


 叔母婿・中御門宣綱は駿府からの逃避行にも同行し、懸川城へと入っていたが、籠城戦が続く中、先月病にて死去してしまったのである。享年五十九。権中納言でもあったことから死に際し、従二位に叙されている。


 そんな夫・中御門宣綱を亡くした悲しみから、その妻である氏真と貞春尼の叔母は気分が沈みがちになっているというのが、貞春尼の申し伝えたいことであった。


「されど、夫を亡くした悲しみはそなたの方が寄り添えよう。叔母上のこと、頼んでも良いか」


「ええ、もとよりそのつもりでございます。兄上も時間がございましたら一度、叔母上に会って差し上げてくださいませ」


「そうするとしよう。左京大夫殿からの返答が届けば、また忙しくなろうし、明日にでも見舞いに行くとしよう」


「分かりました。では、叔母上にもそのこと伝えておきます」


 教養豊かな貞春尼は公家出身の女性たちとも文化的な話ができる貴重な人材であり、籠城する以前から一族の女性陣の取りまとめにおいて活躍していたのである。


 そうして氏真が懸川城中で重臣や家族と戦以外のことで話をしている間も薩埵峠の北条左京大夫氏政の陣を目指して移動し続けた朝比奈弥太郎は武田方に発見されることなく、出発から三日後の五月九日、やっとのことで薩埵峠へ辿り着いたのであった。


「申し上げます!懸川城よりの使者、朝比奈弥太郎泰勝と申す者が到着!」


「おお、左様であったか。これへ通せ」


「はっ!」


 今川家臣・朝比奈弥太郎泰勝が到着したと聞き、信玄を取り逃がしてやけ酒に走っていた北条左京大夫氏政は盃を置いて喜色満面で使者を出迎えた。


「左京大夫様、今川家臣の朝比奈弥太郎にございまする」


「うむ、よくぞ参った。懸川から薩埵峠までさぞかし大変な道のりであったろう」


「はっ、久能城や興津城、駿府館には武田の軍勢も多く駐屯しておりますれば、見つかってはならぬと身を隠しながら参りました」


「そうであったか。して、そこまでしてここまで参ったのには何かわけがあろう」


 使者として赴いた理由を問われた朝比奈弥太郎は懐に忍ばせていた氏真直筆の書状を氏政へ披露する。その書状を近侍から受け取った氏政は一読すると、安堵の笑みをこぼした。


「ついに徳川との和睦が成せたか。それは祝着至極」


「はい。懸川城の引き渡しは六日後の十五日となっておりまする」


「承知した。当家から陸路で迎えの軍勢を向かわせたいが、当家の軍勢が進めるのは駿河国内までとなる」


「なるほど、遠江はすでに徳川の領国であるため、和睦も同盟も結んでいない北条家の軍勢を入れるわけには参らぬというわけですな」


 朝比奈弥太郎の確認に北条左京大夫はこくりと頷いてみせる。朝比奈弥太郎の言ったとおり、北条家にとって徳川家は婚姻同盟を締結している今川家が和睦を結んだ相手に過ぎず、直接同盟関係にあるわけではないためである。


 そのため、北条家から派遣する氏真一行を迎える軍勢は駿遠国境の駿河側までしか進めないのである。


「ゆえに、このことを懸川城におられる上総介殿へお伝え願いたい。駿河との国境までは徳川の軍勢を派遣していただきたい旨と、上総介殿一行の身柄を引き渡すうえで徳川家とも和睦を締結させておきたいとの旨を上総介殿を通じて三河守殿へ要請していただきたい」


「承知いたしました。当家も関わることにございますれば、戻り次第、ただちに主へ伝えておきまする」


「しかとお頼みいたす。それと、遠江との国境まではそこに控えておる北条左衛門大夫綱成率いる玉縄衆を向かわせるゆえ、よしなに頼む」


 氏政が示す先へと朝比奈弥太郎が視線を動かすと、そこには気配すら感じさせずに同席していた百戦錬磨の猛将・北条左衛門大夫綱成の姿があった。


「なんと、二十数年前の河越夜戦にて武名を轟かせた左衛門大夫殿を向かわせていただけると……!」


「いかにも。当家の北条五色備では黄備えを受け持ってもおる精鋭揃いの隊ともなるゆえ、ご案じなくと上総介殿へ合わせてお伝え願いたい」


「はっ、しかと承りましてございます!では、某はこれにて失礼いたしまする!」


 そう言って朝比奈弥太郎が氏政に一礼して立ち去ろうとしたところで、聞いただけで身動きを止めてしまうような覇気に満ちた声に呼び止められる。


「待たれよ、朝比奈殿」


「はっ、何でございましょう」


「某の見るところ、貴殿が乗って参られた馬は疲れ切っておろう」


「はい、その通りにございまするが……」


「某の隊から良馬を一頭お出しいたすゆえ、乗って帰られるがよい」


「さ、されど、そのようなことは左京大夫殿もお許しに――」


 さすがに北条家の軍馬を借りるわけにはいかないと氏政へ視線を送る朝比奈弥太郎であったが、その返事は朝比奈弥太郎が氏政と目が合う前に帰ってきた。


「許す!大事な使者じゃ、馬が疲れておって城へ帰りつくのが遅れるなどということがあってはならぬ」


「……お許しも出た。馬は我が家臣に命じて表に連れてきてござる。遠慮せず乗って行かれるがよろしかろう」


「はっ、お心遣いに感謝いたしまする!然らば、これにて失礼いたしまする!」


 歴戦の強者とはこれほどの覇気が体から溢れるものかと驚きながら朝比奈弥太郎は北条家から与えられた良馬に跨り、懸川城までの帰路につくのであった。

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